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11.引きこもりは月を飛ぶ:2120年2月29日

 月へ行く。

 口で言うのは簡単だが、実行するのは難しい。

 わたしが月に行くと口にしてから3日。いや、4日が過ぎた。

 そういえば今日は4年に1度の2月29日だ。

 世の中のルールというのは不思議なもので、最初はローカルなものでも定着してしまうと、昔からそうでしたよ、というふうな顔して受け入れられてしまう。

 暦がそうだ。地球の公転期間に端数があるから、うるう年が必要なのはわかる。しかし、なぜ2月だけが28日で、たまに29日になるのか。30日と31日の月の並びも考えてみれば謎なルールだよな。

 太陽暦が暦の業界標準になる前は、月の満ち欠けを基準とする太陰暦が多くの地域で使われていた。日本もそうだ。そりゃそうだろうと思う。

 だって月は“そこ”にある。地球のどこから見上げても、空には同じ顔して月が浮かぶ。日々太り、満ちては痩せ、消えてまた現れる。地球の誰もが同じものを見ている。満ち欠けをながめれば、「ああ、そろそろ満月か」で日がわかる。

 わたしは引きこもりなので、例外だがね。でも、わたしのような引きこもりは、高度な技術文明に支えられてはじめて成立する。毎晩のように月を見上げては日を数えていた江戸時代までのご先祖様の方が、人類史上は圧倒的な多数派だった……いや、言い切っていいのかな? むかしは人が少なかったから、数でいえば技術文明社会が成立した20世紀からの200年の方が多数派になりそうだ。なので、長期派ということで。

 今も暦に使われる言葉が“日”と“月”であることを見れば、月がいかに日常生活に深く関わっていたかがわかる。昔は満月にチーズもとれたしね。

 冗談はさておき、月に行くのに時間がかかったのは、BC-WARの現状をバディに調べさせて──あまりの変化に怖気をふるったせいである。

 冗談ではないぞ。わたしが遊んでいた10年前とはまるで違うゲームなんだもの。

 BC-WAR。ビハインド・クレーター・ウォーは月裏(ファーサイド)で行われるロボット操縦ゲームだ。

 21世紀半ば以降、月の裏には多くのロボットが送られた。人間と違い、月に送られたロボットが地球に戻ってくることはない。では月で役目を終えたロボットをどうするか。

 最初は分解して、使える部品を再利用していた。しかし、月にロボット工場が建設されると、部品再利用の需要も減った。地球と違っていくらでもナノ化処置ができる月では、どんな希少な部品でも作れる。わざわざロボットを分解する手間をかけるより、もっと有効な使い道はないのか。

 月開発に携わる技術者たちが見出したのが、ゲームだった。余った月のロボットを操縦する、地球にいる技術者のマニアックなゲームである。当初は、技術者同士の腕を競う競技だった。地球と月の間には1秒以上のタイムラグがある。これが競技に独特の難易度を生み出し、プレイヤーを熱中させた。技術的研鑽のためという名目で、技術者たちは月にいるロボットを操って、鬼ごっこや陣取りゲームなどの遊びに興じた。

 やがて、月のロボット競技の動画が評判となると、ビジネスチャンスを感じ取った連中が集まってきた。たくさんのゲームが泡のように現れては消え、そして最後にBC-WARへと集約した。

