第10話 御前会議に、団長様が帰ってきました
王宮の大広間は思っていたよりずっと寒かった。
高い天井。白い大理石の柱。床に敷かれた赤い絨毯の先に、金の玉座。玉座には、やせた白髪の国王陛下が、深く沈みこむように座っていた。
絨毯の両側に、貴族たちがずらりと並んでいた。絹の上着。宝石の指輪。香水の匂いが何種類も混ざって鼻の奥がつんとした。
わたしは大広間のいちばん後ろの柱の陰に立っていた。
バルドウィン様が、騎士団の見習いの外套を貸してくれた。フードを深くかぶって、手には、三つ葉の封蝋の小瓶と、あの脅迫の紙と、金貨を包んだ布を握りしめていた。
ルークはまだ、ここにいない。
「僕が入るまで決して前に出るな」と言って夜明けに別れた。
玉座の前に、一人の男が進み出た。
五十を過ぎた、背の高い男。銀色の髪をきれいに撫でつけて、黒い絹の上着の胸に、三つ葉の紋章。指先まで手入れが行き届いていた。
宰相、ヘイスティングス様だった。
「陛下。まことに痛ましいことではございますが、近衛騎士団長ルーク・クロフォード殿は、ひと月前、王宮の水路にて落命されました」
なめらかな声だった。言葉の一つ一つが、絹で包んであるみたいだった。
「長を失った騎士団は、もはや陛下をお守りすることかないません。つきましては、近衛騎士団を本日をもって解体し、その務めをわたくしの兵に引き継がせていただきたく存じます」
貴族たちのあいだから、ざわめきが起きた。
騎士団の列の先頭で、バルドウィン様が、拳を握りしめているのが見えた。
陛下はしばらく黙っていた。それから、かすれた声で言った。
「……ルークが、死んだと。まことか、ヘイスティングス」
「まことでございます。剣と鎧が水路に。おいたわしいことでございます」
ヘイスティングス様は、胸に手を当てて深く頭を下げた。
その顔の下で、口の端がわずかに上がったのを、わたしは見た。
お腹の底がかっと熱くなった。
「……よかろう。では」
陛下が手を上げかけた。
その瞬間だった。
大広間の扉がすさまじい音を立てて開いた。
両開きの、樫の大扉。蝶番が悲鳴を上げて、片方の扉が壁にぶつかって跳ね返った。
広間じゅうが振り返った。
扉の向こうに、紺色の礼服の男が立っていた。
黒い髪。金色の目。肩に、剣と百合の刺繍。右足を、まだ下ろしていなかった。
扉を、蹴り開けたのだ。
「水路で溺れた覚えは、ないのですが」
低い声が大理石の柱に響いた。
ルークが絨毯の上を歩いてきた。一歩、一歩。靴の踵が床を打つ音だけが聞こえた。誰も、口をきかなかった。
ヘイスティングス様の指先が、ぴたりと止まった。胸の三つ葉の紋章が、小さく、速く上下しはじめた。
「ル、ルーク殿……生きて」
「おかげさまで。宰相閣下の晩餐のワインは、少々苦すぎましたが」
ルークは玉座の前で片膝をついた。
「陛下。ひと月のご無沙汰、お詫び申し上げます。近衛騎士団長ルーク・クロフォード、ただいま戻りました」
陛下の手が震えた。
「ルーク……ルークか。生きておったか」
「はい。ひと月前、宰相閣下の晩餐で眠り薬を盛られ、呪術師に獣化の呪いをかけられ、水路に捨てられました。逃げるときに、宰相家の従者に斬られた傷が、ここに」
ルークは左の袖をまくった。手首の少し上に、まっすぐな、赤い傷あとがあった。
わたしが包帯を巻いた傷だった。
「ででたらめだ!」
ヘイスティングス様が、叫んだ。絹の声が裏返っていた。
「獣化の呪いなど、おとぎ話だ! 陛下、この男はひと月も行方をくらましておきながら、言い逃れのために作り話を」
「証拠なら、あります」
ルークが振り返った。
大広間の、いちばん後ろの柱を見た。わたしを、見た。
金色の目が来い、と言っていた。
わたしはフードを外した。
足が震えていた。何百という目がいっせいにこちらを向いた。絹と宝石の人たちの目が、下町の薬草屋の娘を見ていた。
一歩、踏み出した。
赤い絨毯は思ったより、ふかふかしていた。
玉座の前まで歩いて、ルークの隣で膝をついた。布の包みを、両手で差し出した。
「下町で薬草屋をしております、コレットと申します」
声が震えないように、お腹に力を入れた。あの日、柄の悪い男たちに「作りません」と言ったときと、同じように。
