第六話
頭が痛い。気を抜いたら寝てしまいそうで、定期的に頬をつねりコーヒーとエナジードリンクを交互に胃に流し込む。
苦手なものと苦手なものが胃の中で混ざり、吐き気になる。
あと少し…ほんの少しで終わるはずなのに、頭と手が思うように動かない。
夜が明けるまであと数時間。時間がない…。
静寂の中マウスとキーボードの音だけが響く。正面には暗闇の中ポツンと光るモニター。
モニターの光が視界でブレる。映っている文字がよく見えない。
あれ…。
誰もいない、静まりきった世界のはずなのに、遠くからバタバタと音がする。自動ドアの開く音。
「先輩!!!」
聞いたことのある声。だけど、聞いたことのない声色。
「何やってるんですか!!」
持っていた荷物をすべて放り出し駆け出す人影が見える。幽霊にしては落ち着きがないような。
「ねえ!先輩!」
強い衝撃。全身に人の重みを感じた。抱きしめられた…?
少しずつ意識がハッキリしてきたけど、状況が飲み込めていない。
「あ、あの…えっと…」
「私ですよ、先輩」
細い指が私の前髪を流す。いつも同じフロアにいるはずなのに、久しぶりに会った気がする。
「芹羽…。ごめん、ちょっと意識飛んでた。今は大丈夫…多分」
「ごめんなさい…。私のせいで…」
涙を溜めた大きな瞳と目が合う。どうしてそんな顔をしているんだろう。
というか、どうやって会社に来たんだろう。終電はとっくに無くなっている時間だし、今会社にいることを伝えてもいない。
「何をすれば良いか教えてください。細かいことはあとで聞くので、今は私を信じてほしいです」
大きな瞳は揺るがず、真剣な声色が耳に残る。
──『信じる』。
大好きな言葉だったのに、いつかから使わなくなってしまった言葉。みんな当然のようによく使う言葉なのに。自分はつくづく面倒な人間だと思う。
「…わかった」
普段なら何かしら言い訳づけて彼女を遠ざけていたと思う。ただ、今はそんな余裕はなく、気が付いたら彼女にやるべきことをすべて託してしまった。
ガクンと首が落ちる。頭が痛い。頬をつねろうにも、思うように腕が上がらない。
「先輩、こっちに。横になってください。ちょっと固いけど我慢してくださいね」
床には大きなブランケットが引かれており、ご丁寧に枕まで準備されている。
「終わったら声かけますから。少しの間ですけど、ゆっくり休んでくださいね」
耳元で囁く声が聞こえる。心地良いけど、少しこそばゆい。
横になってちゃんと寝るのは何日ぶりだろう。一瞬、頬に熱いものが触れた気がする。それが何だったのかを考える余裕はもう…ない。
◇
カタカタと音が聞こえる。リズムよくカタカタと。
身体を起こそうとして身体の痛みに小さく声が漏れる。
「先輩、おはようございます。少しは休めましたか?」
「…おはよう。おかげさまでなんとか。まだ結構しんどいけど」
悲鳴をあげる身体を無理矢理立ち上がらせ、芹羽の視線の先にあるモニターを見る。
五時を少し回ったところ。二時間ほど眠っていたらしい。
そこには、作業の終わりを告げるメールの下書きが表示されていた。
「え、もしかしてもう終わったの?」
「もちろんです!私の優秀さ、知ってますよね?こんなの余裕です」
自己主張の強い胸が誇らしげに張られる。
「といっても、先輩がほとんどやってくれてましたから。私がやったのは最後の仕上げだけです」
嘘ついちゃいました。と、無邪気な顔をしながら笑う彼女を見て頬が緩む。
「あと5分くらいで終わるので、もうちょっとだけ待っててください」
「終わったら…お待ちかねの尋問タイムです」
キャーとバタバタしながらキーボードを叩く姿を見て小さく息をつく。
芹羽にはすごく迷惑をかけてしまった。
正直に話していればもう少しマシなことになっていたはずだ。
話せるだけのことは話さないと。まだハッキリとしていない頭でそう思った。
◇
芹羽に伝えた以上の仕事が追加で生まれていたこと、自分の判断ミスで芹羽を巻き込む勇気が持てなかったこと。まだ暗さの残るオフィスの中で、今回の騒動の顛末をなるべく詳しく話した。
「なるほどです。正直、おかしいなーとは思ってました。だって、少し前まで調子良さそうだったのに、急に顔色悪くなってずーーーーっと席から動かなかったから」
「私が悪いんです。先輩を困らせちゃったから。困らせちゃったのに、何もしてあげられなかった」
それに、と目を伏せながらつぶやく。
「多分、先輩はいっぱいいっぱいで。私がこれ以上触れたら壊れちゃいそうだったから、見て見ぬふりをしちゃってました。先輩から逃げてました」
すみませんでした。と、深く頭を下げる芹羽をなだめる。
彼女が謝ることなんて何もない。全部、私がハッキリしなかったから。
「市川さんは何も悪くないよ。私が色々うまくやれなかっただけだから」
そう言った後にガクンと首が落ちる。起きてから少し時間が経ったせいか、眠気がまたやってきた。芹羽も帰らせて今日は休みにしてしまおう。
「先輩、もう限界なんですよ」
うーんと少し唸ってから決心したように両膝を叩き、彼女は声高に言い放った。
「今日はもう仕事は終わり!あとはお客さんが何とかすれば大丈夫です!先輩、帰りますよ!」
うん。と小さく返し、手を引く芹羽についていく形で会社を出てタクシーに乗り込む。
…タクシー?
社内の揺れと冷房の心地良さで意識が遠のいていく。
「寝ててください。着いたら起こしますか」
囁く声が子守唄のように聞こえる。細かいことはあとで考えれば良いだろう。返事をする前に、意識を手放していた。