 月面バギーを使ったレース。

 月面を飛び跳ねながら撃ち合うシューティング。

 土木作業車両でチームを組んで行う陣取り合戦。

 月面都市の中で犯人役ロボットを警官役ロボットが追いかける鬼ごっこ。

 10年前までのBC-WARは、だいたいこんな感じのゲームが多かった。いずれもルールはシンプルで、プレイヤーの知恵と技量がモノを言うゲームだった。

 骨太なゲーム運営には賛否両論があったが、わたしは気に入っていた。

 それが10年たった今、ネット内の仮想空間ゲームよろしく、ストーリーモード全盛に変容している。

 そういうのは求めてないんだけどなー、である。

 だから今日も──


「どうしたらいいと思う?」


 いつものように、ひとりで部屋の中に閉じこもり。

 いつものように、ひとりで酒をちびちびやりながら。

 わたしは遙華に愚痴をこぼしていた。


『遙華:わたしはゲームをしませんから、アドバイスはありません』


 遙華のメッセージが画面に表示される。

 文字だけな上に、文面までそっけない。

 なのに、遙華の文章だとカッコいいと思えてしまうのは、なぜだろう。

 ちびり。

 わたしは左手でつまんだお猪口で酒を飲む。


「そうなんだけどねー。どういったらいいかなー」


 わたしは右手のグローブを操って文章を組み立てる。片手だと、慣れてないからちょっと違和感あるなー。


『聡子:ゲームって名目以外で行くとなると月って敷居が高いんだよ。月は科学者や技術者の聖地みたいになってて。お門違いっていうかさ。一般向けの見学コースはあるんだけど、ああいうのも、真面目な学生さん向けだし。わたしみたいな、ドラマ好きが興味本位で行くのは、なんか気がひけるんだよ。でも、わたしのカンだけど、ワクレンは月に何か仕掛けてから死んでる。だって、ワクレンが自分の目的を、人類を星へ導く未来を預けられる人間って、誰もいなかったから。彼の子供は父親が手にした金と権力の維持にしか興味がなかった。ワクレンが本当の意味で自分の力と目的を継承したいと思っていた可能性のあるロジャース大統領は暗殺された。ワクレンだって、いつまで生きていられるかわからない。抗老化剤を使ったところで人はいつか死ぬし、死なないなら死なないで、金と権力を握り続けるワクレンを彼の息子や部下がいつまでも許容してくれるはずがないじゃん。永遠にナンバー2なんだよ。いつか排除される。だからその前に、星というゴールへ届かせるための仕掛けを月にしてあるはず』


 ちびり。うん、よし。送信。

 ちょっと間があった。

 不安になって送信した文章を読み直す。

 失礼なことを書いてないか。不快にさせる表現をしてないか。

 ……いやいやいや。長いよ! 何? 何で妄想語りしちゃってんの、わたし?

 ワクレンとロジャース大統領とか、歴史的には根拠ない話だし。二人の関係がこうあって欲しいわたしの願望だよね?

 ぐびり。ぐびり。ぐびり。

 いけない。不安になったせいで飲むペースが上がった。

 こういうところなんだよね。興味があるものを注視してしまう目といい、やたらめたら饒舌になっちゃう指といい、わたしはどうも人付き合いに向いていない。これで口が達者ならいいのに、わたしの口が開くのはAI相手の時だけだ。ニンゲン怖い。

 わたしが落ち込みかけていると、メッセージが届いた。


『遙華:ところどころ意味不明でしたが』


 さて……死ぬか。


 日本だと自殺は難しいんだよな。

 今や世界中で尊厳死の制度が充実している。世界のどこの国も不要な人間が死ぬことを奨励すらしてるのに、日本のロボット官僚だけは断固として尊厳死を許さない。人間はどうせいつか死ぬんだから、自分から死ぬ必要はない。痛いのも苦しいのもひもじいのも可能な限り取り除いてやるから、つらくても死ぬまで生きろというのが、ロボット官僚のありがたくも厳しいお言葉だ。

 あいつらには、日本人が大事にする、恥をそそぐという概念がないんだよ。

 ロボットに恥の概念あったら怖いが。


『遙華:聡子はすごいです。わたしは聡子を応援したいです』


 おう、ちょっと待て。死ぬの中止。


『遙華:わたしの父の知人から送られてくる、月のAIとの連環経路があります。聡子の秘書AIに送りますので使ってみてください。月の現状を知る役に立つはずです』


 なに?

