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阿鼻叫喚。地獄絵図。
まさにこの場を表すためにあるような言葉達だとユシュネモは頬についた血をぬぐった。
病み上がりに飛び込んできた依頼は、ツェニルティ家の一族同門総出となるほど厄介極まりない魔族が相手だったのである。
血気海月と呼ばれる寄生型の魔族で、血を吸った獲物の脊髄に触手を伸ばして寄生し意のままに操ることができるのだ。
宿主となった人間は人体の組織を弄くられて半魔族化のような状態になり、触刺という針を口から飛ばすようになる。この針の中には分子体と呼ばれる小さな海月が入っていて、言わば本体の分身である。よってこれに刺された人間も間接的に操ることが出来る。
ここで何よりもおぞましいのが、寄生された宿主も刺された人間も自我を失うことがないということだ。
「た、たすけ……けて…」
ボコボコに血管が浮き出た腕を伸ばし、白く濁った瞳孔を左右別々の方向へ動かしている。
彼女は数刻前まで退魔師のひとりであったはずなのに、触刺が刺さったがために魔族の従属へと成り果ててしまった。
こうなってしまってはもう元に戻すことは出来ない。魔族として祓うしかない。
彼女が一歩足を前に出す。ユシュネモは動かない。
相手の間合いに入ったことで、ブチブチと全身の筋肉を引き千切るような音を立てながら距離を一気に詰めてきた。
可動域の限界を無理矢理広げられた体はそこかしこが不気味にひしゃげていて、痛いと泣き叫びながら骨が砕けた腕を鞭のように振るっている。それを躱したユシュネモは流動に身を任せたまま霊剣で相手の胴体を横一文字に切り捨てた。
ぞっとするほど目を見開いたままの死体が地面に転がる。出血量が少ないのは寄生した分子体に餌として吸われたからだろう。
霊剣で切られた傷口から白い炎がたちのぼり、ぼっと心臓を揺らすような音を立てて一瞬にして死体を分子体ごと燃やし尽くした。
「次」
「わかってる!」
ユシュネモのうしろで同じように寄生体を葬っていたウルトナが隣に戻ってきた。
「蟻みたいにぞろぞろいるぞ、なんでここまで数が多いんだ」
「全てにおいて後手にまわった」
「信じられない、最初に依頼された退魔師の家はどこだよ! 全員クビだ、クビだ!」
「ひとり残らず寄生体になった」
「ろくでもねえなあ!」
ユシュネモの言うとおり、本当にろくでもない退魔師家のせいでこうなったのである。
始まりは小さな集落に住む農民で、井戸の水に潜んでいた血気海月に寄生されたのだ。その後集落全員が寄生体となってしまい、百鬼夜行のように彷徨っているところを近隣の村人が目撃し、近くの退魔師家へ助けを求めたそうなのだが、その退魔師家が問題であった。
よくて二流、せいぜい三流。たいした同門も分家もいないのに名をあげようと独占した結果、逆に相手の数を増やすことになったのである。
寄生体を祓う時は心を空っぽにしなければならない。でないと、まるで自分が人殺しになっているような感覚に陥り、動きに躊躇いが生まれるのだ。
そうやって自己嫌悪にとらわれた退魔師が敵に寄生され寄生体になっていくのを横目に、ユシュネモは確実にひとり、またひとりと祓い続けた。
見知っている顔が呪詛をはいて事切れても、ユシュネモの眉はピクリとも動かなかった。
ツェニルティ家に従属する退魔師は数が少ない。
本家、分家、同門を合わせても二十人程度で、これは彼等が繁栄よりも名誉を重んじているがゆえのことである。
その名誉も、圧倒的な数の暴力と否が応でも浴びせられる精神的苦痛によりいくつもの傷を負っていた。
いくら多いとはいえ、百か二百だろうと想定された寄生体の数は数十倍に膨れ上がっており、その中には霊剣や霊術を使ってくる退魔師だっているのだ。
ツェニルティ家とて例外ではない。
それなりに大きな町をひと呑みしてきたのではないかと疑う増殖数であるが、今は真相究明よりも殲滅が優先される。
ユシュネモの息が荒い。治ったばかりの右足がふんばれなくなってきた。呼吸の度に肺の底から鉄のにおいがこみ上げてくる。
体力に限界があるように、霊力にも限界がある。真っ直ぐ長い道を常に全力疾走していれば誰だっていつか限界がおとずれるが、その足音がユシュネモのすぐ傍までやってきていた。
