第5話 拾った猫を、王宮に届けに行きます
次の朝、店の扉の前に、マーガレットさんが立っていた。
白いエプロンの上から肩かけを羽織って、両手に焼きたてのパンの籠を抱えている。わたしが板戸を外すなり、ずかずかと店に入ってきた。
「コレットちゃん! ゆうべ、うちの人から聞いたよ。柄の悪いのが三人、ここから目を押さえて転がり出てきたって」
「……見られてたんですか」
「下町で見られてないことなんてありゃしないよ。けがは? なんにもされてないかい?」
マーガレットさんは、籠をカウンターに置くと、わたしの両肩をつかんで上から下までじろじろ見た。手首の傷に気づいて、眉がきゅっと寄った。
「これは」
「棚の釘です。自分でこすっちゃって」
「まったく、もう。お母さんがいたら、なんて言うかねえ」
マーガレットさんの声が少しだけ湿った。わたしはうつむいた。
母がいたら。きっと、粉の小瓶じゃなくて、すりこぎを振り回していたと思う。
カウンターの端で、クロが、マーガレットさんにぺこりと頭を下げた。少なくとも、わたしにはそう見えた。
「おや。この子が追い払ったんだって? うちの人が言ってたよ。黒い猫が男の顔に飛びついたって」
「はい。番猫ですから」
「たいしたもんだねえ。ほら、あんたにもあげるよ」
マーガレットさんは、籠から小さな丸パンを一つ取り出してちぎってクロの前に置いた。クロは匂いを嗅いでから、上品にかじった。
パンをかじりながら、クロはときどき、棚の下の暗がりをちらりと見ていた。
マーガレットさんが帰ったあと、わたしは棚の下を掃除することにした。
ゆうべの騒ぎで、瓶がいくつか倒れて、乾いた葉が床に散らばっていた。それに、昨日の朝、クロがあそこに何かを隠していたのも気になっていた。
ほうきの柄を差しこんで奥から掻き出した。
綿ぼこり。乾いたミントの葉。転がった木のふた。
それから、折りたたんだ、白い紙。
「……なに、これ」
開いた。汚い字が目に飛びこんできた。
――黒猫を渡せ。さもなくば、店に火をつける。
息が止まった。
紙を持つ指がすうっと冷たくなった。何度も読み返した。黒猫を渡せ。さもなくば、店に火を。
この店に。母の店に。天井いっぱいの、乾いた薬草の束に。
火がついたら、一瞬だ。
「クロ」
声が自分でも驚くくらい低かった。
クロはカウンターの上で耳を伏せていた。尻尾が体の下に巻きこまれていた。
「これ、きみが隠したの?」
クロはゆっくり、一回だけうなずいた。
うなずいた。猫が。
でも、今はそれどころじゃなかった。
「なんで隠したの! 火をつけるって書いてあるんだよ! わたしが知らないで寝てるあいだに、店ごと燃やされてたかもしれないんだよ!」
怒鳴ってから、自分の声の大きさにびっくりした。
クロは逃げなかった。耳を伏せたまま、まっすぐわたしを見ていた。金色の目が少しも揺れなかった。
その目を見ているうちに、怒りが、すうっと引いていった。
かわりに、別の考えが浮かんだ。
「……わたしが、きみを渡すと思ったの?」
クロは答えなかった。
ただ、尻尾の先だけが、ぴくりと動いた。
わたしは紙を握りしめたまま、カウンターの前にしゃがみこんだ。クロと目の高さを合わせた。
「渡さないよ。あんな人たちに。燃やすって言われても」
クロの耳がゆっくりと立った。
「でも、燃やされるのも困る。だから、考えよう」
わたしはポケットから昨日の金貨を出した。三つ葉の刻印。それから、クロの首の札をそっと手に取った。剣と百合。
この二つは同じところにつながっている気がした。下町の小さな薬草屋には、手に負えないところに。
「この札、近衛騎士団のだよね。きみの飼い主さん、騎士団にいるんだよね」
クロがこくりとうなずいた。
「……王宮に、行ってみようか。この金貨と、手紙と、きみを連れて。飼い主さんに会えたら、きっと、あの人たちのことも何とかしてくれる」
言いながら、胸の奥が、ちくりと痛んだ。
飼い主に会えたら。クロはその人のところに帰ってしまう。
半月。たった半月だった。それなのに、もう、この子のいない夜のことが、うまく思い浮かばなかった。