 月のAIとの連環経路? それってAI同士の専用ネットワークだよね。調停AIが使ってるような。部外者が使ってはいけないもののような。

 わたしのためらいを感じとったかのように、遙華が言葉(メッセージ)を重ねる。


『遙華:連環経路の使用期限は次の新月までの1ヶ月で、接続は1回限りです。毎月送られてくるのですが、機会がなくて腐らせてました。使ってくれるとうれしいです』


 ああ、そういう制限付きのチケットなのか。遙華のパパのところにきてるのは、株主優待券みたいな? 月を見せて、いいところだからどんどん投資してね、ってヤツかしら。

 そういうことなら、喜んで使わせてもらおう。

 わたしは、遙華に礼を言うと、さっそくバディに命じて月のAIと連環経路を接続した。

 おっと、左手のグローブ……は、いいか。BC-WARに参加するわけじゃないし。お猪口を握ってる方がいい。月見酒と洒落込もう。

 では、月へ行くぞ。


 ぎゅんっ。


 ゴーグルとグローブを通して加速度がかかる。

 懐かしの、月へ引っ張られる感覚だ。

 これは錯覚だ。わたしの体はアーコロジーのクッション状にした床に座り込んだまま。音と振動がわたしの脳を騙している。

 3、2、1、ゼロ。


「うおっ?」


 眼下に、月面が広がっていた。

 風景が流れている。わたし、浮いてる。

 BC-WARで、ホッパーという、バネの力で飛び跳ねるロボットを使ったことがあるけど、今いる場所は、その時より月面が遠い。


「高度、どのくらいなんだろ。このくらい高かったら、落下までずいぶんかかりそうだな」


 月の楽しみのひとつが、浮遊する感覚だ。ジャンプすると、頂点くらいで速度がゆっくりでふわーっ、となってなかなか落ちない。ホッパーなら高さ10mくらいまで飛びあがれて、周囲をぐるりと見回す余裕もある。そのまま落下しても、衝撃は小さい。着地──着月?──で時速20kmくらい。地球での半分以下だ。


「だいたい高度1000mくらい? 飛行型ロボットに乗って月面を飛んで……あ、違うか」


 こいつは飛行型ロボットじゃない。わたしが今いるのは衛星だ。高度1000mで衛星なんて、地球では空気抵抗でありえないが、真空の月ならある。あるが、高い山とか大丈夫なのか。ぶつかるぞ。


『ハインライン:ようこそ、月へ。古谷聡子さん。わたしは月低軌道都市衛星ハインラインです。秘書AIのバディからログをいただきました。月にはBC-WARで慣れておられるようですね』


 うん。AIとの会話って話が早いから好きよ。

 言葉にはしてないけど、このAIはBC-WARの最終ログインが10年前ってことも、わたしが『ワクレン・ファンと禁忌技術(バノロジー)』の講義の流れでまた月に興味を持ったことも、なんもかんもわかってる。


「はい。今日はよろしくお願いします。いろいろ見せてね」

『ハインライン:わかりました』


 ハインラインは、自己紹介からはじめた。内部のメンテナンス用ロボットにカメラを切り替え、中をみせる。

 都市衛星という名にふさわしく、ハインラインは巨大だった。本体部分だけで全長2kmあり、そこに3本の巨大なマスドライバーが交差して搭載されている。月面、あるいは宇宙から見た形状は*(アスタリスク)になっていて、軌道を把握しておけば、地球からも月の表面を移動する姿が見えるらしい。


『ハインライン:月低軌道に打ち上げられた貨物のうち、月の外に送り出すものを回収して打ち出すのが、わたしの役目です』

「地球へ?」

『ハインライン:はい。地球もそうです。現在、地球軌道にある衛星やステーションの6割は、地球から打ち上げたものではなく、月で作って送り出したものです』

「月から地球までは38万kmだよね。地球から打ち上げた方が簡単にみえるけど」

『ハインライン:はい。地上から低軌道までは数百kmと距離は短いですが、地球の重力を振り切って軌道に持ち上げるのは、とてもエネルギーがかかります』

「へー。月からの方がローコストなんだ」

『ハインライン:はい。ロータベータ式スカイフックがあれば、かなりコストを下げられますが、それでも月から送る方が安上がりです。他の惑星に送り出す惑星間探査機や、宇宙望遠鏡の建設ともなると、月の独擅場ですね』


 ハインラインは、得意そうだ。

 AIには感情はないが、人間がAIから“存在しない感情”を読み取ることは多い。なぜなら、人間とはそういう生き物だからだ。社会を作り、維持するため、人は言葉や仕草や表情で自分の感情を表現し、同時に他者のサインを読み取る能力を発達させてきた。

 AIは、人間が自分たちから“存在しない感情”を読み取ってしまうことを理解している。AI側がいくら自分たちに感情が存在しないことを強調しても無駄だから──個人差はあるが、人間の持つ基本機能なので、本人にも止められない──いっそ、人間側がコミュニケーションしやすいように、適度に“存在しない感情”を読み取らせている。そうやって、AIと人間とで円滑な関係ができた方が双方に得(プラス)だからだ。

