第四話
嫌な汗が背中を伝う感覚。オフィスは少し肌寒いくらいの温度に保たれているから、暑いなんてことは無いはずだ。
視界がチカチカと眩む気がして、一度目を閉じ眉間を押さえる。過去にも似たような経験はあるが、今回はちょっとレベルが違う。
「大変申し訳ございません…。こればっかりは本当にどうしようもなくて…。こちらも再監修は最大限早く行えるよう調整しますので…」
20時を回り、騒がしかったオフィスも静かになり始めたころ、受話器越しに憔悴しきった声が聞こえる。
打ち上げの誘いをしてからも芹羽は健気に振舞っていた。『終わり』が見えたはずなのに。
それでも、私たちは社会人である以上同じ空間で働かなくてはいけない。社会の歯車に『気まずい』なんて言葉は通用しない。
芹羽と進めている仕事は彼女のサポートもあってか順調に進んでおり、4日後には必要なものをすべて納品してこの仕事は終わり。めでたしめでたし。そうなるはずだった。
どうやらこのタイミングで先方の社長さんから『全部やり直し』の指示が入ったとのこと。
こういう話はこの業界においてそれほど珍しいことではない。弱っている担当者には悪いがこちらに落ち度はないので、そちらの問題はそちらで解決してほしい。そう告げてあとは向こうに任せることだってできるはずだ。
ただし、今回はそうはいかない事情がある。
超大手飲料メーカー様の仕事は断れない。動いているお金も、関わる人の数も多すぎる。今回に限ってはお客様の言うことは絶対というわけ。
参った…。本当に参った…。
葉山さんは今夜から海外出張。臼井さんは連日風邪で欠勤。それよりも偉い人たちにはまともに話が通じるとは思えない。頼れる人はいない。
「やるしかないか…」
頭を抱えながら大きく息を吐く。身体中の酸素を吐ききっても、顔を上げる気にはならない。
正直、仕事は好きではないし、誰よりも頑張って早く偉くなりたいとかそういう願望もない。
だから、この仕事も途中で投げ捨ててしまっても良い。こちらに非はないし、ここまで十分頑張っただろう。
でも、働いてる間は芹羽との話を『なかったこと』にできる。ただの言い訳だなんて自分が一番よくわかってるけど。
一日に働かなければいけない時間は最低8時間。最大は24時間。おかしな考え方だけど、こうするとまだ時間はある。
日中は芹羽の力も借りることはできるし、何とかなるはず。
何度目かのため息をつき、顔を上げキーボードに手を伸ばした。
◇
芹羽にはすべてを伝えず、追加の仕事が少し届いたとだけ伝えて最低限の仕事を回す。
怪訝そうな顔をしていたけど、何も言わずにいつも通りサポートに入ってくれた。
彼女のことだから、真実を伝えればきっと毎日徹夜で手助けしてくれると思う。気まずさも感じさせず、不満なんてこぼさず一生懸命手伝ってくれるだろう。
それでも、真実を告げることはできなかった。
無理をさせるなと言われたから?自分が傷つかないため?彼女が心配だから?
理由はわからない。
眠気覚ましのコーヒーを無理矢理胃に流し込み、仕事を再開する。
いつまでたってもこの苦さは好きになれそうにない。




