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 春の花が咲きこぼれる季節になっても、相変わらずツェニルティ家は冷冷たる雰囲気に包まれていた。

 暗雲のように立ちこめる濃い霧をのけはらう勢いで問題児に成長したユシュネモは、まるで戦神にでもなれと言わんばかりに魔族退治にくりだされているが、そんな一部からの嫌がらせを裏切って飄々と仕事を遂行してくると、わざと余裕そうな態度をとって周りを煽りほくそ笑んでいた。

 自分で自分の首を絞めているのは分かっていても、他に憤りのぶつけ場所がないのだ。

 今回の仕事はやや遠方の貴族からのもののため、多少の気分転換になるかもしれないとやってきたのだが、傍らには当然のようにウルトナがいた。

 兄に監視され始めてから数年。もうすぐ成人になる。皮肉なことに、ユシュネモはある程度の自由を許されるようになっていたのである。

 しかし、掴めない雲のように曖昧で仮初めの自由は、所詮羽ばたきそうな鳥を飼い殺すための籠でしかなく、これがお前の世界なのだとじわじわと頭から浸食されそうになるたびに、ユシュネモは正気に戻って抗い続けていた。

 従者が用意した紅茶に全く手をつけないウルトナと真逆で、ユシュネモは既に三杯を飲みきり、四杯目に口をつけていた。

 どちらも違う意味で遠慮がない。苦い顔をしていた貴族の男性は気持ちを切り替えるために咳払いをすると、顎を引いて喋り始めた。


 この貴族はいくつかの庭園をもっており、特に大きく有名で一般公開もしている薔薇園があるのだが、そこに設備されている泉が突然真っ赤になり、詳しく調べる間もなく今度は街中の水が血のように赤くなって人々の生活を脅かしているそうだ。

