第二話
「お疲れ様です」
いつもの愛想笑いを浮かべ、疲れた顔の同僚に別れと労いの言葉を告げる。
これで何人目の同僚を見送っただろうか。今日は早く帰るつもりだったのに、気が付いたらオフィスには自分以外の姿が見えない。
「どうしてこうなったー…」
ふにゃふにゃした声をあげて机に突っ伏す。モニターの隅に書かれた時刻は22時30分。定時から4時間以上経ってしまっている。
「疲れた…帰りたい…お腹空いた…眠い…」
今日は本当に定時で帰るつもりだったし、帰れる算段もあった。
今手を付けている仕事だって、元々予定になかった。担当が決まっているわけでもない、誰かがやればいい『特急案件』ってやつ。
子供のお迎えがあるからと申し訳なさそうに告げる声。推しのライブがあるからと興奮を隠しながら告げる声。数時間前に聞いた声たちが頭をよぎる。
先週発売された推し作家の新作消化、たまに遊んでいるライブサービス型ゲームのアップデートチェック。早く帰ってやることなんて、そのくらい。
「…別に、今日じゃなくてもいいし」
オフィスから人がいなくなったと意識したとたんに独り言が増える。
恋人が待っている。家族が待っている。友達が待っている。自分がいなければいけない場所が待っている。
無色透明を選択する私にとってそんなものはない。必要ない。
色鮮やかな世界はきっと楽しいだろう。でも、綺麗な色も混ぜすぎれば濁った色になるし、美しい花だっていつかは枯れてかつての色を失う。
色のない世界には心が沸き立つような出来事は起きない。人によっては退屈で仕方がないと思うだろう。死んでいるのと同義とまで言われるかもしれない。
でも、私は変わるつもりはない。変わる時が来るとすれば、それは来世の話だ。
ダメだ。この時間になるとどうしても思考がネガティブに寄ってしまう。明日の昼までに必要な資料を整え、資料の解説と共に丁寧な文章にまとめメールを送る。
「ご機嫌いかがですかー?陽絃先輩」
不意打ち。
認識外の出来事に背筋がぞっとして小さく声を上げる。愛らしい声は耳心地が良いはずなんだけど、状況が悪すぎた。というか、さっきの独り言とか聞かれていないだろうか…。
「先輩、驚きすぎですって。可愛すぎる反応で私もビックリしちゃいました」
市川 芹羽
私より二つ年下で、隣のチームで働くよく目立つ新人。触り心地の良さそうなふわふわに巻かれた髪色はミルクティーベージュ。身長は私より高く……まあ、色々と大きい。発育が良く大変羨ましい限りで…。
いつもふわふわした服を着ているし、たれ目なところも相まって、前から狸みたいで可愛いと思っていた。その見た目に反して頭の回転は速く、二回りも年上の上司に対しても思ったことをズバズバと言える力強さも持っている。誰もが認める恵まれた容姿をしているのに、それに甘えている様子を見たことがない。
天は二物を与えずとはよく言ったものだ。
「ご、ごめん。ちょっと油断してた」
芹羽の小さな笑い声が響く中、先ほどの情けない姿を取り繕うように、凛とした声を意識して続ける。
「ていうか、なんでこんな時間まで残ってるの?橋田さんが怒るんじゃ…。なんかやばい状況になってるなら手伝うよ。気にしないで何でも言ってほしい」
彼女は去年の夏に配属された二年目の社員。仕事での接点は薄い。
彼女の一つ年上の社員がいつも面倒を見ていたので、一人でこんな遅い時間まで残るようなことはないと思っていた。というか、こんな美人をこんな時間にこんな雑多な街に解き放つのはよくないだろう。何かあってからでは遅い。
「ご心配どうもです。むしろ私的には先輩が心配に思っちゃってるんですけど。なんかグデーっと溶けかけてたから」
可愛かったから撮っちゃいました、とスマホをこちらに向けながら続ける。
え。
「先輩もこんな表情するんですねー。ちょっと意外かも」
彼女の存在に気が付かなかったのだから当然ではあるけど、シャッター音を聞き逃すほど疲れていたのか。
「しゃ、写真は消しておいてね…。こんな見苦しい姿、市川さんのアルバムに入れておいちゃダメだから…」
