10.引きこもりは月を目指す:2120年2月25日
『ワクレン・ファンと禁忌技術』4回目の講義が終わった。残り1回。
今回も面白く、そして脳が疲弊した。
講義が終わってすぐ、わたしは、秘書AIを通して宅配デザートを注文した。
自分に2品。遙華に2品。
しばらくすると、宅配ドローンが、デザートを4品持ってきた。
わたしが自分で頼んだのが2品。遙華がわたしのために頼んでくれたのが2品。
多すぎる? いいんだよ! 人生に幸せは多いくらいでちょうどいいんだ!
いただきます!
まずは、遙華が頼んでくれた分だよね。これは……和菓子風? 何か練ったものが団子になってる。遙華って、見た目も中身も豪華なのを選ぶ傾向があるので、このシンプルさはちょっと珍しい。
どれ、一口……おおっ、強い甘味と程よい酸味の絶妙なブレンドが……餡っぽく見えたのは、ナノ化したお高い漉し器を通して滑らかにしてるせいか。見た目は和菓子風だけど、これは遙華が好きなチーズケーキの系列だな。紅茶があいそう。
遙華が自分でも何度も食べて、これはいけると思ったのだろう。
脳裏に、遙華がエサを食べるウサギのように、モッモッモッ、と餡風チーズケーキを食べる姿が浮かび、おかしくなって笑う。
こんなの食べてるから、スポーツジムでわたしと遭遇する回数が増えるんだよ。
最近は、わたしと遙華がスポーツジムで出会っても、お互いに不審者仕草をすることはなくなった。
……ウソです。見栄をはりました。
正確には、不審者仕草が少なくなった。
先に相手を見つけた側が、心の準備として挨拶や話題を考え、不審者仕草になってしまうくらいだ。
なに?
心の準備をした側が不審者仕草になるのは逆じゃないか?
それは引きこもりというものへの理解が低い。
いいかね。遙華やわたしのような頭がよくて健康な引きこもりというのは、心の準備という建前で、どうでもいいことを、山のように考えてしまうものなんだ。むしろ、初手は相手に取らせて反応した方が、考える時間が少なくて最適な受け答えができる。つまり、誘い受けが最強なのだ。
……ウソです。誇張しました。
それでも、なんとなく遙華との間がうまくいってる感じはある。
名前しか知らないけどね。その名前にしても、銀天象って名字からして、本名じゃないだろうけどね。
お互いに相手の過去は知らない。会話の中で推測することはあるけど、確認はしない。
22世紀日本の引きこもりライフは、プライバシーが皆無だ。アーコロジーの管理AIにはわたしのウンコとシッコの内容物まで知られている。日々何を食べて、どんな健康状態かは丸わかりってことだ。ひょっとしたら、わたしの精神状態まで見抜かれてるかもしれない。排泄物は、言葉よりよほど雄弁にその人について語る。イジメなどの暴力や自傷といった異常行動は、日々の排泄物をチェックすれば90%以上の確率で予測可能だという。人は、胃腸が行動方針を決め、脳が実行している。
排泄物で異常行動が予測できるって、わたしらは動物か! はい動物ですね。獣の度合いが違うだけ。ケモケモしてるか、ホモホモしてるかだけだ。
だからこそ、ホモホモしてるわたしは自分が知らなくていいことには踏み込まない。
わたしが作るラインは一本のみ。
遙華が語ろうとしないことは、わたしが知らなくていいこと。
わたしにとっての遙華は、会話の中でぼんやりと浮かぶ輪郭だけでいい。自分の中にだって踏み込みたくないのに、他人の中はわたしの手にあまるよ。
無責任かな? でもそれが大事なんだよ。
人はもっと他人にも自分にも無責任になるべき。へたに責任感があるから、無駄に怒ったり、無用な介入をはじめちゃうのだ。そして勝手に失望したりしてね。
わたしの両親も──あ、いかん。
これ以上この思考を続けるとトラウマに引っかかる。切り替えないと、今夜の睡眠生産性が落ちる。
切り替えろ。わたしは頭がいい子だ。そうなるようにと願い、聡子と命名された。親からもらったもので気に入ってるのは、この名前くらいで──切り替えてないじゃん!
