第11話 団長様が、毎朝パン屋の前で待っています
御前会議の三日後の朝、マーガレットさんが、店の扉を叩き壊しそうな勢いで叩いた。
「コレットちゃん! コレットちゃん、起きてるかい! 大変だよ!」
わたしは寝間着の上に肩かけを羽織ったまま、階段を駆け下りた。
「どうしたんですか、火事ですか」
「火事じゃないよ。もっと大変だよ。ちょっと、窓からのぞいてごらん」
マーガレットさんは、わたしの肩をつかんで、店の窓の前に引っぱっていった。板戸の隙間から、向かいのパン屋の軒先が見えた。
朝の光の中に、背の高い男の人が立っていた。
紺色の騎士の外套。黒い髪。腰に長い剣。背筋をまっすぐに伸ばして、腕を組んで、パン屋の焼き窯の煙突を見上げていた。
ルークだった。
「死んだはずの近衛の団長さんだよ! 生きてたんだよ! 御前会議で宰相様をとっちめたってもう下町じゅうの噂でさ。その団長さんがなんで、うちのパン屋の前に、夜明けから突っ立ってるんだい」
「よ、夜明けから?」
「うちの人が、窯に火を入れようと思って外に出たら、もういたんだって。しかもほら、見てごらん」
ルークの足もとに、ヨストさんと、背の高い騎士が、困りきった様子で立っていた。二人とも、まぶたが半分くっついていた。
わたしは寝間着の肩かけを胸の前でぎゅっと合わせた。
昨日の夕方、ルークは「明日の朝、また来る」と言って帰っていった。まさか、夜明けからとは思わなかった。
「……あの、マーガレットさん。たぶんうちに用事なんだと思います」
「は?」
マーガレットさんの口がぽかんと開いた。
それから、わたしの顔と、窓の外のルークを三往復した。最後に、カウンターの端の、誰もいない座布団を見た。
あの黒猫がいなくなった、座布団を。
「……コレットちゃん。あんた、まさか」
「ち、違います。いや、違わないけど、違います」
「何が違うんだい。言ってごらん」
マーガレットさんの目がきらきら光りはじめた。下町いちばんの噂好きの目だった。
わたしは観念した。
「着替えてきます」
身支度をして、扉を開けると、ルークがこちらを向いた。
金色の目がわたしを見つけて、ほんの少しだけ、細くなった。
「おはよう、コレット」
「お、おはようございます。ルーク……さま」
まだ、慣れなかった。あの夜は「ルーク」と呼べたのに、朝の光の中で、騎士の外套を着た本物の団長様を前にすると、口が勝手に「様」をつけようとする。
ルークの眉がほんのわずかに下がった。
「様はいらない」
「でも人前ですし」
「あの夜はなかった」
「あの夜はあの夜です」
ルークは黙った。それから、外套の内側から、紙の包みを取り出した。
「これを」
包みの中は焼きたての丸パンだった。まだ湯気が立っていた。
「マーガレット殿の店の、一番窯のパンだ。君がいつも二番窯のを買っていると聞いた。一番窯のほうが皮がぱりっとしているそうだ」
わたしは包みを両手で受け取った。指先が温かかった。
「……それで、夜明けから待ってたんですか?」
「一番窯は夜明けに焼ける」
当たり前のように言った。
うしろで、ヨストさんが、大きなあくびを噛み殺していた。
「団長、昨日も一昨日も、夜明け前に詰め所を出てるんですよ。俺たちまで叩き起こされて」
「ヨスト。黙れ」
「はい、すみません」
ヨストさんはちっともすまなそうではなかった。にこにこしながら、わたしに片目をつぶってみせた。
昨日も一昨日も。
わたしは包みのパンを見下ろした。
この三日、朝起きると、店の扉の前に、パンの包みが置いてあった。マーガレットさんが置いていってくれたんだと思って、お礼を言おうとして言いそびれていた。
「あれも、ルーク様だったんですか」
ルークはふいっと横を向いた。
耳の先が赤かった。
わたしの胸の奥で、何かが、ことんと音を立てた。
