第7話 正体がばれた猫と、うなずきだけの会話
帰り道、わたしは一度も籠のふたを開けなかった。
籠の中はずっと静かだった。ときどき、ふたの隙間から黒い耳がのぞいて、すぐに引っこんだ。わたしは前だけを見て石の坂を下りた。
うしろを若い騎士が二人、ふつうの町の人の服を着てついてきた。バルドウィン様がつけてくれた見張りだ。一人は背が高くて一人はそばかすがあった。そばかすのほうは、目が合うたびに、なぜかにこにこ笑った。
店に着いて、籠を作業台の上に置いた。
ふたを開けた。
クロがのそりと顔を出した。それから、わたしの顔を見上げてすぐに目をそらした。
わたしも、目をそらした。
気まずかった。
半月、毎日なでていた。抱きしめた。膝にのせてブラシをかけた。ゆうべなんて「守ってくれたんだね」とか言いながら、ぎゅうぎゅう抱きしめた。
二十八歳の、近衛騎士団長を。
「……と、とりあえず、お茶でもいれますね」
口から出たのはなぜか、お客さんに話すときの言葉だった。
クロの耳がぴくっと動いた。
夕ごはんのときは、もっとぎこちなかった。
豆のスープをいつもの小皿によそいかけて手が止まった。二十八歳の近衛騎士団長に、小皿でスープを出していいのだろうか。
迷ったあげく、わたしは、母が使っていた白い陶器のお椀を棚から出した。お客さん用の、いちばんいいお椀だ。
床に置くと、クロは、お椀とわたしの顔を交互に見た。
それから、前足でお椀をそっと押してわたしのほうへ戻した。そして、いつもの欠けた小皿の前に、ちょこんと座りなおした。
「……こっちが、いいの?」
クロは小皿の縁を鼻先でこつんとつついた。
わたしはふき出した。それで、ようやく肩の力が抜けた。
店じまいの前に、マーガレットさんが余ったパンを持ってきた。わたしの顔をひと目見るなり、目を細めた。
「おや。コレットちゃん、なんだか今日はほっぺたが赤いねえ。熱でもあるのかい」
「な、ないです。全然」
「ふうん。……猫ちゃんも、なんだか、そわそわしてるねえ」
マーガレットさんは、にやにや笑いながら帰っていった。
カウンターの端で、クロが、両方の前足で自分の顔をごしごしこすっていた。
その夜、わたしは寝室の扉の前で立ち止まった。
扉の前には、いつものように、クロが座っていた。
「あの。ルーク様」
クロが顔を上げた。
「着替えをいたします……あっ」
言ってから口を押さえた。
――お客さんに話すときの、硬い言葉が、また出てしまった。
「……着替えるから、ちょっとだけ、下にいてもらえますか」
クロはゆっくりうなずいた。それから、すたすたと階段を下りていった。いつもの、迷いのない足取りで。
今までも、毎晩こうしてくれていたんだ。
着替えながら、胸の奥が、少しだけむずむずした。恥ずかしいのと、ありがたいのと、それから、名前のつけられない何かが、ぐちゃぐちゃに混ざっていた。
階段の上から呼ぶと、クロは戻ってきてまた扉の前に座った。
わたしは寝台の端に腰かけた。灯りはまだ消さなかった。
「……ねえ。少し、話してもいい?」
クロがこちらを向いた。
「わたしばっかり、ルーク様のこと知らないのはずるいと思うの。だから、質問させて。はいなら、うなずいて。いいえなら、首をふって」
クロは少し考えるように首をかしげて、それから、こくりとうなずいた。
わたしは膝の上で指を組んだ。
「ルーク様は、二十八歳」
うなずく。
「黒い髪?」
こくり。黒い頭が迷わず下がる。
「目は、金色?」
また、こくり。金色の目がランプの灯りを映して光った。
「今のクロと、同じ色なんだ」
うなずく。それから、少しだけ、尻尾が揺れた。
「わたしが毎朝作ってた、豆のスープ。おいしかった?」
クロはためらいなく、二回うなずいた。
