第一話
ずっと好きな人がいる。
その人のことを想い続けて、十年と半年。
熱中してもいつかは冷める。飽きてしまう。そんなことはよくある話だけど、時が経つほど想いは大きくなって、今となっては自分では制御できないところまで来てしまっている。
出会いは中学一年の冬。
私は、死のうとしていた。
きっかけは些細なもので、教室の隅に隠れて描いていた漫画を同級生に見られてクラス中に知れ渡った。ただそれだけの話。
よくある話。
クラスのみんなは表面上は優しくて、水をかけたり、靴を隠したり、悪口を言うようなことは全くされなかった。
ただ、明らかに避けられるようにはなった。奇異の目に晒される毎日になった。
担任経由で家族にも伝わってしまった。決して否定はしなかったけど、肯定もしなかった母の目は今でも忘れられない。
だから、家にも居場所がなくなった。
結果、たどり着いた答えが命を絶つこと。子供ながらに、限界だったらしい。
◇
大雪が降るとても寒い日。まだ12月なのに、都内では珍しいことだと思った。
朝は降っていなかったから傘を持たずに家を出た私は、学校から出られず立ち往生。
無理して走れば帰れたけど、帰りたくなかったのだろう。人がいない三年生の教室の隅で漫画の続きを描いていた。
あんなことがあったのに描くのをやめない辺り、本当に好きな事なんだと思う。絵の中のキャラクターは楽しそうに、幸せそうに手を取り合い笑っている。
多分、彼女たちの物語を描き終えたら死ぬつもりだったんだろう。せめて、私が生んだ二人には幸せになってほしかった。
「あれ、どうも。お邪魔するね」
パタパタという足音と共に一人の少女が扉を開ける。快活そうな背の低い女の子。上履きの色を見る限り三年生のようだけど、私よりだいぶ小さい。
「ご、ごめんなさい…。すぐ出ていきます…」
手元のノートとペンを鞄に詰め込み、顔を見ずに駆け足で出ていく準備をする。
待って。という声と共に小さな影が私を覆った。
「絵、描いてたの?」
小さな手が私の腕を掴む。外は大雪なのに、彼女の手は暖かかった。
「描いてないです。宿題をしてたので…」
嘘。
「でも…これ」
急いで鞄に詰め込んだからか、ノートの切れ端が鞄からはみ出てしまっている。細かいところまでよく見ている。
「良かったら描いたの見せてよ。私、漫画好きだから。それに、傘忘れちゃったから帰れなくてさー」
窓の外を指さしながら、あなたもそうでしょ?と、はにかむ笑顔が眩しい。
多分、どうでもよくなっていたのだろう。死を決めていなかったら走ってでも逃げ帰っていたはずだ。三年生ならどうせすぐに卒業していなくなる。だからもういい。そう思った。
椅子に腰かけ鞄から一冊のノートを取り出し、そっと手渡す。真っ白な表紙には何も描かれていないけど、一枚ページをめくれば中には私の世界が広がっている。
「ありがとー。読ませてもらうね」
おもちゃを買ってもらった子供のように、楽し気な表情を浮かべすぐ隣の席に着く。
ずっと笑っている人だ。きっと友達が多い人生を送っているに違いない。
静かな教室の中で、私の呼吸と彼女がページをめくる音だけが鳴る。
理解なんてされるわけがない。でも、私が私のために描いた物語なんだから、余計なことは言わないでほしい。
ノートを渡して10分ほど。すぐに手放して去っていくと思ったのに、思いのほかじっくり読んでいる。
外の雪は変わらず降り続けている。私もこの人も、無事に帰ることができるのだろうか。
彼女はパタンとノートを閉じ、大きく身体を伸ばした。どうやら読み終えたらしい。
どんなことを言われるんだろう。覚悟はしているけど、実際言われると思うと胸が苦しくなる。
「続きは?」
え?