うれしかった。ばかみたいにうれしかった。猫のときから知っていた、あの不器用な優しさが、人の大きな手で、パンの包みになって届いていた。
でも同時に、少しだけ、こわかった。
近衛騎士団長。王宮でいちばん剣の立つ人。陛下の命の恩人。その人が下町の薬草屋の前に、夜明けから立っている。
こんなこと、続くはずがない。
「……あの。毎朝は来なくていいですよ。お忙しいでしょうし」
言ってから胸がちくりとした。
ルークがこちらを向いた。
「迷惑か」
「め、迷惑じゃないです。でも」
「なら、来る」
短く言って、ルークはわたしの手の中のパンの包みを上から大きな手で包んだ。
「半月、毎朝、君の声で目を覚ました。今はそれが聞けない。だから、来る」
わたしは何も言えなかった。
包まれた手が熱かった。パンのせいなのか、ルークの手のせいなのか、分からなかった。
向かいのパン屋の窓から、マーガレットさんが、身を乗り出してこちらを見ていた。その隣に、マーガレットさんの旦那さんも。その隣の家の窓からも。そのまた隣の窓からも。
下町じゅうの窓が、開いていた。
「……ルーク様。あの、手」
「何だ」
「見られてます。下町じゅうに」
ルークはゆっくりと振り返った。
開いた窓という窓から、おばさんたちの顔が、ずらりとこちらを向いていた。
ルークの耳が首まで真っ赤になった。
手は離さなかった。
その日、店は、開店から閉店までお客さんが途切れなかった。
ただし、薬を買いに来たお客さんは半分もいなかった。
「コレットちゃん、団長さんとは、どこで知り合ったんだい」
「団長さん、何が好物なんだい。うちの干し肉、持っていきなよ」
「式はいつだい。うちの娘の花嫁衣装、貸してあげようか」
「し、式なんてしません!」
夕方、最後のお客さんを送り出して、わたしはカウンターに突っ伏した。
喉がからからだった。顔じゅうがまだ熱かった。
扉の鈴がちりんと鳴った。
顔を上げると、ルークが立っていた。夕方の光を背にして手にはまた紙の包み。
「夕方の窯のパンだ」
「……朝も、来たじゃないですか」
「朝と、夕方は違う」
当たり前のように言って、ルークは、カウンターの端の、あの座布団に目をやった。
黒猫のクロが半月座っていた場所。
ルークは少し考えてから、その座布団の隣にそっと腰を下ろした。大きな体が小さな丸椅子の上で窮屈そうだった。
わたしは思わず笑ってしまった。
「そこ、クロの場所ですよ」
「知っている。僕の場所だ」
わたしはかまどの鍋から、豆のスープをよそった。少し考えてから、いつもの欠けた小皿ではなく、母の白いお椀に。
ルークはお椀を両手で受け取って湯気に鼻を近づけた。猫のときと、まったく同じしぐさだった。
ひと口飲んで目を閉じた。
「……やっぱり、この味だ」
大きな手の中で、白いお椀が、ずいぶん小さく見えた。
ルークの口の端が、少しだけ上がった。
◆ルーク
夜、詰め所の団長室で、バルドウィンが、机の上にどさりと羊皮紙の束を置いた。
「団長。下町の自警団から、苦情が来ておりますぞ。『騎士団長が毎朝、夜明けからパン屋の前に立っていて、近所の娘たちが窓から落ちそうになる』と」
「放っておけ」
「それから、ヨストから。『団長に付き合わされて寝不足です。見張りの交代を希望します』と」
「却下だ」
バルドウィンがひげの下で笑った。
「……団長が、あんなふうに笑われる日が来るとはな」
僕は羊皮紙から目を上げなかった。
窓の外に月が出ていた。
ほとんど丸い。あと、ほんの少しで満ちる。
胸の奥の黒い根が、月を見るたびにじくじくと熱を持つ。日に日に強くなっている。
――あと、六日。
彼女に、言わなければならない。満月の夜、僕がどうなるのか。
だが今日の夕方、カウンターの隣で笑った彼女を見て言えなかった。
あの笑い声をもう少しだけ、聞いていたかった。




