第8話 騎士団が解体されると聞きました
その知らせはマーガレットさんが持ってきた。
「コレットちゃん、聞いたかい。近衛の団長さんが、死んだんだって」
朝いちばん、パンの籠を抱えて店に駆けこんでくるなり、マーガレットさんはそう言った。
わたしの手から、乳棒が落ちた。乳鉢のふちに当たって、ごとん、と重い音がした。
「……え?」
「今朝、大通りの掲示板にお触れが出たんだよ。宰相様のお名前で。近衛騎士団長ルーク・クロフォード様は、ひと月前、王宮の水路で溺れて亡くなった、って。剣と鎧が見つかったんだってさ。若いのに、気の毒にねえ」
カウンターの端で、クロが、ぴたりと固まった。
わたしはクロのほうを見ないように必死で目をそらした。マーガレットさんの前で、猫に話しかけるわけにはいかない。
「それでね、明日の朝、王宮で御前会議があるんだって。団長がいなくなった近衛騎士団は、解体して、宰相様の兵に組み入れるんだってさ」
「解体……」
「なんだかねえ。あたしら下町の者にはよく分からないけど。近衛の騎士さんたち、お祭りの日に子どもらに飴をくれるだろ。あの人たちがいなくなるのはさみしいねえ」
マーガレットさんは、ため息をついて帰っていった。
扉が閉まった。
わたしはクロを見た。
クロはカウンターの端でじっと扉を見つめていた。尻尾がゆっくりと、左右に揺れていた。いつもの、のんびりした揺れ方ではなかった。床を打つみたいにぱしん、ぱしん、と。
「ルーク様。死んだことに、されちゃったの?」
クロはうなずいた。
「騎士団が、なくなっちゃうの?」
うなずいた。それから、前足の爪を出して、カウンターの木をがりっと掻いた。
わたしは拳を握った。
ひどい。ひどすぎる。眠り薬を盛って呪いをかけて水路に捨てて。それで、死んだことにして騎士団まで取り上げる。
手のひらに、爪が食いこんだ。痛かった。でも、そうしていないと、何かを叩いてしまいそうだった。
お昼過ぎ、わたしは、湿布を届けに行くついでに、大通りの掲示板の前を通った。
人だかりができていた。大工の若い衆も、鍛冶屋の親方も、川向こうのおばあちゃんもいた。
掲示板のいちばん上に、宰相の三つ葉の印が押されたお触れが貼ってあった。黒い縁取り。「近衛騎士団長ルーク・クロフォード殿、水路にて落命」の文字。
「あの団長さん、去年の大火事のとき、自分で火の中に飛びこんで、子どもを二人抱えて出てきたんだよ」
鍛冶屋の親方が太い腕を組んで言った。
「口数は少ねえが、いい騎士だった。溺れ死ぬようなお人じゃねえ」
「水路なんて、膝までしか水がないじゃないか」
おばあちゃんがしわだらけの手でお触れを指さした。
わたしは人だかりのうしろで、湿布の籠を抱えたまま立ちつくしていた。
――生きてます。うちの店で豆のスープを飲んでます。
言いたかった。言えなかった。籠の取っ手が手のひらに食いこんだ。
家に帰ると、クロは、カウンターの端で、扉のほうを向いて待っていた。
わたしは籠を置いて、クロの頭をなでた。
「下町のみんな、ルーク様のこと、信じてなかったよ。溺れるような人じゃないって」
クロの耳がぴくりと動いた。
それから、わたしの手のひらに、頭をぐいっと押しつけてきた。
その夜、店の裏口を誰かが三回叩いた。
とん、とん、とん。間をあけてもう一回。バルドウィン様に教わった合図だった。
扉を開けると、灰色の外套を頭からかぶった大きな人影が、すべりこんできた。バルドウィン様だった。うしろに、そばかすのヨストさんが、大きな包みを抱えて立っていた。
「夜分にすまん、コレット殿」
バルドウィン様は、外套を脱ぐと、作業台の前の椅子にどかりと腰を下ろした。目の下に、濃い隈があった。
「お触れは見たか」
「はい。マーガレットさんから聞きました」
「宰相閣下は、明朝の御前会議で、騎士団の解体を陛下に認めさせるおつもりだ。団長が死んだことにすれば、誰も逆らえん。陛下はお体が弱っておられる。宰相閣下の言うことをそのままお聞きになるだろう」
バルドウィン様は、作業台の上のクロに深く頭を下げた。
「団長。申し訳ない。呪術師はまだ見つかりませぬ。王都じゅうの古物屋と、まじない師を洗いましたが、影も形も」
クロは黙ってバルドウィン様を見ていた。
「ただ、一つだけ、手に入れたものがありまする」