続きは…まだ、描いていない。
「…気持ち悪くないんですか…?」
「なにが?」
意味が分からない。どうして続きを求めるんだろう。こんな物語の…。
「漫画描く人が気持ち悪かったら漫研の人たち怒るでしょ」
違う。そこではない。
「だって…」
「私はこっちの子が好き。元気で可愛いから」
私の質問に興味が無くなったのか、小気味良く身体を揺らしながらある一ページを指さす。
ヒロインの悩みを主人公が受け入れ、二人でじっと見つめ合うシーン。ベタなシーンだけど、うまく描けたと思っている。
彼女が指さすのは『明るくて元気な人気者』というシンプルなイメージから生み出したヒロインの女の子。可愛くておしゃれでたくさんの友達に愛される存在。
私とは正反対。自分がこうなりたいという現れだったのかもしれない。
「ラブコメっていいよねー。なんかドキドキしちゃった」
「あの…もう一人の子は…?」
もう一人の登場人物についても聞いてみる。黒髪でおとなしいけど、ヒロインを一途に思う芯のある女の子。
自己投影はしていないつもりだけど、表面上は少しだけ自分に似ている気がする。こんな芯のある人間になりたいという願望も無自覚ながら持っていたのかもしれない。
うーん、とあごに手を当て思案。
「この子も可愛いから好き。だけど、やっぱりこっちの子の方が好き」
「明るい子の方が好きなのかなー。私的にこの刺さり具合は深いかも」
「そう…ですか…」
「続き描いたら読ませてよ。ハッピーエンドじゃないと嫌だけど」
差し出されたノートを受け取る手が震える。心拍数が高まり、頬が熱くなる。
「あ!雪、弱くなってきてる!今のうちに帰んないと」
彼女は大きく声をあげ、椅子から勢いよく立ち上がる。
もう帰ってしまうのか。名残惜しい。そう思ってしまった。
「あ、あの…!」
無意識に言葉が零れ落ちる。
「ど…どうすれば、先輩みたいに…可愛くて…明るい人になれますか」
なにを…聞いているんだろう。
脳か口が私の言うことを聞かずに勝手に動いている感覚。
絶対に変な奴だと思われている。
彼女はぱちぱちと瞬きを繰り返したかと思うと、私の手を取りながら告げた。
「あの漫画のヒロインの子を目指せばいいんじゃない?」
「あなたが描いた子なんだから、なりきるなんて簡単だと思うんだ」
満面の笑みで私を見上げる彼女の顔が滲んでいく。
涙を見られたくなくて、手を払い彼女に背中を向ける。
「…私なんかじゃ、無理ですよ」
「無理じゃないよ」
顔はわからないけど、多分彼女は今真剣な顔をしていると思う。トーンを落とした声色がそう告げている。
「だって可愛いもん。顔も、声も」
ドクンと胸が鳴る。振り返って彼女の顔を見たいけど、視界はより滲んでいくし、泣き顔なんて見られたくない。
「中学は先生たちうるさいから無理だろうけどさー。高校行ったらオシャレしてみれば?高校デビューってやつ!」
「私は来年絶対に髪染めるんだー」
楽しそうに笑う声がずいぶん遠くに聞こえる。視界と一緒に音まで涙で滲んでしまっている気がする。この声を、もっと聞いていたい。もっと近くで、ずっと…。
「そういえば名前言ってなかったね。私は武見陽絃。あなたは?」
「い、市川…です」
市川さんねーとつぶやきながら私の顔を覗き込む瞳と目が合う。綺麗な目。
「まずは眼鏡!あと前髪!可愛いのに隠してたらそりゃ可愛く見えないよ」
「それじゃ、もう行くね」
続き待ってるよー!と言い残し、嵐のように去っていく後ろ姿を見送る。
心拍数の高まりが収まらない。収まるどころか、より高まっている気すらする。
たった20分足らずの出来事。彼女にとっては、雪が止むまでの暇つぶし程度にしか記憶されていないだろう。
でも、暇つぶしの20分で私の命は繋がれた。
ハッピーエンドなんか、いらない。
そう思い、バッドエンドで終わるはずだった私の未来が描き変わった瞬間だった。
この日から、私にはずっと好きな人がいる。