ガクッと膝から力が抜ける。舌打ちする間もなく倒れていく体を誰かが強く引っ張った。
「無茶をしている」
「それは兄上もでしょ」
憎まれ口を叩いているものの、伏せた顔色は悪く指先が小刻みに揺れていた。霊力が尽きかけているのは明白で、手を離したウルトナはよろよろと立ち上がろうとするユシュネモに「やめろ」と強い口調で告げた。
「家に帰れ」
役立たずは引っ込んでろというわけか。
ユシュネモは薄く笑いながら顔を上げた。
「救援は?」
「ニーデル家」
ニーデル家は退魔家の中で最も退魔師の人数が多く、輝かしい栄華を誇っている大退魔家だ。外界でも名を馳せている一族で、その実力は確かなものである。
「いつ来るの」
「朝日が昇る前には」
「それまで頑張れってか、もしこいつらが都市におりたら大変なことになるぞ」
史実、血気海月に滅ぼされた国はひとつやふたつではない。
ウルトナは「分かっている」と平時と変わらない様子で言った。この人はいつもこうだ。ユシュネモが寝坊して鳥の巣頭で逢った時も、馬鹿みたいな量の肉を食べて気持ち悪いと嘔吐いていた時も、今、こんな時でさえも、動かない表面で淡々と言葉を連ねるのである。
唯一の違いは、薄らと額に汗の粒が浮かんでいることくらいだろうか。
……汗?
「おいあんた、朝までもつのかよ」
「お前よりは」
つまり、ウルトナにも限界の景色が見えてきているというわけだ。
ユシュネモが拍車をかけてしまったのだろう。先程から何度危ないところを助けてもらったか数えきれない。
構わなくていいと言えばいいのに、口に出来ないのは何故なのか。ユシュネモの心臓がひときわ強く鼓動した。
同じように劣勢になりながらも戦い続けている退魔師達の顔もきつそうに歪んでいる。
ふと、全滅という最悪の未来が頭をよぎる。
こっちは数が減っていく一方だというのに、向こうは寄生されてより強くなった退魔師が、人間性をねじ曲げられながら束になって襲いかかってくるのだ。
それを受け流そうと身を構えたユシュネモの前にウルトナが体をすべり込ませる。
流れ星のような銀色の一閃が走り、斬られた寄生体が崩れ落ちて山になった。一呼吸置く間もなく新たな寄生体の群が燃える死体を越えて飛びかかってきた。
今度はユシュネモが霊剣を振り一掃する。その刹那霊剣の具現化が解けかけた。
本当にもう無理かもしれないと悟るユシュネモに今一度強く「帰れ」とウルトナが言い放った。
気づけば彼の背中や腕の傷も深いものが増えていて、雨漏りのように赤い雫が衣服から滴っている。だんだんと短くなっていく蝋燭に、いつ消えるかも分からない火が揺れていた。
「…」
ユシュネモは目を閉じて『部屋』に入った。本をめくる。見たこともない方陣が描かれていた。
パッと目を開けて我に返ったユシュネモは、今しがた見た方陣を細部までしっかりと思い浮かべながら血色の悪い唇を開いた。
『葬れ』
背中の皮を剥がされるかのような悪寒がその場にいた全員を襲った。地表から黒い炎が噴き上がり、雪崩よりも不安をかき立てる地鳴りを響かせながら裂けていく。
門の如く開かれた絶壁の底は暗晦で、まるで深淵がそこにあるかのようだ。
よくよく見ればその暗闇におびただしい数の蠍がひしめき合っていた。一匹一匹が巨像より大きく、それが大群となって絶壁をよじ登ってきていたのである。
あまりの気味悪さに手で口を覆ったまま何度も喉を上下させる退魔師もいた。
しかし、その蠍達は退魔師を襲うことなく、寄生体だけに毒の尾を振りかざしたのである。
千切れた寄生体の体をバリボリと貪り喰う音と、事切れる寸前の悲鳴が交差する。
「ユシュネモ」
今までに聞いたことのない声色でウルトナが呼びかけてきたが、ユシュネモは間違ってもウルトナの方を見なかった。
ユシュネモの右眼は既に白色の皮膜が黒く塗りつぶされていたのだ。
後悔はない。悲観もしていない。
ユシュネモの心は凪えいでいた。いつかこうなると最初から分かっていたかのように。
ウルトナの一声に胸がぎゅっとした痛みを覚えるが、むしろ煩わしい存在が消えることにツェニルティ家の者達は心地よく毎日を眠れるようになるのではないだろうか。