バルドウィン様が、ヨストさんに目で合図した。ヨストさんが包みの中から、小さなガラスの瓶を取り出して作業台に置いた。
親指ほどの小瓶。濁った、琥珀色の液体が半分ほど入っている。口は赤い封蝋でふさがれていた。
封蝋に、三つ葉の模様が押してあった。
「先日、この店を荒らした三人組をヨストたちが下町の酒場で捕まえました。そのうちの一人の懐にこれが」
「……見ても、いいですか」
わたしは小瓶を手に取った。ランプの灯りにかざした。底に、細かい粉が沈んでいた。
封蝋を少しだけはがして瓶の口に鼻を近づけた。
甘い匂い。熟れすぎた果物みたいな。それから、その奥に、ほんのかすかに、苦いアーモンドの匂い。
背筋がぞくりとした。
「ヨルガオの種と、ケシの汁。それから、たぶん、ハシリドコロの根」
声が自分でも驚くくらい、はっきり出た。
「三つとも少しなら眠り薬です。でも、この量で混ぜたら、眠るだけじゃ済みません。大人の男の人でも、一日目を覚まさないし、体の弱い人なら、そのまま心臓が止まります」
バルドウィン様の目が鋭くなった。
「確かか」
「はい。それにこの粉。すごく細かいんです。下町の乳鉢じゃ、ここまで細かくひけません。それに、ヨルガオは、この国では、王宮の薬草園でしか育てていないはずです。母がそう言っていました」
作業台の上で、クロが、ぴくりと耳を立てた。
バルドウィン様は、太い腕を組んで長いこと黙っていた。
「……体の弱い人なら、心臓が止まる、か」
低い声だった。
「陛下は、近ごろ、夜よく眠れぬとおっしゃって、宰相閣下が献上する眠り薬を飲んでおられる」
部屋の中がしんと冷えた。
わたしは小瓶を作業台に置いた。指先がかすかに震えていた。
次は誰だ。
ルーク様が眠らされたのは邪魔だったからだ。近衛騎士団長がいたら、陛下のそばに誰も近づけない。
騎士団がなくなったら。
「明日の御前会議で、これを見せればいいんじゃないですか」
「見せたところで、宰相閣下は、知らぬ存ぜぬで押し通すだろう。三人組はただのごろつきだ。ごろつきの言うことなど、誰も信じん」
バルドウィン様は、作業台の上のクロを見た。
「団長が、ご自分の口で陛下の前で語られれば。宰相閣下に盛られた、と。それなら、誰も逆らえん。だが」
言葉がそこで切れた。
クロはうつむいていた。
猫の口では語れない。
バルドウィン様は、立ち上がって、ヨストさんの抱えていた大きな包みを作業台の端に置いた。
「団長の、予備の礼服と靴です。……万が一、ということもありますからな」
万が一。
バルドウィン様は、わたしのほうを見なかった。でも、その言葉が、誰に向けて言われたのか、わたしには分かった。
二人が帰ったあと、わたしは、包みの前に長いこと座っていた。
紺色の礼服。銀のボタン。肩に剣と百合の刺繍。袖はわたしの腕の倍くらいの長さがあった。
獣の姿の者を心から愛し、そして愛された者が、その名を呼んで口づけをすれば。
わたしは膝を抱えた。
心から、愛し。
――わたしは、この人のことが、好きなんだろうか。
半月。毎朝、豆のスープを一緒に食べた。毎晩、扉の前で眠ってくれた。粉の小瓶を振りまいたとき、一緒に戦ってくれた。肉球がふにふにだった。
好きか、と訊かれたら。
顔が熱くなった。
でも、そのあとの言葉が、胸を冷たくした。
そして、愛された者が。
下町の薬草屋の娘を近衛騎士団長が、心から。
そんなこと、あるわけがない。
◆ルーク
作業台の上で、彼女は、膝を抱えて、礼服の袖を指でつまんでいた。
バルドウィンの言った「万が一」の意味は僕にも分かっていた。彼女にも分かっている。だから、こんなに長く、黙っている。
騎士団がなくなる。
十八で剣を授かってから十年。僕の家だった場所だ。父と母を亡くした僕を拾ってくれた場所だ。
陛下が毒を盛られようとしている。
それなのに、僕は猫の姿で作業台の上で何もできない。
――彼女に頼むのか。
口づけを。猫に。おとぎ話の、真似ごとを。
頼めるわけがない。愛してもいない男のために、そんなことをさせるわけには。
彼女がふっと顔を上げた。ランプの灯りに目の端が光っていた。
「……おとぎ話、なんだよね」
ぽつりと、そう言った。
僕はその言葉の続きを待った。
続きは来なかった。
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