いかんな。情報過多で脳が疲れてる時ほど、思考が止まらない。講義で大量に入ってきた情報を、わたしの脳は意識の底でせっせと整理中だ。表層で浮ついたとりとめもない思考が止まらないのは、情報整理に引きずられてのことだ。
もちろん、眠るのも無理。だから甘いものを食べる。遙華のくれた和菓子風チーズケーキ団子、さっぱりしてるけど、匂いはチーズが強いな。チーズか……月がチーズの塊っておとぎ話、子供のころに読んだな。むかしむかし、そのむかし。月が地球にまだ近かったころに、人々はチーズの塊だった月にむけて棒を伸ばして表面のチーズをすくい取ってました……元はイタリアかどこかのお話で、わたしが読んだのは、それを子供向けの絵本にしたもの。
月が地球に近づいた時に、重力が相殺されて体が軽くなって浮きあがる描写や、月にチーズを取りにいって地球に戻れなくなった人の絵に、ずいぶんと心がひかれた覚えがある。
そう。月だ──月なのだ。
月こそは、ワクレンが遺した禁忌技術が今も残ってる……かどうかはわからないが、その可能性がある場所だというのが、今回の講義だった。
ワクレンは、月の開発に全力を注いだ。
人類が最初に月に到達したのは、今から150年前になる。ロケットが戦争に使われた第二次世界大戦の終結から24年だ。前の戦争の勝者となったアメリカとソ連は、戦争で鍛えた国家運営力を宇宙開発競争に振り向け、代理戦争のようにして競い合った。「月に行く」という勝利条件を達成させるため、アメリカは国の総力をあげてアポロ計画を邁進させ、ソ連との競争に勝った。
驚くべき科学の成果に、人々は20世紀中に民間の月旅行が実現し、月にドーム都市が建設されるだろうと予想したが、これは外れた。アポロ計画は、国家総力戦を宇宙開発に持ち込んだから達成できたのだ。この後の合衆国の宇宙開発は、後先考えずに広げた戦線を縮小するのに、ずいぶんと手こずることになる。
21世紀になっても、月開発は遠かった。宇宙開発は科学的目的以外にも、衛星による測位、気象などの地球観測、衛星通信など社会の役に立つ分野で進んでいたが、このほとんどは月にまで足を伸ばす必要のないものだった。国家総力戦の時代は遠く過ぎ去り、情報通信技術によって加速した経済戦争の時代となっていた。
金を動かすには、金の求めるところを知らねばならない。金が月を欲しなければ、ワクレンといえど、月に金を費やすことは許されなかった。
宇宙への観光旅行は、21世紀中盤でも見込みがなかった。観光地としての魅力が宇宙にはある。しかし、宇宙への観光旅行にかかる準備の手間と待機の時間が、21世紀人のライフスタイルには長すぎた。大金持ちで、宇宙に強い執着心があり、地球上での生活のかなりの部分を犠牲にしても宇宙旅行に行きたいなら別だが、これは条件が厳しすぎる。ワクレン自身でさえ、宇宙には一度も行っていない。地球での経済戦争が忙しすぎた。
ワクレンにとって光明となったのは、ナノ技術だった。枯渇する石油資源や環境問題を解決するため、混沌回路でネットワーク化したAIが導き出した錬金術だ。人類の科学史上で最初にAIがノーベル賞をとった研究である。今では人間限定ノーベル賞が別に作られるほど、本家ノーベル賞はことごとくAIが独占するようになっている。文学賞なんか、三年連続で死者復元文豪だ。去年はアガサ・クリスティだった。くそっ、わたしは清少納言を推してたのに。『Re:枕草子ver3.445』は文学史上に冠たる傑作。
閑話休題。
ナノ技術は世界の至るところで実用化され、経済の足腰を支えたが、あまりに便利すぎて無法図に広まりすぎ──人類史上最悪の災厄を引き起こした。