クロがカウンターから降りてきた。わたしの膝に前足をかけて、伸びあがって、鼻先を、わたしの顎にこつんと当てた。
行こう、と言われた気がした。
出かける前に、わたしは鏡の前で三回髪を結い直した。
一回目はきつすぎて頭が痛くなった。二回目はゆるすぎて首をふったらほどけた。三回目でようやく形になった。
うしろで、クロが寝台の足元に座ってずっとこっちを見ていた。
「……なに。笑ってる?」
クロはふいっと顔をそむけた。尻尾の先がぴこぴこ揺れていた。笑っていたに違いない。
「だって王宮だよ。わたし、城門の前までしか行ったことないの。お祭りの日に人ごみのうしろから背伸びして見ただけ」
紺色のワンピースのしわを、手のひらで何度も伸ばした。
母も、昔は毎朝あの門をくぐっていたのだ。白い薬師の長衣を着て。どんな気持ちで、あの坂をのぼっていたんだろう。
籠にクロを入れてふたを閉めた。ふたの隙間から、黒い前足が一本だけ出てきて、わたしの指先を、ちょんとつついた。
大丈夫、と言われた気がした。
王宮は下町から歩いて一時間ほどだった。
大通りをまっすぐ北へ。川を渡って石の坂をのぼる。坂の上に、白い城壁が見えてくる。わたしは母の形見の前掛けを外して、いちばんましな紺色のワンピースを着ていた。籠の中にはクロ。籠のふたの隙間から、黒い耳が二つ、ぴんと立っていた。
城門の前で、槍を持った門番に止められた。
「用件は」
「あの、近衛騎士団の方に、お届けものが。迷子の猫を拾ったんです。この札をつけていて」
籠のふたを開けてクロの首の札を見せた。
門番はちらりと見て鼻で笑った。
「騎士団の札の偽物なら、下町の露店でいくらでも売ってる。帰れ」
「偽物じゃありません。それに、これも」
金貨を出そうとした手を、門番が払いのけた。
「帰れと言ってる。平民の小娘が猫ひとつで王宮に入れると思うな」
わたしの頬がかっと熱くなった。
平民の小娘。王宮薬師の試験には、貴族の推薦状がいる。下町の薬草屋の娘に、推薦状を書いてくれる貴族はいない。何度も聞いた言葉と同じ音がした。
籠の中でクロがうなった。
そのとき、城門の内側から、蹄の音が近づいてきた。
「何を騒いでいる」
低い、よく通る声だった。
大きな栗毛の馬に、白髪まじりの騎士がまたがっていた。五十を過ぎたくらい。肩幅が広くて、紺の外套の胸には、剣と百合の紋章。日に焼けた顔に、深いしわが何本も刻まれていた。
「副団長閣下。この娘が迷い猫を騎士団に届けたいと」
「猫?」
騎士が馬の上からこちらを見下ろした。灰色の目がわたしの籠に止まった。
籠の中で、クロが、すっと背筋を伸ばした。
そして、騎士を見上げて、短く、一回だけ鳴いた。
「にゃ」
騎士の手から、手綱が落ちた。
灰色の目が大きく見開かれた。唇が何かを言おうとして言えずに震えた。それから、馬から転がるように降りてきて籠の前に片膝をついた。
鎧ががしゃりと鳴った。門番がぎょっとして一歩下がった。
騎士は籠の中のクロを、穴があくほど見つめた。それから、首の札に指を触れた。裏返した。札の裏に、小さく何かが刻んであるのを、わたしはそのとき、はじめて知った。
騎士の指が止まった。
「……団長」
かすれた声だった。
◆ルーク
バルドウィンが泣きそうになっている。
あの男が泣くところを、僕は一度しか見たことがない。僕が十八で騎士の叙任を受けた日だ。父の代わりに剣を授けてくれたのはこの男だった。
ひと月。ひと月も、行方をくらませていた。
すまない、と言いたかった。
「にゃあ」
……猫の口は本当に融通が利かない。
バルドウィンの目がちらりと彼女に向いた。紺色のワンピースの裾を握りしめて、何が起きたのか分からずに立ちつくしている彼女に。
札の裏には、僕の名前が刻んである。ルーク・クロフォード。団長の札にだけ、名を刻む決まりだ。
――彼女は、まだ知らない。
今夜、彼女がそれを知ったら。
僕があの夜の独り言を、全部聞いていたと知ったら。
籠の中で、僕は、自分の前足に顔をうずめた。