「この小瓶は、宰相家の封蝋のついた眠り薬です。ヨルガオの種と、ケシの汁と、ハシリドコロの根。体の弱い方が飲めば、心臓が止まる量で混ぜてあります。ヨルガオはこの国では王宮の薬草園でしか育てておりません」
広間がざわっと揺れた。
「それから、この金貨は、宰相家の刻印入りです。わたしの店に、眠り薬を買いに来た男たちが落としていきました。男たちは騎士団の方々が捕まえて、宰相家の執事に雇われたと話しています」
わたしは最後に、脅迫の紙を広げた。
「黒猫を渡せ、さもなくば店に火をつける。――わたしが拾った黒猫は、ルーク様でした」
ヘイスティングス様が、一歩下がった。
「平民の、薬草屋の娘の言うことなど」
「――その娘の見立ては、正しゅうございます」
穏やかな声が横から割って入った。
貴族の列の中から、一人の男が進み出てきた。白い薬師の長衣。五十代くらい。柔らかそうな茶色の髪に、丸い眼鏡。目尻に、やさしそうなしわがあった。
「宮廷薬師長、ロレンツォ・ヴァンダイクでございます。陛下、その小瓶、わたくしにも改めさせていただきました。中身はこの娘の申した通り。たいしたものです。下町に、これほどの目を持つ薬師がいるとは」
薬師長様はわたしのほうを向いて、にっこりと笑った。
わたしは頭を下げた。
なぜだろう。褒められたのに、背中が、ほんの少しだけ、ひやりとした。
陛下がゆっくりと、玉座から身を起こした。
「ヘイスティングス」
かすれていた声に、芯が通っていた。
「そなたが、毎晩、余に献上していた眠り薬。あれは何だ」
ヘイスティングス様は、答えなかった。
膝から、崩れ落ちた。
「衛兵。宰相を捕らえよ」
近衛騎士たちがいっせいに動いた。バルドウィン様が、真っ先に駆け寄って、ヘイスティングス様の腕をねじり上げた。銀色の髪が乱れて、絹の上着の三つ葉の紋章が、赤い絨毯の上に引きずられていった。
会議が終わったあと、陛下の私室に呼ばれた。
陛下はルークの手を握って長いこと離さなかった。それから、わたしに向かって、褒美は何がよいか、と訊いた。
わたしが答えるより先に、ルークが口を開いた。
「陛下。この者に、王宮薬師の試験を受けるための推薦状を。僕の名で書かせていただきたい」
わたしはルークを見上げた。
あの夜の独り言を、覚えていたのだ。推薦状を書いてくれる貴族なんて、いないよね、と言ったことを。
「よかろう。余の名も、並べて書こう」
陛下が目尻をほころばせた。
私室を出て長い回廊を歩いた。窓から、午後の光が斜めに差しこんでいた。
ルークが急に立ち止まった。
「コレット」
「はい」
「……君に、言いたいことがある」
金色の目がまっすぐわたしを見ていた。耳の先が赤かった。
わたしの心臓がどくんと鳴った。
ルークは口を開いて、閉じた。もう一度開いた。
「だが、今は言わない」
「……え?」
「君が、王宮の薬師になったら。その時に、もう一度、ちゃんと言う。推薦状の礼だと思われたくない」
ルークはそう言ってふいっと横を向いた。
猫のときと、まったく同じ横の向き方だった。
わたしは思わず笑ってしまった。笑いながら、頬が熱くてどうしようもなかった。
「じゃあ、絶対、受かります」
ルークがこちらを向いた。少しだけ、口の端が上がっていた。
はじめて見る、人の姿の、ルークの笑い方だった。
回廊の向こうから、ヨストさんが走ってきた。息が切れていた。
「団長! 呪術師の手配書を回したんですが――王都のまじない師の店が、一軒、もぬけの殻になってました。呪術師はゆうべのうちに王都から消えています!」
◆ルーク
呪術師が消えた。
胸の奥の、黒い根が、どくりと疼いた。
隣で、彼女が、僕の袖を握りしめている。気づいていないのだろう。指が白くなるほど強く。
宰相は捕らえた。だが宰相ひとりで、あの眠り薬を作れるはずがない。ヨルガオは王宮の薬草園でしか育たない。粉は下町の乳鉢ではひけないほど細かい。
――薬師長は、なぜ、あの小瓶を「改めた」と言った。
僕はあの小瓶を、誰にも渡していない。
回廊の窓の向こうで、昼の空に、白い月が浮かんでいた。
まだ、少しだけ欠けている。
あと、九日。
僕は袖を握る彼女の手の上に、自分の手を重ねた。
王都の騒ぎは終わった。だが僕の呪いは、まだ終わっていない。
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