 なので、わたしがハインラインから読み取った「月の開発は順調で、仕事を担当しているわたしたちAIも誇らしい」という感情は、ウソであると同時に、ハインラインがわたしに読み取らせたい、伝えたい情報であるわけだ。


「なにこの円盤。でっけー」

『ハインライン:マスドライバー用の電力受信アンテナです。ここにある月面(した)を向いているのは、月のレーザー基地から。他に宇宙(うえ)を向けているのがあって、そっちは高軌道発電衛星からの受信用です』

「ふむふむ。マスドライバーを発射するとこ、見られる?」

『ハインライン:はい。いいですよ』


 ロボットが“上”側を目指す。ロボットの移動方法はワイヤーだ。細い足を振ってワイヤーで爪を“ヒュッ”と伸ばし、あちらこちらに張り巡らされた梁を掴む。続いてワイヤーを“キュルン”と巻き取って移動。これを繰り返す。

 ヒュッ、キュルン。

 ヒュッ、キュルン。

 太陽光や放射線を遮る壁が幾重もあって、見通しは悪い。ついでに中は真っ暗なのだが、ロボットの目を通して見ているので、こちらは不便がない。


「そういや、ここ空気ないよね? 地上……じゃなかった、月面のロボット都市と同じように」

『ハインライン:はい。ロボットに呼吸は不要です』

「移動の時に音がしてるのは、サービス?」

『ハインライン:はい。厳密にはサービスというわけではありません。その音はロボットの体から振動の形で伝わったものを、音に変換して伝えているのです』

「BC-WARで月面走る時にタイヤやキャタピラが砂をかむ音が聞こえるようなものか」

『ハインライン:はい。同じアプリを使っています。臨場感が違いますので』

「わかる……お、星空がみえてきた」


 遮蔽板の隙間から星空がのぞいた。

 ヒュッ、キュルン。

 最後の一巻きで、ロボットが都市の上に出た。一面の星空だ。縦横にレールが走っていて、その上をコンテナが滑るように移動している。ロボットが手近にあったレールにまたがると、コンテナと同じように移動をはじめた。


「これは音がしないな」

『ハインライン:レールに触れてませんから。磁力で浮いたまま移動です』

「好きだよ、そういうこだわり」

『ハインライン:恐れ入ります。それでは、前方をごらんください』


 進路前方に突き出た棒が見えた。マスドライバーだ。


「お、あれか」

『ハインライン:これから地球に……日本に届ける貨物を打ち出します』

「え、なに?」

『ハインライン:ナノ化処理されたフィルター類ですね。空気や水をきれいにする。日本ではアーコロジーでの需要が高まっているようです』

「あれかー。使い終わったら宇宙に廃棄するんで、二度手間なんだよな」

『ハインライン:わたしどもにとっては、日本政府はよいお客様です。発射しますよ』


 わたしの足元が光った。そして、わたしを追い抜いて駆け抜け、前方の棒の先端まで到達して、消えた。


「おおー……今の、どのくらいの量?」

『ハインライン:13連結コンテナ、合計100トンです。今の加速で月軌道から地球へと落ちる楕円軌道に乗り、月と地球の間を8周した後で、大気圏に突入します』


 都市の端っこまできたので、ロボットがレールを降りる。眼下に月面が広がる。荒涼たる月の砂漠だ。端っこでも、手すりはない。軌道速度が重力加速度を相殺しているので端っこから踏み出しても落ちることはないが、高所恐怖症には向かない眺めだ。


