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 冷静さを取り戻したユシュネモは母の顔をまじまじと見た。

 似ているとか、そういうこと以前に顔色が悪すぎる。元々病気がちでよく寝込んでいた彼女は、ユシュネモを産んですぐに体調を崩して数年後に亡くなったと聞いているが、逆によく数年ももったなという印象である。

 だって、こんな、今にも血を吐いて死んでしまいそうなのに。

 医者以外誰も近付くなと指示をだされていたとしても納得だ。

 そしてウルトナ。

 あのウルトナが赤子のユシュネモを抱きかかえている。信じられない。やはりここは記憶の中ではなく、幻覚を見せられているだけなのかもしれない。

 いずれにせよ、あの小箱には不思議な力が秘められていたというわけだ。

 流れる時間の感覚も現実とは違うようで、風が一迅吹く度にどんどん日が暮れて夜の色が強くなっていくのである。ウルトナはずっとユシュネモを抱えていたままで、母親はそんな二人を静かに見守っていた。

 星がひとつふたつ瞬く頃になると、ウルトナはユシュネモの頬を鼻先で撫でてから母親に渡し、本家の方に帰って行った。

 両目どころか口もぽかんと開けて今のはなんだと慄くユシュネモは、暫くの間視線をあちこちに飛ばしたり、両手で顔や口を覆ったり、挙げ句には頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。

 根がはったように地面から離れない足に差した影が、濃く浮き上がって日の出の時間を告げてくる。

 しかし、今日はいくら日が高く昇っても母親と赤子のユシュネモが庭前にでてくることはなかった。泣き声と、それをあやすような声だけが聞こえてくる。するとその泣き声を聞きつけたウルトナが心なしか小走りでやってきた。


「……」


 庭前には入らず、手前でウロウロとしている。顔はしっかり赤子の声がする方を向いていた。やがて我慢出来なくなったのか、ぱっと家に上がって奥の方へ向かったのである。

 何かたちの悪い術にかかってしまったかのように己の意思とは無関係に動く足は、ウルトナが止まったことでまたウンともスンともいわなくなった。

 しかし、ユシュネモはそんなことを気にしている場合ではなかった。

 赤子をあやす母親の頬に、骨身に沁みるほど見覚えのある亀裂が入っていたのである。


「禁術」

「ウルトナ」

「禁術をつかったのか」


 母が眉を下げて微笑む。

 

「霊力が枯れかけている。魔族に堕ちるのも時間の問題だ」

「ええ、理解しています」

「いつから」


 妙な間があく。ウルトナがもう一度強く問い詰めた。

 

「この子が生まれてくる前からです」


 ウルトナははっきりと顔を顰めた。その言葉が意味することを、ユシュネモも悟っていた。

 人ではなくなってしまった存在から自分は生まれてきたのだと。

 ウルトナが赤子に手を伸ばすと、母がぐっと背を丸めて吠えた。


「この子と一緒に生きたいのです!」


 彼女の頬は濡れていた。


「ウルトナ、あなたを産んだ時のことを、わたしは何も覚えていないのです。それからずっと、ずっと記憶が抜け落ちているわたしが、わたしにとっては、ユシュネモが初めての自分の子供なのです!」


 ユシュネモの口の中はいつの間にかカラカラに渇いていた。

 瞬きすら出来ずにいた目をぐっと閉じると、染みるような痛みに涙が滲みでてくる。

 毛糸の如くグチャグチャに絡まった塊が胸の中を巣くい、息をするのが苦しかった。なかなかほどけないそれは吐こうとして吐き出せるものでもなく、ただただ重く沈殿していくばかりである。


 そんなユシュネモを嘲笑うかのように場面は次々に変わっていく。


 母親の魔族堕ちはゆっくりで、限られた時間のほとんどをユシュネモとだけ過ごしていた。ぱたりと来なくなってしまったウルトナを忘れてはいないものの、自分から会いに行く素振りはなかった。行けなかったのだ。

 窪んだ眼窩に額にまで及ぶひび割れと長く伸びた舌、灰色に変色した体は変形が現れ始め、手首から甲にかけて蛾の触角が生えていた。足は岩のように固まり引き摺ることでしか移動できず、床に傷をつくっていた。

 それでも母親の顔に悲哀はなかった。小さな手をめいいっぱい伸ばしたユシュネモが、喜びをギュッと詰め込んだ笑顔をみせていたからである。

 しかし、いつまでも隠し通せるものではないというのは誰の目から見ても明らかだった。

 二年。よくもった方だ。正気を保ち続けている母親に脱帽する。ツェニルケ家は霊山に囲まれているため、その影響を受け多少なりと浄化されているせいだろう。だからこそ、逃げ出さずにわざわざここにいるのだ。一歩外へ出ればユシュネモのことすら分からなくなるほど魔族に堕ちきってしまうから。