その前にユシュネモ自身の意識がとびかけていた。禁術を使った代償で魔族に堕ちかけているのだ。
深淵から呼び出された大蠍は霊剣や霊術を受けても頑丈な外殻に傷がつくことがなく、歯の根が震えるような冷気を纏っている。
ユシュネモが使っていた自分の霊剣はきれいさっぱり消えてしまっていて、ならばとようやくユシュネモはウルトナの方を見た。だが、どうしても兄の顔までは見ることができず、途切れかけている意識のなかで、ウルトナが力なく握っていた霊剣を抜き取った。
もっともみ合いになるかと思ったのに、予想外に簡単に奪えてしまえたことに首を捻りながら、ユシュネモは剣の切っ先を自分の胸に突きつけると、そのまま一気に心臓めがけて沈めていった。
しかし途中で反発する力に食い止められ、手から剣をひったくられてしまった。文句を言うにも、既にユシュネモの意識は起きているのか眠っているのかあやふやなほどに混濁していて、まともに舌がまわらなくなっていた。
そして二度寝するように勝手に閉じてしまった瞼をもう一度開けることができなかったのである。
次に目を覚ました時、ユシュネモは人間の子供を喰っていた。
心を失ってしまったユシュネモは何も考えられないまま、ただ本能に従い『餌』を喰い続けた。骨になった亡骸を投げ捨てる。腹が満たされると心地が良くて、そのまま心地よさの中に溺れるようにまた眠りについた。
またその次に起きた時には、様々な魔族を引き連れてとある国の王都を血祭りにしていた。
目の前で命乞いをしている女性の首を飛ばし、決死の覚悟で立ち向かってくる退魔師の腕を雑草を引き抜くかのごとく千切ったのである。
それを潜在下にいるユシュネモはただぼうっと眺めていた。
自分のしていることなのにまるで他人事で、石になったこと感情は微動だに動かない。
そうして再度微睡み、なんとなくもう自分が目を覚ますことはないのだろうなと察していたら、滝にうたれたかのような衝撃が唐突にユシュネモを襲ってきた。
はっきりと叩き起こされた意識は霊剣で傷つけられた頬の痛みをありありと感じとっていたが、ユシュネモはそれどころではなかった。
砕けた石の中から解放された感情が怒濤の勢いで全身を巡り、目の前の光景が現実であると焼けつくような胸の痛みでもって訴えてくる。
ユシュネモの伸ばした右腕が、ウルトナの心臓を貫いていた。
頬の痛みは、彼の霊剣によるものだったのである。
「おぁヴア」
言葉は鳴き声となって口からこぼれた。
ウルトナの瞳孔は開ききっていて、吐血の痕跡が生々しく残っている。
手から霊剣が滑り落ち、よりかかるようにして重い体がユシュネモに覆い被さった。
まだ温かさが残る場所から腕を抜く。信じられない量の血が胸からどぱどぱとあふれた。
脱力しきったウルトナの体が崩れ落ち、呆然としたユシュネモが両膝をついた。
華やかだった王都は見る影もないなく、民家は瓦礫と化していて火の粉を散らしながら燃えていた。貴族の馬車が走っていた街道には息絶えた人の死体が転がり、血の水たまりをいくつも作っていた。
鎧を身につけているのは近衛兵だろうか。見覚えのないローブはどこの家の退魔師か。
物言わぬ骸からは何も分からない。地平線に晒された土地が、この惨状をつくりだしたのがユシュネモであると痛いほどに訴えてくる。
ユシュネモは喉を切り裂いて熱い鉄の塊を押しつけられたかのような声を上げながら、血肉が染みこんでいる爪で己の胸を掻き毟った。
あわや心臓にまで到達するのではというくらい胸がぐちゃぐちゃになると、何かに気づいたのか急にピタリと動きを止めて静かになった。
不気味な沈黙は数秒続いたが、ユシュネモは緩慢に腕を動かすと泥の中に腕を突っ込むかの如く自分の胸に深く突き刺し、ぶちぶちと血管を引きちぎりながら心臓を取り出したのである。
断末魔を上げるかのようにドクドクと脈打つそれをウルトナの胸にボトッとのせる。
『蘇れ』
ぐぷんと太く鈍い音と共にユシュネモの心臓がウルトナに取り込まれると、思い残すことはないとばかりに肺の空気を吐ききったユシュネモの指先が、灰色に変色して崩れ始めた。
ウルトナが目を覚ます前に、ユシュネモはそうやって塵屑となって風に吹き消されてしまったのである。