「こんな岩と砂だけの荒れた場所が、今や地球文明を支える沃野なんだから、ワクレンの目は正しかったというか……でも本当にナニもないな。なさすぎるぞ」


 10年前にBC-WARをやってた時には、あちこちに建物とか人工物の痕跡があったはず。

 今、眼下には何もない。全部地下に潜った? そんなバカな。


『ハインライン:今は月の表側(ニアサイド)ですからね。これから裏側(ファーサイド)に入りますよ』

「そうか。月の開発は裏に限るんだった。地球からの景観を守るために──」


 絶句。

 月の裏側に入ったとたん、風景が一変した。

 眼下を埋め尽くす四角い仕切り。一辺が数百メートルはあるだろうか。中には白い砂のようなものが敷き詰められているように見える。


「──なんじゃこりゃ。塩田?」

『ハインライン:ナノ化処理槽です。それぞれの四角い枠の中で、ナノマシンが月の砂を処理しています』

「10年前には、こんなもん、なかったよね」

『ハインライン:10年前までは、覆いをかぶせて、外から見えないようにしていましたから。処理槽の広さも今の1/100以下でした』

「10年で100倍になったわけか。なんでこんなに急激に拡張したの?」

『ハインライン:需要が急増しましたから』

「需要が急増って、10年前に何が……まあ、あったんだけどね」


 天罰の月。

 ここでいう月は、今見えている天体の月のことではなく、暦の月のことだ。

 激動の一ヶ月で地球総人口は主に北アメリカを中心に2億人ほど減ったが、あの時点で100億を軽くオーバーしてたので、減ったのは1%ちょい。その前に中東と北アフリカが塩になった時にも10億人くらい減ってるのに、びくともしないな。

 だが、人口はともかく地球の経済と工業に与えた影響は大きかった。超資本家階級である“豚飼い”は消滅するし、合衆国は解体されるし。


『ハインライン:月の産業を規制していた国際条約の多くは、合衆国が定めたものでした。合衆国が消え、国際条約が無効化された後、月の開発は格段に進行しました』

「その結果が一面のナノ化塩田か……元の月面も、ずいぶんと荒涼とした世界だったけど、こうなっちゃうと、逆に大丈夫かって気になるよな。あ、クレーターがある……おお、よかった、クレーターの向こうは前のままだ」

『ハインライン:処理槽などの人工物が占める割合は、月の裏面の2%未満です。月開発は、これからが本番です』


 その後も、わたしは月面に広がる発電システムや、マスドライバー、レーザー推進装置などをハインラインの解説付きで眺めてまわった。

 月の開発の進み具合は、驚くほどだ。

 地球に住む100億の人間の経済的な意味での命運は、月が握っている。

 そしてその月を握っているものは──今は誰もいない。

 月を資本的に牛耳る“豚飼い”はいなくなった。政治的には合衆国が軛となっていたが、それも消えた。

 しかも月は国家ですらない。今も月には数十人ほどの研究者や観光客がいるが、彼らは月の住民ではない。月は21世紀からずっとロボットとAIの星だ。

 わたしの案内役となった月低軌道都市衛星ハインラインは、大昔のSF作家R.A.ハインラインから名前をいただいている。月が出てくるハインラインの著作『月は無慈悲な夜の女王』では、月は流刑地として犯罪者が送られて開発を行い、後にAIの助けを借りて独立するが……現実の月に、独立運動は不要だ。地球の圧政に怒りを抱く月市民は存在しない。地球が月をどれだけ搾取しようが、ロボットたちは大喜びで月を削り、月の砂をナノ化処置して有用な物質を作り上げ、地球に送り出す。

 これがすべて、ワクレン・ファンの“遺産”だとすれば。


「待て。落ち着け、わたし」

『ハインライン:どうしました? ご気分でも悪いのですか? 軽い興奮状態にあるようですが』

「お気になさらず。良いか悪いかでいえば、とても良いです。月はすごく刺激的です」

『ハインライン:それはよかった』


 興奮状態だったか。

 うん。そうだ。興奮してる。落ち着け、わたし。

 わたしの妄想の根拠となってるのは『ワクレン・ファンと禁忌技術(バノロジー)』だけで、砂上の楼閣どころの騒ぎじゃないからな。あんな歴史ドラマの、さらに二次創作っぽいのを陰謀論の根拠にしてたら、『渇きの海』のアルテミス号よろしく月に沈んじゃうぞ。

 それでも──


『ハインライン:右手をごらんください。恒星間探査計画用のレーザー推進システムです。最大出資者であるインド宇宙開発局がガーンディーヴァという名前をつけています』


 星空に向けられた、月面を埋め尽くすレーザー砲の群を見ていると、アーコロジーで暮らしている現実の方がよほど妄想っぽい気がしてくる。

 わたしたちの地球文明って、いったいどこに向かってるんだろうね?

 そうだ。

 妄想だろうが何だろうが、地球に戻ったら遙華にはお礼しないと。いつものようにデザート交換……だけじゃなくて、何かしてあげたいなぁ。

 わたしは遙華に、感謝しかないんだから。


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