 母親の元へやってきた当主は、全身を赤く染め上げ、首の血管をくっきり浮かばせながら責め句を飛ばしている。

 その勢いは凄まじく、言葉で人を殺すかのようだ。片言しか口に出来なくなった母親は、あまりの苛烈さにブルブルと震えながらユシュネモを抱きしめて終始俯いていた。

 当主の隣にいるウルトナは無表情で握りこぶしを作っている。眼差しは母親ではなくウルトナに注がれていた。


「貴様、何の禁術を使ったのかと聞いているだろう! 吐け!」

「い、や…いャ、いや」


 母親はぐずる赤子よりも首を横に振る。初めてみせた反応らしい反応が拒絶だったため、当主は軋む音がするほど奥歯を噛み締めた。

 ユシュネモには分かるが、母親は単純に寿命をのばすだけではなく、経ちきれぬ縁を結ぶことで自分の魂をユシュネモに委ねたのである。ユシュネモの許可がない限り満足に成仏することも出来ないだろう。どんなにいい言葉を選んでも守護霊のなり損ないといったところか。

 ユシュネモの脳裏に過るまさか、という予感に全身の産毛が総毛立つ。

 嫌な予感というのは、大抵が当たるものである。

 血走った目をしている当主は母親から赤子をむしり取ろうとしたが、針で首の裏を刺されたかの如くビクリと動きを止めると、赤子を見る目がどんどん鋭くなっていった。


「…なんと、おぞましいことを」


 これ以上同じ空気を吸うことも絶えられないとばかりに当主は踵を返してしまった。

 ウルトナも彼の背に続く。

 その手の平にはくっきりと爪の跡が刻まれ血が滲んでいた。

 命を奪うのではなく、母親へ退魔師界からの追放がくだされたのは、なけなしの温情だったのかもしれない。

 しかしユシュネモに至ってはそうもいかなかった。

 蠱毒の中から生き残った毒虫を見るかのような目でユシュネモを睨めつけ、世から消すべしと当主が告げたのだ。

 これに異を唱えたのは理性も正気も失いかけている母親ではなく、至って素面のウルトナだった。


「犬のように飼い慣らし、使えないようならその時に処分すればよろしいかと」

「得たいの知れない奇異モノを生かせと? この、ツェニルティ家で?」

「ご覧の通り霊力においては類を見ないほど強大です。本当にこの才能を試すことことなく捨ててしまってもいいのですか。価値あるものにするかどうかは父上次第なのでは」

「私の手腕では無理だと言いたいのか」

「逆です。だからこうして提案しているのです」


 煮え滾った当主の頭に、淡々としたウルトナの声は冷水となって平静さを取り戻させた。

 湯源のように霊力が溢れ出ている赤子。

 腐らせずに育てるには徹底的な管理が必要になる。名刀となるか、妖刀となるか。賭け事などするできではないと分かっているが、分かっていても、可能性があるならばと拾ってしまいたくなるほど、喉から手が出てしまうほどに輝かしい才能の塊だ。

 望まぬ結果になったら破棄すればいい。

 当主は赤子を生かすと決めた。ウルトナの助言に耳を傾けたのだ。

 毎日訪ねるくらい弟に入れ込んでいた頃ならまだしも、今はほぼ交流を断っていて興味も関心も示さなくなったことから、客観視したウルトナの意見を受け入れたのである。

 ユシュネモは天を仰いだ。

 もし、ウルトナが以前のように毎日ここへ通っていたら、当主は聞き入れなかっただろう。なんなら、お前も禁術に惑わされているのかと疑われ、罰を与えた後にユシュネモを人ではなく魔族として祓うべきだと沙汰を下していたに違いない。


 ウルトナによって、ユシュネモは自由と引き換えに命を救われたのである。


 当主は母親の腕から無理矢理赤子を奪ってウルトナに押しつけると、小刀で赤子の髪をひと束切って結い紐で結び、それを懐から取り出した小さな木箱に入れるとユシュネモの代わりとして母親に渡した。

 どうやら母親は木箱を本物のユシュネモだと勘違いしているようで、腕に抱えると緩慢に揺らしてあやし始めた。

 まさにあの、沼地で拾った木箱だった。

 それだけを大切そうに持ち、手綱を引く御者すらいない質素な馬車に押し込められた母親は、そのままツェニルティ家を追放されたのてまある。

 水も食料も口にすることなく、幾日もかけて辿り着いた先は予想通りユシュネモ達が木箱を拾った沼地であった。

 彼女はそこで、訳が分からなくなって自分の体を自分で喰い尽くしてしまうまで、繰り返す子守歌を鼻歌に木箱をあやし続けていた。

 

 震える息を吐きだしたユシュネモは、自分の首の裏を労るように撫でた。母親の場面はそこで終わり、今度はウルトナに切り替わった。

 母親を追放して少し経った頃だろうか。ユシュネモは大きく息を吸って胸を膨らませると、見せられるウルトナの記憶に目を向けた。

 母親のいない離れに閉じ込められたユシュネモの元には、決まった人間が代わるがわるやってきて世話をしていた。

 その手つきはどこまでも義務的で、泣いた赤子を撫でることも抱くこともせず、することが終わったらそのまま次の見張り番が来る時間まで正座で待機し、交代後は本家へ帰って行くのである。

