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無色透明に君が滲む  作者: 莉乃
彼女という色
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第一話

 昨晩から、どうにも脳の歯車が噛み合っていない。 水だと思って冷蔵庫から取り出したものは『白だし』だった。それに気が付いたのは口をつけたあと。喉を焼くような塩辛さに脳が警鐘を鳴らし、ようやく気が付いた。なので、今日の朝食は白だしの原液。しかも十倍希釈の濃いやつ。


 それ以降も散々だった。


 このブラウスには同色のパンプスを合わせると決めているのに、黒歴史一歩手前の厚底スニーカーを合わせかけ、乗り換え駅も一駅乗り過ごした。


 いつもより10分ほど遅れてオフィスに到着すると、この時間でもまだ誰も来ていないようで、窓から差し込む斜光が小さな私を照らす。まだ始業前なのに、本日数回回目のため息をつく。


 自席に座り、いつも通り出勤処理を済ませメールチェックに入る。



 メールチェックに入る……。何百回と繰り返してきた、呼吸と同じはずのルーチン。それなのに、手が止まる。頭の中に、昨晩どろりと流し込まれた声が響く。



 心音がうるさい。


 今日は昼までに会議が二つ。午後は珍しく会議が無いから溜まった作業をこなし、明日以降の自分のために余裕を確保する日のはずだ。


 だから切り替えろ。そう思っているはずなのに、心音は一向に収まらなかった。


    ◇


 メールの返信や、徐々に出勤してきた同僚たちと声を交わすことで、少しずついつもの感覚が戻ってきた。我ながら切り替えはうまい方らしい。


 嘘。


 切り替えられないから、こんな生き方を選んでいる。そんなことは自分が一番よくわかっている。


 またいつもの癖だ。すぐに思考の海に落ちてしまう。目を覚ますように頬をつねろうとしたその時だった。


「いとちゃーん!!昨日は本当にごめんね!!体調大丈夫?眠くない?ご飯食べれてる?早上がりしても大丈夫だよ!!!」


 フロア中の視線をすべて集め、ギャル、もとい上司の葉山はやまさんが出社する。


「おはようございます。全然大丈夫ですよ、子供じゃないんですから」


 苦笑しながら告げると、彼女は漫画のキャラクターのように大げさに安堵あんどの息をついた。


「ならいいんだけどさー。いとちゃん仕事に関しては『できない』とか『嫌だ』とか言わないからいつも心配で。無理しても良いことなんて無いんだから。あ、お給料は働いた分上乗せするけどね!」


 鞄からPCやスマホを取り出しながら彼女はまだ続ける。


「すべての依頼は百発百中…。どんな人かと問うてみれば、プライベートは謎に包まれたクールレディ…。武見たけみ 陽絃ひいと…恐ろしい女よ…」


 あなたもそう思わない?と、近くの席に座る同僚に声をかけて回る姿を見て頭が痛くなる。


 ずっと何言ってるんだこの人。


 とにかく会話のテンポが速すぎる。1投げたら10返してくるような人だから、話すときはそれなりに構えないといけない。


 一通り遊んで満足したのか、スッと雰囲気が変わり真剣な声色で労いの言葉をかけてくれる。


「正直、私の方で夜中にやっちゃおうと思ったんだけど、寝かしつけもあるし、社長案件でそこまで手が回んなくてさー。本当に助かったよ、ありがとね」


 ギャルと天才にお母さん要素を足した人。葉山さんはそういう人だ。まだ新人に毛が生えた程度の私よりはそれなりに年上だけど、管理職としては若く大人たちからの信頼も厚い。


 いつもは少し鬱陶しくも思うけど、今の私にはこの騒がしさが心地良かった。


    ◇


「ぐぬぬ…」


 両手でこめかみを抑え小さく唸る。隣の席の同僚から心配とも哀れみとも捉えられる視線を感じるけど、今はそれを気にする余裕はない。


 チャットツールに通知が一つ。普段見慣れないアイコンからメッセージが届いていた。


 午前中の会議はつつがなく終了し、急な差し込みもない。今の雰囲気だと、今日は平和に終わるだろう。


 ──混雑が緩和する頃合いを狙ってランチに行くはずだったのに。


 届いたメッセージをもう一度見てうなだれる。


『お疲れ様です!この後ランチしませんか?良いお店知ってます!静かなところ♡お返事待ってまーす!』


 いわゆる、詰み。というやつだ。


 断ったところで了承するまで毎日のように通知が届くだろう。たとえ無視しても気にせずまた送ってくる。昨晩の一連の行動を思い返すと、彼女にはそれほどの活力があると思えてしまう。


 受け取ったら、どうなるんだろう。


 何かが変わってしまうかもしれない。噛み合わせが悪くなった歯車がそのまま外れてどこかにいってしまうかもしれない。


「ぐぐぐ…」


 このままではこめかみに穴が開いてしまう。


 大きくため息をついて短く返事を返し、オフィスを後にした。


 きっと行くべきではない。でも、行かなきゃ終わらない。そう思ってしまった時点で、もうダメだったのかもしれない。

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