第6話 うちの猫が、近衛騎士団長でした
通されたのは王宮の端にある、近衛騎士団の詰め所の奥の部屋だった。
石の壁に、古い地図の掛け軸がかかっている。大きな樫の机に、羊皮紙の束が積み上げてある。暖炉には火が入っていて、ぱちぱちと薪がはぜていた。
わたしは籠を膝に抱えて硬い木の椅子に座っていた。
副団長のバルドウィン様は、部屋に入るなり扉に鍵をかけ、窓の板戸まで閉めた。それから、机の上に、そっとクロを下ろした。
「お嬢さん。名前は」
「コレットです。下町で薬草屋をしています」
「コレット殿。これから話すことは、この部屋の外では、決して口にせんでほしい」
バルドウィン様は、わたしの正面に椅子を引いて、腰を下ろした。灰色の目がまっすぐわたしを見た。
「その猫は、近衛騎士団長、ルーク・クロフォードだ」
暖炉の薪がぱちん、と鳴った。
「……はい?」
「ひと月前の夜、団長は宰相閣下に呼ばれて晩餐の席に出た。それきり、戻らなかった。団長の剣と鎧だけが、王宮の裏の水路に浮かんでいた。騎士団はひと月、王都じゅうを探しまわった」
わたしは机の上のクロを見た。
クロは前足を揃えて背筋を伸ばして座っていた。金色の目がまっすぐバルドウィン様を見ていた。
「ゆうべ、団長の札を下げた黒猫が城門に来た。わしは正直、信じられなんだ。だがあの鳴き方。あの座り方。そして、この目。団長が十の時から見とる目だ。見間違えはせん」
「で、でも。猫、ですよ?」
「獣化の呪いだ」
バルドウィン様は、低い声で言った。
「人を獣の姿に変える、古い呪いだ。何十年も前に禁じられた。それを使える呪術師が、まだ王都にいたらしい」
わたしは口を開けて閉じた。
呪い。人を猫に変える呪い。おとぎ話の中にしか出てこないものだと思っていた。
「……クロ」
呼ぶと、クロがこちらを向いた。
「ほんとに、人間なの?」
クロはゆっくりと、一回うなずいた。
バルドウィン様が、机の上の羊皮紙を一枚ひっくり返して、そこにペンで大きく二つの字を書いた。「はい」と「いいえ」。
「団長。はいなら右、いいえなら左に、前足を置いてくだされ」
クロはすたすたと羊皮紙の上を歩いて、「はい」の上に前足を置いた。
「あなたは、近衛騎士団長ルーク・クロフォードか」
はい。
「ひと月前、宰相閣下の晩餐で何かを盛られたか」
前足は迷わず右へ。
「盛ったのは宰相閣下の手の者か」
右。前足の爪が羊皮紙に小さな穴をあけた。
「そのあと、誰かに呪いをかけられ、猫の姿で水路に捨てられた」
はい。それから、少し考えて、クロは前足で羊皮紙のすみをとんとんと叩いた。前足の傷あとのところをもう一方の前足でさした。
「……逃げるときに、斬られたのですな」
はい。
わたしは膝の上の籠をぎゅっと握りしめた。
雨の路地裏で木箱の陰に震えていた黒猫。刃物で切られた、まっすぐな傷。あの子は命からがら逃げてきたところだったのだ。
「団長は、十のときに、ご両親を流行り病で亡くされた」
バルドウィン様が、暖炉の火を見ながら言った。
「ご両親は、陛下の古いご友人でな。陛下が王宮に引き取られた。だがあの方は誰とも口をきかん子どもだった。薬草園の生け垣の陰に、一日じゅう隠れておった」
机の上で、クロが、ほんの少し耳を伏せた。
「十五で見習いに入って十八で叙任。二十五で団長だ。若すぎると言う者もおったが、団長より剣の立つ者は、騎士団に一人もおらん。そのくせ、口下手でな。部下を褒めるのも、叱るのもひと言で済ませる」
バルドウィン様の口の端が、ほんの少しゆるんだ。
「わしは団長が笑ったところを数えるほどしか見ておらん」
わたしは机の上のクロを見た。
毎朝、豆のスープを舐めながら、耳をぴくぴく動かしていた。若い衆の手をはたいたあと、得意そうに尻尾を立てていた。
笑わない人、には見えなかった。