 ちょうどその頃から魔物に襲われる事象が増え、被害者は増える一途をたどり、これは退魔師ではないと対象不可能だと判断したらしい。


「呪いだね」


 蛙の喉のように領主の喉がヒクリと震えた。

 貴族が恨みをかうのはよくある話だ。昔から何も変わらない。


「報酬はいくらでも払う、解呪してくれ」

「いいよ」


 若者と呼ぶよりもまだ少年という呼び名がピッタリなユシュネモのあまりの気安さに、領主の一重で細い目が溢れんばかりに見開かれた。


「…失礼しました、最善を尽くします」


 これで報酬を減らされてはたまったものじゃないと、堅苦しい口調に切り替えたユシュネモの隣で、ウルトナも目礼だけして了承の意味を示した。

 心なしか貴族の居住まいがきゅっと引き締まったような気がする。

 ユシュネモとウルトナでは、安心感も退魔師としての説得力もまるで違う。

 ましてや、兄は同じ年頃の若者と比べて背丈が高く迫力だってあるため、度々ユシュネモはウルトナの威圧を都合良く利用していた。

 逆に女性や子供にはユシュネモのほうが受け入れられる。適材適所というものだ。

 赤くなった泉がある庭園は今は封鎖されており、関係者も不気味がってあまり立ち入ろうとしないらしい。

 案内している従者の顔色もいいとは言えない。

 普段は綺麗に手入れをされているであろう庭園は所々荒れていて、どうやらここ数日はほったらかしになっているようだ。

 せわしなく視線を右へ左に、たまに上と下へも走らせながら、ウルトナは埃ひとつ見逃すまいとする姑のような目つきで周囲を見回した。

 しかし、これといって引っかかるようなものは特にない。


「こちらです」

「ふうん」

「では、私はこれで失礼致します」


 一度も振り返ることなく、来た時よりも早い足取りで従者は邸宅の中に戻って行った。

 余程この場にいたくないらしい。

 いかにも貴族らしい立派な噴水が設備された泉の水は、真っ赤に熟れた林檎のような色をしている。

 腐敗臭もしなければ鉄の匂いもしない。

 縁に手をついて覗き込んでみるが濁りすぎて何も見えない。


「呪いの痕跡もなさそうだな」


 ふっとユシュネモの肩から力が抜けるのとほぼ同時に、泉の水が突然頭上高く噴き上がり、自我を持っているかのような動きでユシュネモに襲いかかってきた。

 咄嗟にその場を飛び退こうとして、ぐっと押しとどまる。

 明確な敵意も殺意も感じなかった。あえて相手の懐に飛び込んでいくことを選んだユシュネモの腕を、ウルトナが咄嗟に掴んで引き寄せようとした。

 しかし、そんなことをされると思わなかったユシュネモは驚きのあまりウルトナの腕を振り払ってしまった。

 そしてそのまま、ユシュネモの体は泉の中に引きずり込まれていったのである。


 「…なんだ、ここ」


 目を開けた時、広がっていたのは一面の彼岸花だった。

 果てなく続く赤い絨毯。

 ぽつんと佇むユシュネモは、ここが泉の中だと俄に信じられないでいた。別世界に迷い込んでしまった気分だ。

 とりあえずぶらぶらと歩き進んでみると、遠くに一本の大木が見えてきた。

 満開に咲いた白い花からぽたぽたと赤い蜜がしたり落ちている。

 鼻腔の底にこびりつくような甘い香りに、ユシュネモの顔がうっと歪んだ。

 おそらく、魔族をおびき寄せている原因はこれだろう。

 ドライアドの蜜と呼ばれるこの赤い雫を、好んで食べる魔族がいるのだ。

 そして、ドライアドはそんな魔族から逃れるために、安全な水源に寄生して縄張りをつくることが多い。

 また臆病な性格から人を襲うことがなく、姿を現すことさえ稀なのである。

 原因は分かったものの、ユシュネモは腑に落ちないでいた。

 臆病とされるドライアドが、なぜ外敵とも言える退魔師をわざわざ縄張りに招いたのだろう。

 分からない。

 が、とりあえず燃やしてしまおう。

 霊力の質や強さは鍛え抜かれた身体と研ぎ澄まされた精神力に左右される。

 例外として、『死』に直面した時は生存本能を強く刺激されるのでより強大な霊力が手に入るとされているが、実際それで霊力を得た人間はほぼいない。

 そのまま本当に死んでしまうからである。

 ユシュネモは退魔師が嫌いだ。けれど、霊術は好きだ。

 もしかしたら、ドライアドも同じ理由でユシュネモをここに引き込んだのだろうか。

 大木に手を添えようとすると、逆に生えてきた薄緑色の手に掴まれた。

 そのまま姿を現した彼女は上半身が人型で下半身が木の根という、半人型の魔族であった。

 蠢く木の根のひとつひとつがユシュネモの胴体と同じくらい太い。

 しかし攻撃的な素振りは全くなく、それどころか興味深そうにユシュネモの頬をつついてくる。


「えぇ…」


 臆病とは。

 自分がどういう顔をしているかも知らずにされるがままになっているユシュネモは、当初の目的を果たそうにも少し気が向かなくなっていた。


「俺はお前を殺しに来たんだぞ、早く逃げなきゃだめだろ」


 熟練の退魔師であっても見たことがないと答えるくらい無害なドライアド。

 臆病であると同時に好奇心旺盛でもあったようだ。

 しかもユシュネモに対しては警戒心よりも興味が勝っているらしい。

 ドライアドの喉から草笛のような音が鳴る。これが彼女達の声である。

 ユシュネモは高級な酒を見つけた酒豪のように目を見開いた。

 音はヒュウヒュウと鳴り続けている。

 

「…何を言っているのか分からないよ」


 嘯いて天を仰ぐ。

 そこにあるのは空ではなく揺れる水面だった。

 なんとも不思議な光景だ。

 気がそれたのが気に食わなかったのか、ドライアドは半身の木の根を使ってユシュネモを軽々もち上げると、毛先が蔦状になっている長い髪の毛で赤い雫を掬い、ユシュネモの口先に押しつけてきた。