西アジアの半ばは今もナノ化した塩の塊となり、生ある存在を拒み続けている。人間の過失と悪意とがほどよくミックスした結果がこれだよ。
人は愚かだ。だが、人が昔に比べてより愚かになったことはない。今も昔も、たぶん未来も、人は同じくらい愚かなのだ。
ナノ化技術を一定の確率で愚かな行為をする人間が大勢いる地球上で使い続けるのは、あまりに危険すぎた。だが、衛星軌道にもっていけばそれですむ問題でもない。ナノマシンに食わせる原材料が豊富な場所でなくては。
そんな都合のいい場所は──あった。
月だ。
ナノマシンを使った錬金術にとって、原材料はなんでもいい。月の砂からチーズだって作れるのだ。
ワクレンは無数のロボットを月へ送り出した。ロボットたちはナノマシンを使って加工した材料を元に、さらなるロボットと、ロボットのための都市と、地球へ物資を送るためのマスドライバーとを建設した。ロボット都市にはアシモフ、チャペック、ナタ、クベーラ、マジンガーなどのロボットや宇宙にちなんだ名前がつけられた。
月は人類にとって枯渇することなき鉱山、尽きせぬ油田となった。
ロボット都市は、直接は見ることのできない月の裏側から、地球へ物資を届けた。月の開発はワクレンを中心とする“豚飼い”資本が独占した。
人豚事件の終幕となる、10年前の天罰の月で“豚飼い”は消滅し、余波を受けて合衆国は崩壊した。22世紀世界の政治的軍事的な覇権は汎アジア連盟が合衆国に取って代わったが、“豚飼い”の経済支配はAIネットワークが運用だけ引き継ぎ、世界のどこの国も手出しができないでいる。
10年後の今も、月開発計画の根幹は“豚飼い”資本時代のままだ。
それはつまり、ワクレンの思惑のままということで──
「ワクレンの人類を宇宙に送っちゃおう計画は、まだ生きてるってことか」
ワクレンは事故で死亡し、息子や孫は黄家封神で消え、一族と別荘はカリブ海の島ごとナノ水晶と化した。他の“豚飼い”も合衆国を道連れに核の業火で焼き払われた。
なのに、ワクレンの月開発計画だけは誰も止めることができないまま、動き続けている。
「うぇーっぷ。……面白いじゃんか」
わたしはげっぷをし、お腹を撫でる。大丈夫、食べすぎてなんかいない。ちょっとせり出してる気がするのは、味が濃かったから紅茶を飲みすぎたせい。カロリーは摂取しすぎていない。
否。
むしろ、考えすぎたせいで、脳にブドウ糖の供給が不足している。脳というブドウ糖の一大消費地を持つ人間は、甘味に逆らえないのだ。
「バディ。デザート追加」
「……」
その絶妙な間、やめろよ!
秘書AIは感情をもたないが、人間の感情を操る手くだは使ってくる。
誰だ、健気で純真だったわたしのバディにそんな汚れた手を教えたのは。
……ええ、そうですよ。わたしですよ。
バディはわたしの行動と反応を読み取って、経験を蓄積し、適応し続けてるだけ。
人間の進化には、生物適応の他に社会適応がある。社会という環境に適応して自らを作り変えるのが人だ。
同じようにバディは、人であるわたしという環境に適応して自らを作り変えている。
「どれにしましょうか」
「遙華が選んでくれたお団子っぽいチーズケーキ」
「わかりました」
届いたデザートを、熱い紅茶で堪能する。
追加のブドウ糖が、脳のやる気をかきたてる。
「月へ行ってみようか」
最後に月に行って、もう10年近い。
世界中が大騒ぎになった時はBC-WARどころではなかったし、落ち着いてからは足が遠くなった。チームも解散しちゃったしね。
気にはなってたんだよ。
やる気がでなかっただけでさ。
講義で月が出たのも良い機会だ。“豚飼い”がいた頃の月と、今の月を見比べてみよう。
引きこもりも、月を目指すのだ。