せっかく作った凛とした声も萎れてしなしなになってしまう。無理して繕った声なんて、やっぱり長くはもたない。
それよりも…と、小さく咳ばらいをして話を戻す。
「私は今日やることは終わったから大丈夫。市川さんは何でこんな時間まで残ってるの?」
彼女が所属するチームは今それほど忙しくはないはずだ。それなのにこんな時間まで残っているということは、何か良くない理由があるに違いない。
「えーっと、明日中に必要な資料を更新する前に閉じちゃって。もう一回途中から作り直してました」
およよ…とわざとらしく肩を落とす。
彼女はどんな仕草も絵になる。紬も美人だけど、芹羽は何だろう。うまく言い表せないけど、どこを切り取っても一枚絵として使えるような可愛らしさというか。
「それよりも先輩」
泣き真似をやめ、急に真剣な表情を作る。
「さっき、『なんでも言ってほしい』って言いました?」
どうだったか。言ったような言っていないような。正直、彼女の接近に気が付かないくらい疲れているようなので、自分の発言に自信は持てない。
「あー、どうだろ。言ったかな…。まあどっちでもいいや、相談があるなら乗るよ」
終電までだけど。と、一言添えて彼女の反応を待つ。
周りの先輩に《《いび》》られているか、上司がうざいか、社食の日替わりが外れ続きなことか、まあこの辺りだろう。隣のチームの顔見知り程度の人間に打ち明けられる悩みなんてたかが知れている。
しばらく待っても反応が無いので、行き場を失っていた目線を上げ彼女の顔を見る。
はずだった。
急な接近。芹羽がすっと身を寄せ、熱を含んだ息が左耳をかすめた。私たちしかいない静かなオフィスに響き渡るように心音が高まる。
甘い香りがする。アンバーみたいな…バニラ寄りの甘さ。彼女はもっとこう…爽やかな香りを纏っている印象だった。レモングラスとか、柑橘系とか。
「じゃあ、付き合ってください。本気のやつです」
は?
突き合う、憑き合う、点き合う、付き合う…。
これか。
いや、これか?何も納得していないし、理解していない。どうやら、紬と食べたパスタとサラダでは、この時間まで脳を動かす栄養が足りていなかったらしい。
「え、えっと…」
声が震える。そもそも距離が近い。あれから彼女は何か言っただろうか。警鐘を鳴らすように響き渡る心音で聞こえていないのかもしれない。
「聞いてますか?陽絃先輩。本気のやつです」
先ほどまでの元気な笑顔はどこへ行ったか、横目で彼女を見ると、大人びた艶のある表情が浮かべられていた。
まるで、虎に迫られたモルモットのようだ。いや、そんな状況起こりうるのか。大自然の摂理だとかそういう話題には詳しくない。
「えっと、何の案件だろ?案件特有のことは飲み込むまで時間がかかるだろうから、単純作業を振ってもらったほうがいいかな。あーでも…市川さんならそれくらいは一人でやっちゃってるか…。そ、それなら…」
絶対に仕事の話ではない。鈍感でバカなふりをして、早口で言葉を返す。いつもの声色で返したつもりだけど、上ずっていることは自分でもわかるし、彼女にも伝わっているだろう。
本気なのかからかっているのか、はたまた罰ゲームなのかはわからないけど、彼女が差し出す選択肢は私には眩しすぎる。色なんて、無い方が良い。
「って…ていうか、終電大丈夫?ごめん、完全に自分基準で時間見てた。遠いならそろそろ出た方が…」
誤魔化せ。誤魔化せ。こういう時は勢いが大事だ。
慌ててまくしたてる私を見て彼女は小さく目を細め、それからふっと笑った。
「何でも言ってほしいって言ってくれたんだから、言いたいこと言いましたよ。先輩」
「終電のご心配もどうもです!お察しの通りなので今日はもう帰りますね。また明日です!」
そう告げ、花のような満開の笑みを浮かべて去っていく。自動ドアが閉まる機械的な音が耳に残る。
深く息を吐き、緊張の糸が切れたように背もたれへ沈み込む。彼女がいた左耳に触れると、やけに熱を持っていた。