 飲めと言っている。髪と動作で、飲めと言っている。


「…」


 何度瞬きしても変わらない。

 ドライアドの蜜が一滴、ゆっくりとユシュネモの顎をつたって地面に落ちる。

 いらないと言おうとして、「い」の形に口を開いた瞬間、見計らっていた蔦が強引に口の中に滑り込んできた。

 甘みと共に濃い花の香りが広がる。

 ぱっとドライアドの顔を見つめた。無意識だった。


 「信じられないくらい美味しい」


 理解しているのかいないのか、ドライアドは満足そうに髪の毛を震わせるとユシュネモの頬に自分の頬を当ててきた。


「もう、何なんだよこれ」


 目を白黒させるユシュネモから空気が抜けるような笑みがもれた。

 こんな、馴れ馴れしいというか、好意的な態度で接してもらえたことなどない。

 憶えている限りの記憶の中で、ユシュネモは初めて誰かに優しくされたのだ。

 握った手のひらに爪を立て、下唇を柔く噛む。

 薄らと紅に色づいた頬に、誤魔化しきれない喜びが滲んでいた。

 しかし、突然ドライアドが頭を抱えて苦しみだした。

 おろされたユウハシュは彼女の全身に亀裂が走っていることに気づく。

 焚き火のような音が絶え間なく響き、ドライアドが枯れていく。彼女の背後にある大木が激しく燃えだして、その炎は濁流のような勢いで地面を覆い尽くした。

 さっきまでとは全く違う赤い海がこの住処を襲っていた。

 燃え盛る炎によりユシュネモの髪が煽られるが、露わになった額には汗の一滴も流れていない。

 ウルトナの霊術がユシュネモを傷つけることなく、ドライアドだけを攻撃していたのだ。

 炎は卵状になってユシュネモを包み込む。次に視界が開けた時、ユシュネモは元いた庭園に戻ってきていた。

 唖然と目の前にいるウルトナを見つめる。


「二日経っている」


 兄の瞳が弓を引いた矢の如く細まった。

 それが自分の右足を貫いていることに気づき、ユシュネモは鈍い動きで首を下げる。

 右膝から下が赤く結晶化していた。

 次から次へとこみ上げてくる衝動が大口を開けてユシュネモを呑み込もうとしてくる。

 両手で顔を覆い深く長い溜め息を吐いた。 

 ユシュネモはドライアドにとり込まれかけていたのだ。

 もし、ウルトナが祓っていなければ今頃あの領域にとらわれて生き餌になっていたことだろう。


「放っておいた方があんたらにとって都合よかったんじゃないの」


 感謝の言葉ではなく嘲笑いをウルトナへ送った。

 あからさまな八つ当たりだが、ウルトナは平坦な声で帰るとだけ告げただけだった。

 しかしいつまで経ってもその場から動かず、先に痺れを切らしたユシュネモが声を張り上げた。


「さっさと行けばいいだろ」

「お前は」

「足! 見てわかんねえの?! 動けねえんだよ嫌味かってんだ!」


 怒鳴ってしまったユシュネモは、くそっと顔を俯かせて恥じているような仕草をみせた。


「連れ帰る」

「はあ? ちょ、うわっ」


 ふわっとユシュネモの体が宙に浮く。ウルトナが霊力で持ち上げたのだ。

 まさかこんな洋灯のような扱いを受けると思っていなかったユシュネモは、驚きのあまり胸に巣くっていたものが何処かへ吹き飛んでしまった。

 ウルトナはそのまま、本当に家まで帰ったのである。

 ツェニルティ家に戻ってきたウルトナは、熱でもあるのかと心配してくる大人達をもれなく無視し、ユシュネモを自分の部屋の寝台に転がすと看病し始めた。

 不気味さのあまりユシュネモは熱を出した。

 苦い薬を飲み干すことより、ウルトナに額の汗を拭き撫でられることの方が酷だった。

 節々の関節が痛む程の高熱に苛まれながらも、なんとか口にしていたスープがウルトナの手作りだと知った時には卒倒した。

 目が覚めても兄。目を瞑る時でも兄。

 ふかふかの寝台で寝ているというのに、荒道に揺れる馬車よりも居心地の悪い毎日が始まったのである。

 ウルトナの部屋の天井を見つめながら、ぼーっとする頭でやけに静かだなと考えて『ああ、そうか』と寝返りをうつ。

 ここには、ウルトナ以外誰もいないのだ。

 常に監視の視線をあちこちから浴びせられるユシュネモの生活と違い、あり得ないくらい人の声も気配もないのである。

 森林の奥にひとりでいるみたいだ。

 ずり落ちた氷のうを適当に顔にのせてまた目を閉じる。

 吐く息は熱く、結晶化したままの足は重い。

 実は案外体調を崩しがちなユシュネモは、季節の変わり目にもよく熱を出していた。

 ウルトナは一日に数回、最低でも三回は様子を見にやってくる。

 ただじっと見つめてくるだけなのだがたまたま深夜に目が覚めた時、枕元に立っていたのでユウハシュは心臓が口から飛び出そうになった。