 情などない、生かすための世話でしなかった。こんな結滞な扱いを受けていたのかと自分のことながら妙に感心していると、遠くから時折見つめていただけだったウルトナが、見張りが唯一外れるほんの一時を見計らって離れにやってきたのである。

 皆が寝静まった月夜だった。

 服のすれ音すら立てず、眠るユシュネモの隣に座ると何をするでもなく寝顔を眺め始めた。

 やがてそぞろに手を伸ばすと、雪に触れるかのような繊細な手つきでユシュネモの額を撫でたのである。

 まだ五歳の子供は、幼いなりに自分のやり方で弟を守ろうとしていた。

 自分は嫌われていたのではなかったのだと、ユシュネモははっきりと自覚した。

 それからは何も変わらない日々が重ねられていった。

 死なない程度の世話を受ける赤子と、死ぬのが惜しくないとばかりに魔族退治に没頭するウルトナ。ユシュネモも仕事場に送り込まれるようになるのは割と早かったが、それは半分嫌がらせも含まれていた。しかし、後継者として教育と期待を受けているウルトナはもっと大切にされていると思っていた。それがどうだ。本人が大人達の手を振り払って魔族のいる場に向かうのである。名ばかりの教育係を囮にして魔族を祓った時は驚いた。家訓に反するか否かギリギリの行為だったからだ。しかし彼は叱咤されることなく、それどころかその日をきっかけにウルトナの周囲から人が消えた。当主もウルトナが自由に行動するのを許したのである。

 大々的に家訓を破らなければ多少のことには目をつぶってやるという意味だった。

 ユシュネモに自我が芽生え始めると、ウルトナはこっそり離れに行くのをやめてしまった。

 耳にするユシュネモの不遜な態度にも何も言わず、他者から見れば本当に興味がないんだなと疑う余地すらなかった。

 ウルトナが人嫌いという認識も本家の中で生まれていた。そんなウルトナは当主の言うことだけはよく聞いていて、どこぞの誰かとは違って反抗する素振りもなかった。

 蒸し暑さが残る日の朝、当主に呼び出されたウルトナは、本と墨の匂いが充満する部屋で、酷い耳鳴りでもしているかのように眉間に皺を寄せた父親と会っていた。ウルトナの手の爪は短く切りそろえられていて、間違っても何か物を傷つけることはないだろう。その手に当主が渡したのは冷たい銀の鍵だった。


「離れの鍵だ。あれの監視をしろ」

「あれとは」

「お前が言ったことだろう。使えるように躾中の奇異物だ」

「あぁ」


 さも今思い出したというウルトナの様子に当主は鼻で嗤った。


「無駄に知恵もあるせいで他の者が手を焼いている。黙らせろ」

「はい」


 目礼だけして部屋を出たウルトナは、握る銀の鍵をさっと自分の胸元にしまった。歩く速さは変わらないのに、はためくローブの裾がいつもより大きく波打っている。

 ウルトナはそのまま離れに行くのではなく、まずは自分の部屋に帰ってきた。鍵を首飾りにして身につけると、机に置きっぱなしの波璃鏡には目もくれずに身なりを整え始めた。

 急に湯を浴びたり着替え始めたウルトナに、ユシュネモは目を瞬かせた。当主の部屋の匂いがつくのが嫌だったのだろうか。そこまで潔癖な性格でもなかったように思えるが。

 髪が乾いたことを確認してから、ウルトナはユシュネモがいる離れへ向かったのである。


「だれ」


 当然、赤子の頃の記憶など皆無なユシュネモは、ウルトナの顔も声も柔らかな指先も何も覚えていない。

 言葉がでてこないウルトナに、ユシュネモはなおも問いかける。


「喋るの嫌い?」


 僅かに頷こうとした筋肉の動きが見てとれるが、やさぐれた子供のユシュネモは気づかない。


「じゃあ自分の名前が嫌いなの?」

「……」


 続く沈黙。あからさまに動く生唾を飲み込んだ喉。


「ふっ、はは!」


 お前は恋する乙女かと、見ていた今のユシュネモは笑いを噛み殺そうとして失敗した。あのウルトナが緊張しているのである。

 その後も悉く選ぶ言葉を間違え、密かに狼狽えるウルトナにユシュネモの口角は上がりっぱなしだった。

 友達にはなれない。それはそうだ。こいつは兄でいたいのだから。

 それにしても、木箱は一体どこまで人の記憶を見せてくれるのだろうか。現実ではどれくらいの日数が経過しているのか気になるが、この夢みたいな現実から醒める手段を探した方がいいのかもしれない。名残惜しいが、いつかのドライアドの時のように取り込まれかけたら厄介だ。

 そんなユシュネモの心境を察したのか、また唐突に情景が変化した。

 

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