第七話
「あの子が…芹羽…?」
声が震える。悪いことをしているわけではないし、脅されてるわけでもない。それなのに、声は震え視線が定まらない。
「はい。市川芹羽、本人ですよ」
「…そっか。そうだったんだ…」
「急にこんなこと話してごめんなさい。悪いことを考えてるわけじゃないんです」
「でも、先輩には伝えておきたかったんです。私が何で先輩を想っているのか。本気だってことを」
彼女が私を求めることに、何か理由があることはわかっていた。真面目な彼女のことだから、顔とか身体…だけじゃないってことも。
でも、中学生のころに出会っていたなんて話は予想していない。
「中学ってことは…私が三年のころの話だよね?」
「はい。先輩が三年生、私が一年生です」
ということは、中学で二年間。高校で三年間。大学で四年間。社会人で…一年くらい。
「十年…」
「正確には、十年と六ヶ月です」
「十年と六ヶ月、先輩のことを毎日想っていました。どんな日でも。ずっと」
信じられない。
「少しだけ、重い話をしてもいいですか?」
「もう重いですけど」と彼女は笑いながら続ける。
「先輩とお話をしたのは、あの雪の日だけです。しかも、二十分くらいのことです」
「あの頃の私は色々あって、死んじゃおうと思ってたんです。詳しくは話しませんけど、自分で描いてた漫画が原因で」
「今思えば大したことでもないのに、まだ子供だったんですかね」
死ぬって、芹羽が…?誰よりも明るくて、死とは対極の位置にいるような彼女が。
「だから、その時描いてた漫画を描き終えたら、すべて終わらせるつもりでした」
「でも、あの日先輩に出会って、私が描いた漫画を読んでもらって…」
彼女の声が震えているのがわかる。
「あの日の先輩からしたら多分、何気ない世間話みたいなものだったと思うんです。でも…」
「私にとっては、あの瞬間が一生忘れられません」
泣いているのに、いつもの咲くような笑顔をしている。あの日私は、彼女に何をしてあげたんだろう。
「先輩が何を言ってくれたか、ヒントをあげます」
「昔の私は、どんな子でしたっけ?」
さっきも答えたことだ。記憶の海から一つ一つ探っていけば、きっと思い出せる。
「文学少女みたいな子だった。髪が長くて、眼鏡をかけてて」
「正解です。じゃあ、その文学少女の芹羽ちゃんは、どんな漫画を描いていましたか?」
記憶が繋がってきた。朧げだけど、あの日の景色が脳裏に浮かぶ。
「恋愛漫画…。ハッピーエンドが良いって言った…」
覚えていた。記憶の奥底に仕舞われていただけで、ちゃんと残っていた。
「──あの漫画のヒロインの子を目指せばいい」
「正解…です」
「みんなの人気者の芹羽ちゃんの正体は、自分で描いた漫画のヒロインを模倣したものでした」
「先輩、失望しましたか?」
何に失望をすれば良いんだろう。そんなもの、思い当たらない。
「芹羽は…ずっと、頑張ったんだね。わたしなんかよりも、ずっと」
ひざに顔を埋めて、涙を流す姿が目に映る。
「頑張りました…。何年も何年も。先輩にお礼を言いたくて。変わった私を見てもらいたくて」
「最初はそんな気持ちだけでしたけど、すぐに先輩が好きだってことに気がつきました」
「十年もかかっちゃいました」
視界が滲んで、目の前の芹羽の姿がぼやけて見えなくなる。
「あれ…ごめん…私、なんで」
一度決壊してしまったらしばらくは収まらないらしい。両目を押さえてもずっと涙が溢れてくる。どうして私が泣いているんだろう。
あのヒロインは明るくて元気で、可愛くてお洒落で。みんなに愛されるような人気者。そんなキャラクターだったと思う。
当時の芹羽とは似ても似つかない。
私が当時の芹羽に伝えたことに、深い意味はなかったのだと思う。ただ、思ったことを伝えただけ。
理由はわからないけど、死を選ぶほど追い詰められていた彼女を、そんな無邪気な私の一言で繋ぎ留められたのなら、本当に良かったと思う。
「どうして先輩が泣いてるんですか。私より泣いてるじゃないですか」
「わかんないよ。わかんないけど…多分、嬉しくて泣いてる」
あの雪の日に彼女に出会わなかったら、もう市川芹羽はこの世にいなかったのかもしれない。
そして、大人になって市川芹羽と出会わなかったら、武見陽絃という人間は、ずっと痛みから逃げ続けていた。
こんな奇跡みたいなこと、あるんだろうか。
気が付いたら芹羽の身体を抱きしめていた。触れ合った箇所から伝わる彼女の体温が暖かい。
「奇跡なんですよ…。あの雪の日に出会って、また会えて、一緒にいる。こんな奇跡…漫画みたいです」
人生とは奇跡の連続だと聞いたことがある。当たり前のように過ごしている毎日は、奇跡の連続によって成り立っている。確かに、そうなのかもしれない。
しばらくはこの暖かさと心地良さから離れたくない。お互いの泣きじゃくる声を聞きながら、そう思った。