 夕焼け色の洋灯に照らされて朧気に浮かぶ姿が暗闇の中で一段と怪奇だった。

 若干涙目になりながらふざけんなと抗議したのがよかったのか、それ以来心臓に悪いことはしなくなった。

 そのかわり、昼夜問わず凝視されるようになったのである。

  なんて意味の分からない男なんだ。 

 かたん、と扉の閉まる音がする。


「昼」

「…どうも」


 ウルトナが昼食を届けに来たのだ。無論、手作りの。

 むくれた顔で起き上がったユシュネモは、ほくほくと湯下がたつ卵スープを見て左手に握っている氷のうを投げ捨てたくなった。


「体調」

「ごらんのとおりすこぶるわるいよ」

「そう」

「…」

「…」


 会話なんてこんなものだ。最初から変わらない。

 マグカップに口をつける。皿に注がれたスープを零しかけてからというもの、ウルトナはこうしてマグカップに入れて持ってくるようになったのだ。

 だがこの男にそんな心配りがあるだなんて何かの間違いでしかないので、きっと寝具が汚れるのが嫌なのだろうとユシュネモは思っていて、これ以上掘り下げるとますます訳が分からなくなるため放り投げることにしている。

 半分ほど飲み終えたところでカップを脇に置く。

 腹をさすりながら仰向けに寝転がり、再び額に氷のうをのせた。


「おいしかった」


 それだけ言ってユシュネモはすぐにまた深い眠りについた。

 寝苦しそうな弟の顔を食い入るように見ていたウルトナは、すっかり溶けてしまった氷のうを新しい物に入れ替えると、落ちないようユシュネモの額にのせ直し、自分はソファに体を沈めて夜を明かしたのである。


 全身が燃えるようにあつい。

 ドクドクと脈打つ片足が、まるで熱湯に茹でられているような感覚に陥る。

 そんなことある訳がないのに、手を伸ばして確認したくなってしまう。

 昨日よりも悪化した体調でユシュネモは今日が山場だと悟った。こんなに辛くなると分かっていたらあの時泉の中に引き込まれたりしなかったのに。

 後悔は言葉にならず荒い息となって吐き出されていく。

 目を開けるのも億劫だ。

 今は夜だろうか、昼だろうか。時折舌になすりつけられる苦い薬を嚥下する。

 自分の知る『昨日』から一体何日経ったのだろう。


「ユシュネモ」


 そんな三徹したかのような声で俺の名前を呼ばないでほしい。

 そういえば、ウルトナが監視係になってからというもの大きな怪我をしなくなったような気がする。

 湯だつ頭はいつもと違う視点を湧き上がらせてくる。

 ウルトナがいる側とは反対の方へ首を動かす。


「ユシュネモ」

「ぁ''に」


 やっとのことで絞りだした声は枯れた雑草みたいだった。


「熱」


 は?


 ユシュネモは心の底からウルトナのことを馬鹿だと思った。

 人間怒りの衝動は凄まじいもので、カッと目を見開いたユシュネモはどこにそんな力があったのか、勢いよく起き上がると中腰になっていたウルトナの胸倉を手の甲の血管が浮き出るくらいがっちりと掴んで、腹の底から叫んだ。


「ぼけ!!」


 目を見開いているウルトナは今までにない表情をしていたのだが、頭に血が上っているユシュネモはお構いなしに苛烈な火を口から放った。


「みてわかんだろ! わかれよ! デコさわりゃいっぱつだろこのおたんこなす!」


 力なく垂れ下がっているウルトナの手を掴んでビタン! と自分の額に押し当てる。  


「熱い」


 当然のことを当然のように言ったウルトナは、何故かそのまま幼子にするように額を撫で始めた。

 ユシュネモは自分の目元がヒクついているのが分かった。

 まさか、そうすれば熱が下がるとでも思っているのか。

 しかし、存外悪くない撫でられる心地よさに言葉に詰まる。

 急に静かになったユシュネモを気にしているのかいないのか、ウルトナは満足するまでずっと撫で続けていた。


「なんだよお前、すきかってにしやがって」

「寝て」

「おれだって、もっと、自由に、なんでおればっかり…」

「分かってる。寝て」


 結局、熱が下がって右足が元通りになるまでに五日を要した。

 万全とは言い難いものの、それなりに動けるようになったユシュネモの元へ再び魔族退治の依頼が回ってくるようになったのだが、外の空気を吸えると喜ぶユシュネモとは反対にウルトナがあまりいい顔をしなかった。彼のほんの僅かな表情変化にユシュネモが気づくわけもなく、飄々と魔族退治に向かったのである。


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