「呪いは、解けるんですか」
声が少しうわずった。
バルドウィン様は、しばらく黙っていた。それから、太い指で、白髪まじりのこめかみをかいた。
「古い言い伝えがある。獣の姿の者を心から愛し、そして愛された者が、その名を呼んで口づけをすれば、呪いは解ける」
「……それって」
「おとぎ話だ。わしも子どものころ、婆様から聞いた。眠り姫や、蛙の王子と同じ類いの話だ。本当に解けたという記録はどこにもない」
バルドウィン様は、ふうっと長い息を吐いた。
「呪術師を見つけ出して、呪いを返させるのが、いちばん確かな道だ。騎士団で探す。だが宰相閣下の目がある。王宮の中で団長を預かるのは危うい。宰相閣下に知れたら、今度こそ命はない」
灰色の目がわたしに向いた。
「コレット殿。勝手な頼みだと分かっておる。もうしばらく、団長をお嬢さんの家に置いてはもらえんか。若い者を二人、下町に張りつかせる。店にも、お嬢さんにも指一本触れさせん」
わたしは机の上のクロを見た。
クロもわたしを見ていた。耳が少しだけ後ろに倒れていた。断られるのを待っているみたいに。
「……はい。もちろんです」
答えると、クロの耳が、ぴんと立った。
そのとき、わたしはふと思った。
この子が人間だというなら。
近衛騎士団長だというなら。
あの夜、わたしの枕元で丸くなっていたのは。
「あの、バルドウィン様。ルーク様、という方は、おいくつなんですか」
「団長か。今年で二十八になる」
二十八。
男の人。二十八歳の、男の人。
わたしの頭の中で、この半月のことが、ものすごい速さで巻き戻っていった。
着替えのたびに、部屋を出ていった。毛布をめくっても、首を横にふった。寝台にのぼってこなかった。
――そういうことだったんだ。
ほっとしたのはほんの一瞬だった。
次の瞬間、もっと大事なことを思い出した。
最初の夜。灯りを消した暗い部屋で。天井に向かって。猫に聞かせるつもりで。誰も聞いていないつもりで。
――わたし、このまま一人で、ここで、おばあさんになるのかなって。
――王宮の薬師になりたかったんだ。
――誰かと話すの、久しぶりだなあ。
全部。全部、言った。二十八歳の、近衛騎士団長の前で。
まだある。毎朝、パンをかじりながら、天気の話とか、マーガレットさんの旦那さんの二日酔いの話とか、鍛冶屋の親方の水虫の話とか。お風呂上がりに、鼻歌まじりで変な踊りをしたことも。
お風呂上がりに。
わたしはゆっくりと、机の上のクロを見た。
クロはすっと目をそらした。
耳の先がぴくぴくと動いていた。
「――きゃああああああっ!」
詰め所じゅうに、わたしの悲鳴が響きわたった。
◆ルーク
風呂上がりの踊りは、見ていない。
……と、言えたら、どれだけよかったか。
見ていない。断じて。あの夜、彼女が湯を使っていたのは一階の奥で僕は二階の扉の前にいた。鼻歌は聞こえた。階段の下から、とん、とん、と床を鳴らす足音も聞こえた。だが見てはいない。
騎士の誇りにかけて見ていない。
なのに、彼女は真っ赤になって、両手で耳をふさいで、椅子の上で小さく丸まっている。
バルドウィンが扉の外から駆けつけた若い騎士たちに「なんでもない、下がれ」と手をふっている。ひげの下で、あの男の口の端が、ぴくぴく震えているのを僕は見逃さなかった。
――笑っているな。
あとで覚えていろ。
「……ルーク様の、ばか」
椅子の上で、彼女が、くぐもった声で言った。
はじめて彼女に名前を呼ばれた。
猫の心臓は小さい。だから、こんなに簡単に、跳ねあがる。
僕は羊皮紙の上を歩いて、彼女の膝のそばまで行った。何と伝えればいいか分からなかった。見ていない。ごめん。ありがとう。全部を一度に。
前足を、「はい」の字の上に置いた。
彼女が指の隙間から、それを見た。
「……なにが、はい、なの」
僕にも分からなかった。




