第十話
「ごめんね。もう大丈夫」
24にもなって、子供のように泣いてしまった。
正直、彼女の言っていることは破綻していると思う。乗り継いでしまったら、それはもう元の夢ではない別の夢だ。
でも。たとえ破綻していたとしても、訳の分からないことを言う私に寄り添ってくれたことが嬉しかった。
『武見陽絃』という存在はどこまで行っても面倒だから、この先も色を避けることをやめないだろう。
それでも。
少しくらいなら、染まってもいいのかもしれない。そんな風に思えた。
「付き合う…とかは、ごめん。市川さんのことはまだ全然知らないし、もう少し時間が必要だと思う」
でも。と一呼吸、胸から響く音がうるさい。
「もう少しだけ、仲良くしてもらえると…嬉しい」
大きな瞳から雫がこぼれる。
「嬉しい…。嬉しいです、先輩」
泣き顔を隠すように、彼女は背を向けて膝を抱えた。その背中をじっと見つめる。
どうして、私なんだろう。まだ答えはわからない。
ようやく落ち着いたのか、くるりとこちらを向き直り、満面の笑みで言う。
「陽絃先輩、大好き。本気のやつです!」
彼女の暖かい身体が冷えきった私を包み込む。彼女と一緒にいたら、なにかが変わるのかもしれない。
◇
「芹羽って呼んでくださいよ。『市川さん』ってつまんないです」
ベッドに背を預け、ゆったりとした時間を二人で過ごす。
「まあ、別にいいけど…」
名前か…。紬のことはずっと名前で呼んでるのに、なぜか気恥ずかしい。
横目で彼女を見ると、こちらに身を向けて、待ちきれないように小さく揺れていた。
期待に満ちた目が眩しい。そこまで見られると緊張するんだけど…。
「せ、せりは…」
「せんぱーい!!」
抱き疲れた衝撃で身体がぐわんぐわんと揺れる。喜んでいただけたようで何より。
「今、とっても幸せです。これまで、生きてきて一番です!」
「…そっか」
この先、私は彼女とどう向き合っていくんだろう。
付き合う…とか、そういうのはまだよくわからない。彼女のことが好きなのかもわからない。
ところで。と、つぶやき彼女はもう一度こちらに身を向ける。
「先輩」
「色々迷惑かけちゃってごめんなさい。本当に反省しています」
改めてどうしたんだろう。その話はもう済んだはず。
でも、と一呼吸。
最近耳にしていなかったこの声色。脳か胸か、どこかが警鐘を鳴らす。
「今回、私結構頑張ったと思いませんか?迷惑はかけちゃいましたけど、先輩のこと、たくさん助けられたと思うんです」
甘い香りと共に、あの夜の記憶が頭をよぎる。
「ずっと我慢してたんです。先輩が壊れちゃいそうで、口もきいてくれなくなりそうだったから、ずっと我慢してたんです」
「ご褒美、くれませんか?」
彼女の細い指が私の首をそっと撫でる。右から左へ。左から右へ。感触を覚えさせるように這って回る。
さっきまですぐそこにいた、元気で明るい芹羽はどこかに行ってしまったらしい。
感動的だった雰囲気が台無しだ。
「…ス、ストップ…。いったん…ストップ…」
「…わかりました」
私の震える声に従い、首筋に指を置いたまま、熱を孕んだ瞳がこちらを見つめる。
『止まれ』とは言ったけど、そこで止まっては欲しくなかった。
「ご褒美、くれませんか?」
二度目の警告。
「だ…だめ」
「あんなに頑張ったのに?」
確かに彼女はたくさん私を助けてくれた。彼女が駆けつけてくれなかったら、多分今頃は病院のベッドの上にいたはずだ。
彼女の言ってることは決して間違っていない。
ただ…。こういうご褒美は、あんまり聞いたことがない。
軽く肩を押されて薄黄色のラグに背中が付く。
彼女の身体が近づけば近づくほど甘い香りが強くなる。覆いかぶさった彼女の身体が私に熱を送り、彼女の吐息と私の呼吸音以外どこかに置き去りにしてしまったように何も聞こえなくなる。
妖艶な瞳に見降ろされ、身体が強張り呼吸が浅くなる。
振りほどきたいけど、私の小さな身体では芹羽の前では身動き一つ取れない。
「ちょ…ちょっと…!」
「『ストップ』って言ったら止まります。約束します。絶対に」
ストップ。すとっぷ。止まって。
何でもいいから声に出さないと。でも、声が出ない。
『出さなかった』が正しいのだろうか。
首筋に僅かな痛み。二度、三度と繰り返す。
「っ…!」
息がうまくできない。静かな部屋に、私の浅い呼吸と彼女の触れる音だけが響く。
印が付いたか確かめるように、湿った熱が首筋を何度もなぞる。彼女の肩を押さえる手が、その度に小さく震える。
「ごちそうさまでした。先輩」
見上げた先には薄く開いた瞳。ペロリと唇の端を舐める仕草を見てまた、身体が強張る。まだ浅い呼吸が続いている。
「何日かしたら消えると思うので、安心してください」
「消えたらまた、つけてあげます」




