第9話 名前を呼んで、口づけを
夜が更けていった。
柱時計が十一回鳴った。御前会議は明日の朝、九時から。あと十時間しかない。
わたしはまだ作業台の前に座っていた。
クロは作業台の上で、礼服の包みの隣に丸くなっていた。目は閉じていなかった。ランプの灯りをじっと見つめていた。
何度も口を開きかけた。
ねえ、ためしてみる?
その一言が喉につかえて出てこなかった。
ためしてだめだったら。
だめだったら、それは、どちらかが、どちらかを愛していないということだ。わたしがルーク様を。それとも、ルーク様が、わたしを。
たぶん、後のほうだ。
それをはっきり知るのが、こわかった。
でも。
わたしは窓の外を見た。王宮の方角。白い城壁の上に、細い月がかかっていた。
あそこで、明日の朝、陛下が、宰相に言われるまま、騎士団をなくす。毒の眠り薬を何も知らずに飲みつづける。
こわいとか、言っている場合じゃなかった。
「……クロ。ううん、ルーク様」
声がかすれた。
クロが顔を上げた。
「ためしてみても、いいですか」
クロの金色の目がまんまるになった。それから、ゆっくりと首を横にふった。
「だめ?」
クロは作業台の上の羊皮紙を前足で引き寄せた。バルドウィン様が置いていった、「はい」と「いいえ」の紙だ。その「いいえ」の上に前足を置いた。
それから、わたしの胸のあたりを鼻先でさした。もう一度「いいえ」を叩いた。
「……わたしに、無理をさせたくないってこと?」
うなずいた。
「愛してもいない男のために、そんなことしなくていいって?」
うなずいた。強く。
わたしの胸の奥で、何かが、ぷつんと切れた。
「ばか」
声が震えた。
「愛してもいない男ってなに。誰がそんなこと言ったの」
クロの耳がぴくりと動いた。
「半月だよ。たった半月。でも、毎朝、きみがいるから、起きるのが楽しみだった。スープを二人分作るのが、うれしかった。夜、扉の前にきみがいると思うと、ぐっすり眠れた。こわい人が来たとき、きみが飛びかかってくれた。手首を舐めてくれた」
涙がぽろりと落ちた。作業台の木に、小さな染みができた。
「わたしが、愛してないなんて勝手に決めないでよ」
クロは動かなかった。
金色の目が揺れていた。
「……きみが、わたしのことをどう思ってるかは知らないけど」
わたしは両手でクロの顔をそっと包んだ。黒い毛が指のあいだでふわふわした。
「だめだったら、だめでいい。それでも、ためさないで後悔するよりいい」
クロの鼻先がわたしの手のひらの中でかすかに震えていた。
わたしは目を閉じた。
「ルーク様」
名前を呼んで、黒い鼻先にそっと唇をつけた。
冷たくて少し湿っていた。
一つ、二つ、三つ。息を止めて数えた。
何も起きなかった。
目を開けた。クロは猫のままだった。わたしの手のひらの中で、金色の目がわたしを見ていた。
「……そっか」
手を離した。
膝から、力が抜けた。椅子の背に、どさりともたれた。
分かっていた。分かっていたけれど。
やっぱり、わたしだけだった。
喉の奥から、変な笑いが漏れた。笑いながら、涙が止まらなかった。
「ごめんね。わたしなんかじゃ、だめだよね」
そのとき、クロが、作業台から跳び降りた。
わたしの膝の上に、着地した。前足をわたしの胸にかけて伸びあがった。金色の目がすぐそこにあった。
クロは羊皮紙のほうを見なかった。うなずきも首ふりもしなかった。
ただ、わたしの目をまっすぐに見て鳴いた。
「――にゃ」
短い、ぶっきらぼうな声。はじめて聞いた朝と、同じ声。
でも、その声に何かが詰まっていた。言葉にならない、ものすごくたくさんのものが。
わたしは息を呑んだ。
――様、をつけたからだ。
なぜか、そう思った。
おとぎ話は名前を呼んでと言った。ルーク様、は、わたしが騎士団長を呼ぶ名前だ。下町の薬草屋の娘が、遠い王宮の人を呼ぶ名前だ。
わたしが呼びたいのはそれじゃない。
毎朝、スープを一緒に飲んだ人。扉の前で眠ってくれた人。肉球がふにふにの人。
「――ルーク」
もう一度、目を閉じた。
今度は迷わなかった。
唇が触れた瞬間、膝の上の重さが、ふっと消えた。