わたしはちょっと笑った。
「お世辞じゃない?」
首をぶんぶんと横にふった。耳がぱたぱた鳴った。
「砂の箱を使わなかったのは人間だったから」
うなずく。少し、目をそらしながら。
「ルーク様、お嫁さんはいる?」
自分で訊いておいて、心臓がどきんと鳴った。訊くつもりはなかった。口が勝手に動いた。
クロはすぐに首を横にふった。ぶんぶんと、さっきより速く。
「……恋人は?」
首を横に。
「好きな人は?」
クロの首が止まった。
うなずきもしない。首もふらない。金色の目で、じっと、わたしを見ていた。
部屋の中がしんとした。
「……い、今のはなし。なしです」
わたしはあわてて手をふった。頬が熱かった。何を訊いているんだろう、わたしは。
クロはふいっと窓のほうを向いた。耳の先がぴくぴく動いていた。
しばらく、どちらも黙っていた。窓の外で夜風が鳴った。
それから、わたしは、いちばん訊きたかったことを訊いた。
「あの夜。わたしがおばあさんになるのかなって言った夜。……聞いてた?」
クロはゆっくりと、こちらを向いた。
そして、一回だけ、うなずいた。
「……そっか」
わたしは膝の上の指を見下ろした。
恥ずかしい。でも、不思議と、嫌ではなかった。あの夜の言葉は誰にも言えなかった言葉だった。母が亡くなってから五年、誰にも言わずに胸の中で固まっていた言葉だった。
それを誰かが聞いていた。
聞いて、枕元に来てくれた。
「だから、あの夜だけ、枕元に来てくれたの?」
クロはうなずいた。
「寝台にはのぼらないって決めてたのに?」
うなずいた。
わたしの喉の奥が、きゅっと詰まった。
床から立ち上がって、扉の前のクロのところまで歩いていった。しゃがんで両手を差し出した。
「手、貸して。前足」
クロは少しためらってから、右の前足をそっとわたしの手のひらにのせた。
肉球がやわらかかった。少しだけ冷たくてふにふにしていた。
「ルーク様の手、ほんとは、もっと大きいんだよね」
こくりと、小さく。
「剣を持つ、硬い手なんだよね」
うなずく。
「……今は、ふにふにだね」
クロの肉球がわたしの手のひらの上できゅっと縮こまった。爪がほんの少しだけ出てすぐに引っこんだ。
わたしは声を出して笑った。笑いながら、目の端が少しだけ濡れた。
「ありがとう。あの夜、来てくれて」
クロは前足をのせたまま、わたしを見上げていた。
何かを言おうとして口を開けた。
でも、出てきたのは小さな「にゃ」だけだった。
◆ルーク
言えたら、言うのに。
好きな人はと訊かれて首を動かせなかった。
うなずけば、彼女は困る。下町の薬草屋の娘が、猫の姿の騎士団長に好かれていると知って喜ぶはずがない。首をふれば、嘘になる。
騎士は嘘をつかない。だから、動けなかった。
――あなただ、と言えたら。
雨の路地で手を差し伸べてくれた時から。「作りません」と二回言った時から。豆のスープの湯気の向こうで、毎朝、どうでもいい話をしてくれた時から。
あなたの声で一日が始まるのが好きだ。
あなたが鍛冶屋の親方の水虫の話をする時の、真剣な眉が好きだ。
全部、言いたい。言葉で。人の声で。この猫の口ではなく。
彼女の手のひらの上で僕の前足は小さかった。
人の手なら、彼女の手を包めたのに。
階段の下で、そばかすのヨストが、壁に耳をくっつけて聞き耳を立てている気配がした。あとで、詰め所の便所掃除をひと月やらせる。
灯りが消えた。
今夜も、僕は扉の前で眠る。
寝台の上から、彼女の小さな声がした。
「おやすみなさい、ルーク様」
――おやすみ、コレット。
声にならない声で、僕は、はじめて彼女の名前を呼んだ。
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