第二話
咲くような明るい笑顔、すべてを見通すような真剣な眼差し。熱を孕んだ視線。深い沼に誘うような甘い声。首筋に感じた小さな痛みと暖かさ。
「うがーーー!」
帰ってからずっとこう。頭の中に『彼女』が反響し続けておかしくなりそうだ。
「どうすれば良いんだろう」
枕元のぬいぐるみたちに聞いてみる。心なしか心配しているように見えるけど、何も言ってくれない。非情だ。
芹羽の家から帰って数時間。仕事の連絡だけ確認して一息ついたと思ったらこれ。帰りの電車でもずっとうんうん唸っていただろうし、変な人に思われていたに違いない。
私だって子供じゃないんだから、この感情がどんなものかなんてわかっている。
『大好きだからです』
「…っ!」
枕をぽすぽす叩く。
重症だ。思考が同じところをぐるぐる回っている。
手にしたスマホでメッセージアプリを開き、紬の名前をタップする。
彼女とは長い付き合いのはずなのに、私からは一度も連絡をしたことが無かった。履歴を遡っても、彼女からのランチの誘いと生存確認くらいしかやり取りをしていない。
自分は冷たい人間だな、と思う。
紬はトゲトゲしていて口だって良くない。気に入らないものにはそれを貫き通すし、彼女のことを『怖い』と評価する人だって少なくないだろう。
それでも、彼女は踏み込んではいけない人の領域には絶対に入ってこない。
大学で出会ったころ、自分の話を少しだけしたことがある。ほんの少しだけ。芹羽に話したことの5%くらい。
それだけでも、彼女は何かを察したのかそれ以上は踏み込んでこなくなった。
彼女がしてくることといったら、あくまで日常の一部であるランチの誘いくらい。日常を広げるような誘いはほとんどしない。
たまに私を外の世界へ連れ出すような誘いをしてくれるけど、深追いはしない。何年経っても変わらない私を見て、心配してくれているんだろう。
『お疲れ様。土日、時間あったりする?』
なんてことないメッセージ。それなのに、送信ボタンを押す手が震える。
枕元の彼らも応援してくれている。数年間私と同じ寝床で過ごしてきた彼らの期待に応えるべく、紬へのメッセージを送った。
友達を誘うだけなのに。我ながら面倒くさい人間だと思う。
◇
紬からの返信を待ちつつ、夕飯の支度をする。
お湯を沸かしてパスタを入れたらタイマーオン。茹で上がるまでの時間でソーセージを小さく切りフライパンで炒めて、冷凍ほうれん草と調味料を入れさらに火にかける。
麺が茹で上がったら具材と絡めてバターを入れて完成。
芹羽みたいに自信をもって人に出せる料理ではないけど、最低限生きるための料理くらいなら作れる。味だって別に悪くはない。
でも…。
彼女の料理をもっと食べてみたいと思う。
彼女のことだから、食べたいものを言えば私のために一生懸命作ってくれるんだろう。知らない料理でもレシピを調べて、私が喜ぶように。
フォークを持つ手が止まる。
「中学生じゃないんだからさ…」
初心すぎる自分にため息が出る。帰ってきてからちょうど十回目。最高記録かもしれない。
ぼーっとテレビを眺めながらパスタを口に運んでいると、スマホからの着信音で正気に戻った。
紬からの着信。彼女からメッセージが届くことはあっても通話が来たのは初めてかもしれない。
「もしもし」
「ちょっと、生きてる?あんたからメッセージが届くとか信じられなさ過ぎて。今どこ?」
スマホ越しから焦ったような、息の切れた声が聞こえる。いつも冷静な彼女にしては珍しい。
「え?家だよ。結局徹夜することになっちゃって、そのまま今日は休みにしてた。紬は…帰り道?」
ため息十個分をひとまとめにしたように、彼女は大きく息をついた。
「休んでるのは知ってた。まあ、生きてるんならいいわ…。で、何の用?」
彼女とは同じ会社だけど違うフロアで働いている。何で休んだことを知っているんだろう。
「えーっと…。い、いいじゃんたまには。なんか誘いたくなっちゃって」
勢いで紬に連絡をしてしまったから理由まで考えていなかった。確かに、何で誘ったんだろう。
今の気持ちを相談するため?芹羽とあったことを話すため?
無言が続く。
「もしもし?電波悪いかな。聞こえてる?」
「…うっさい、聞こえてるわよ。もういいわ。やりたいことでもあるの?」
「特に決めてないんだけど、なんか話したくて…。ご飯とかどうかな?お酒飲めるところ探すよ」
「本当に気持ち悪いわね。何があったのよ…」
彼女らしくないボソボソとした声。
「まあ、いいわ。場所は私が決めるから。あとでメッセージ送っとく。じゃあね」
言いたいことを早々に告げるとすぐに通話を切られてしまった。
人に気持ち悪いとか言っておきながら、紬だっていつもとは少し違う気がする。
それくらい、私から行動を起こしてきたことに動揺しているんだろう。彼女にはいつも迷惑をかけてしまっている。
しばらくして時間と場所だけがメッセージで送られてきた。余計な情報が無いところが彼女らしい。
なにを話すかなんて決めてない。なにも言わないかもしれないし、すべて話してしまうかもしれない。
計画的に、常に誤った選択をしないように生きていた私とは思えない感情。
洗い物を済ませ、猫のイラストがプリントされたマグカップに紅茶を入れる。今日はカモミール。
ハーブの香りが狭い部屋に広がる。私に滲んだ色も、少しずつ広がっているのを静かに感じていた。




