第九話
ペンギン柄のマグカップから立つ湯気をじっと眺めて、どれくらい経っただろう。小さな折り畳み式テーブルの向かいに座る芹羽は、何も言わずにじっとこちらを見つめている。
深呼吸を一つ。
「あのね…」
「私は…楽しいこととか、幸せなこととか、そういうことから逃げ続けてる」
「理由は…その…深くは言えない。ごめんね」
『──そこまで本気だとは思わなかった。ごめん、びっくりしちゃった』
『──陽絃、さようなら。楽しかったよ』
少し黙っててほしい。
嫌な記憶がフラッシュバックする。
何も言わずにじっとこちらを見つめる瞳と目が合う。私が話し切るまでは黙っているつもりなんだろう。
「理由はわからないけど、市川さんが…その…好きって言ってくれるのはすごく嬉しい。そういうこと言うのって勇気がいると思うし…空っぽの私なんかを見てくれてるんだって思えたから」
もう一つ深呼吸。震える膝を無理矢理押さえつける。
「多分、市川さんと一緒にいたら楽しいんだろうなって思った。優しいし、気が利くし…可愛いし」
一瞬、大きな瞳が揺れる。
「でも、楽しい未来が見えれば見えるほど…終わってしまった時のつらさも大きくなると思う。多分私は…それに耐えられない」
喉が渇く。目の前のマグカップに手を伸ばしたいのに、張り付けられたように膝から手が動かない。
今、私はどんな顔をしているんだろう。無表情なのか、泣いているのか、笑っているのか。
「どんなに楽しい夢でも、醒めた時って空しくなるでしょ?」
「醒めても楽しいままの夢なんて、無いんだよ。あるわけない」
言い切る。断言する。
「だから、市川さんの告白には…応えられない」
「私が苦しんでいるように見えたのなら…多分、これが理由」
彼女の質問にちゃんと返せていただろうか。こんなこと人に話したことなかったから、うまく話せた自信はない。
『市川芹羽』という色を避け、無色透明に近い方を選択する。これまで繰り返してきたことと同じだ。
彼女の顔を見ていられず、俯く。マグカップに描かれた可愛らしいペンギンも今は私を嘲笑しているように見える。
ふう、と息をつき、強張った表情から柔らかな笑顔が現れる。
「先輩」
「まずは、色々話してくれてありがとうございます。話したくないことだったのに、私のために無理して話してくれたんだろうなって。嬉しかったです」
あんなこと言われて何で笑顔でいられるんだ。おかしくなってしまったのか。
「先輩がどうしてそういう生き方になったのかはわかりませんし、わからなくて良いと思います。聞くつもりもないです」
「なので、一つだけ言わせてください」
また、真剣な顔。
一体何を言うんだろう。私の言っていることは自分でも訳が分からないし、他人に理解なんてできないと思う。
「楽しい楽しい夢から醒めたらつまらない世界が待ってる。そんな世界で生きるのはつらいから夢を見ること自体を諦める。先輩が仰ってるのはこういうことですよね」
小さく頷く。
「だからずっと苦しそうに生きてる。本当はたくさん楽しいことをしたいのに、戒めみたいに自分を縛ってる」
戒め。良い表現だと思う。
「夢から醒めたら、また次の夢に乗り継いでいく」
「これじゃだめですか?」
膝の上に置いた手に力が入る。
「次の夢に、乗り継ぐ…」
うわ言のように口から言葉が零れ落ちる。
おかしい、と思う。多分、破綻している。
「醒めない夢なんてないんですよ、きっと。先輩が仰るようにいつかは醒めるんです。どんな夢でも」
「でも、醒めても良いんです。夢なんて何回でも見れるんですから、グルグルいろんな夢の中を廻り続けるんです」
まるで呪いみたいだ。一度夢の中に入ってしまったら、ずっと出られない。
視界がぼやける。瞳から零れ落ちた雫は、頬を伝って固く握りしめた手の甲に落ちた。握りしめた手が、ほどけそうになる。
「私が、先輩をいろんな夢へと連れて行ってあげます。一つの夢だけ見ててもつまんないじゃないですか」
「やっぱり、諦めるのは撤回です」
「陽絃先輩」
「好きです。私と一緒にいてくれませんか?」
「一緒にたくさん夢、見させてください」