目を開ける前に、温かい何かが、わたしの頬に触れた。
大きな手だった。
指の長い、硬い手のひら。剣を持つ人の、まめのある手。その手が震えながら、わたしの頬の涙を親指でぬぐった。
「……コレット」
低い声だった。
少しかすれていて、短くて、なんだか、ぶっきらぼうだった。
目を開けた。
黒い髪。金色の目。ランプの灯りに照らされて、男の人が、わたしの椅子の前に膝をついていた。肩幅が広くて、首が太くてあごの線がまっすぐで。
そして、何も着ていなかった。
「ひゃっ――」
「見るな!」
ルーク様、ではなく、ルークが、作業台の上の礼服の包みを引っつかんだ。わたしは両手で顔をおおって、椅子の上でくるりと背中を向けた。
うしろで、布のこすれる音が、ばさばさと続いた。ボタンを留める音。靴を履く音。それから、何かにつまずいて、作業台の脚に頭をぶつけた、ごん、という音。
「……っ、ひと月ぶりの二本足は難しいな」
「だ、大丈夫ですか」
「大丈夫だ。……もう、いい」
おそるおそる、振り返った。
紺色の礼服を着た、背の高い人が立っていた。銀のボタンを一つ、掛け違えていた。
金色の目がわたしを見下ろしていた。耳の先が真っ赤だった。
猫のときと、同じだった。
「あの」
「コレット」
二人の声が重なった。
ルークが黙った。わたしも黙った。
それから、ルークは、ゆっくりと、わたしの前にもう一度膝をついた。わたしの手を取った。大きな手のひらが、わたしの両手をすっぽりと包んだ。
「ずっと、言いたかった」
手が熱かった。
「ありがとう。拾ってくれて。……名前を呼んでくれて」
わたしは何も言えなかった。
ただ、包まれた手の中で指をぎゅっと握り返した。
それから、明け方まで話した。
ルークは口数が少なかった。でも、わたしが訊けば、何でも答えてくれた。猫のあいだ、何がいちばんつらかったか。言葉が出ないことだ、と言った。何がいちばんうれしかったか。豆のスープだ、と言った。
それから、ルークは、作業台の上の、白い石の乳鉢を見た。
「君の母上の名は、エルミナ、だろう」
わたしは息を止めた。
「どうして」
「十八年前、僕は王宮の薬草園で、その人に乳鉢を回させてもらった。薬草の見分け方を教わった。あの歌も聞いた」
ルークの指が乳鉢のふちの、欠けたところをなぞった。
「笑うと、左の頬にだけ、えくぼができる人だった。君と、同じところに」
わたしは自分の左の頬にそっと手を当てた。
ルークは乳鉢を両手で持ち上げて底を見た。
「この欠け。覚えている」
「え?」
「僕が欠けさせた。十歳の夏に。乳棒を勢いよく回しすぎてふちにぶつけた」
わたしは目をまるくした。
小さいころから、ずっと気になっていた欠けだった。母に訊いても、「大事な思い出の傷よ」と笑うだけだった。
「母は、怒りましたか」
「笑っていた。泣きそうな僕の頭をなでて、乳鉢は欠けても薬はひける、と言った」
ルークは欠けたところを、親指でそっとなでた。
「それから、君に会ったら、謝ろうと思っていた。君の母上の乳鉢を、欠けさせてすまない」
わたしは声を出して笑った。笑いながら、また少し泣いた。
十八年前の夏、母は、この人の頭をなでていた。この乳鉢の前で。
わたしの知らない母が、この人の中に、まだ生きていた。
窓の外が白みはじめていた。
◆ルーク
夜明けの光の中で、彼女が、母上の話をしている。
小さいころ、作業台の下で眠ったこと。母上が王宮のことをほとんど話さなかったこと。一度だけ、「あそこには、大事なものを置いてきた」と言ったこと。
僕はうなずきながら聞いていた。人の首で。人の声で相槌を打ちながら。
それなのに、胸の奥に、小さな棘が残っていた。
呪いが解けた瞬間、体の中から、何かが抜けていった。だが全部ではなかった。心臓の裏に、黒い根のようなものが一本、まだ絡みついている。
月を見ると、それが、かすかに疼く。
呪術師はまだ捕まっていない。
――満月まであと十日。
彼女にはまだ言わない。今日の御前会議が、終わるまでは。
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