第12話 満月の夜、窓を叩いたのは黒猫でした
その日、ルークは、夕方のパンを持ってこなかった。
朝はいつものように来た。一番窯の丸パンを手渡して、「今日は、夕方、来られない」と短く言った。それから、何か言いかけてやめた。金色の目が一瞬だけ、窓の外の空を見た。
「お仕事ですか」
「……ああ」
それきりだった。ルークは外套をひるがえして坂のほうへ歩いていった。
変だな、と思った。
この六日、ルークは朝と夕方に、一度も欠かさず来ていた。夕方に来られない日は、前の日に必ず言ってくれた。「明日は陛下の護衛がある」とか、「騎士団の剣の稽古を見る」とか。
今日は理由を言わなかった。
昼間、店番をしながら、何度も扉のほうを見てしまった。鈴が鳴るたびに顔を上げて、お客さんだと分かって肩を落とした。
「コレットちゃん、今日は上の空だねえ」
マーガレットさんに言われて乳棒を落としかけた。
夕方になっても、ルークは来なかった。わたしは一人で豆のスープを作って一人で食べた。
半月、猫と二人で食べていたスープ。ルークが人に戻ってからは、夕方に一緒にパンをかじっていた。
一人で食べるスープは、塩が足りない気がした。
食べおわった器を洗いながら、窓の外を見た。坂の上の、王宮の方角。
いつもなら、もうすぐ扉の鈴が鳴る時間だった。紙の包みを持った背の高い人が、「夕方の窯のパンだ」と言いながら入ってくる時間。
鈴は鳴らなかった。
わたしは布巾をぎゅっと絞った。水が手首まで垂れた。
――お仕事、なんだよね。
自分に言い聞かせて器を棚に戻した。戻す手が少しだけ乱暴になった。
夜になった。
店を閉めて二階に上がった。寝間着に着替えて、灯りを消そうとして窓の外に目をやった。
東の空に、月が昇っていた。
まんまるだった。少しも欠けていない、大きな満月。屋根の向こうから、ゆっくりと顔を出して、下町の石畳を白く照らしていた。
きれいだな、と思った。
そのとき、窓ガラスが、こつん、と鳴った。
わたしはびくりと肩を跳ねさせた。
こつん。こつん。
何かが外から窓を叩いている。二階の窓を。
ふと、あの夜の、黒い外套の男を思い出した。背中がすうっと冷たくなった。わたしは燭台を握りしめてそろそろと窓に近づいた。
窓の外の、出窓の板の上に、黒いものがいた。
月明かりを背にしてちょこんと座っていた。前足を揃えて。背筋をぴんと伸ばして。
金色の目が二つ、光っていた。
「……クロ?」
燭台が手から落ちそうになった。
黒猫はもう一度、前足で窓ガラスをこつんと叩いた。
わたしは窓の掛け金を外した。冷たい夜風と一緒に、黒猫がするりと部屋の中に入ってきた。床に降りてぶるっと体を振った。夜露で毛が少し湿っていた。
首に、剣と百合の札が下がっていた。
間違いなかった。
「ルーク、様?」
黒い頭がこくりと下がった。
それから、うなだれた。耳がぺたんと後ろに倒れていた。
「どうして。呪いは解けたんじゃ」
声が震えた。
黒猫は窓の外の満月を鼻先でさした。それから、自分の胸のあたりを前足でとんとんと叩いた。
満月。胸。
「……満月の夜だけ、猫に戻っちゃうの?」
うなずいた。
「ずっと、知ってたの?」
黒猫は少しのあいだ動かなかった。それから、ゆっくり、一回だけ、うなずいた。
わたしの胸の奥で、何かが、きゅうっと縮んだ。
「……なんで言ってくれなかったの」
黒猫は答えなかった。答えられなかった。猫だから。
でもわたしには分かった。今朝、何か言いかけて閉じた口もと。窓の外の空を見た目。夕方に来られない、と言ったときの、短い声。
ルークは言おうとしていた。何度も。言えなかったのだ。
「わたしが、がっかりすると思った?」
黒猫はうなずいた。
「せっかく呪いが解けたって喜んでたのに。また猫に戻るなんて言ったら、わたしが泣くと思った?」
うなずいた。それから、前足で床をかりかりと掻いた。
「だから、黙って、詰め所で一人で、猫になって朝まで過ごすつもりだったの?」
黒猫の耳がぴくりと動いた。
うなずきかけて止まった。
それから、窓のほうを見てわたしのほうを見た。
――でも来てしまった。
金色の目がそう言っていた。
わたしは床に膝をついた。黒猫と、目の高さを合わせた。
「ばか」
声が湿った。
「一人で朝まで猫でいるつもりだったのに、結局、窓を叩いてるじゃない」
黒猫はうつむいた。
「……来てくれてよかった」
わたしは両手を差し出した。
黒猫は少しためらってから、わたしの手のひらに、自分から頭を押しつけた。あの雨の夜と、同じように。
夜露の冷たさの奥に、温かい体温があった。
「おかえり、クロ」
黒猫は小さく「にゃ」と鳴いた。
その夜、クロは寝台にのぼってきた。
毛布をめくる前に。わたしが「おいで」と言う前に。
三本足ではなく、四本の足で、毛布の上をとことこと歩いてきて、わたしの枕元でくるりと丸くなった。
わたしは灯りを消した。
窓から、満月の光が差しこんでいた。黒い毛が青白く光っていた。
「……ねえ。ひと月に一回、こうなるんだよね」
頬のすぐ横で、黒い頭がこくりと動いた気配がした。
「じゃあ、ひと月に一回、うちに来ればいいよ。満月の夜はうちで寝ればいい。詰め所で一人で丸くなってるより、ずっといいでしょ」
クロの喉がごろごろと鳴りはじめた。
小さな、温かい音だった。
わたしはクロの背中に手を置いた。ふわふわの毛の下で、心臓が、とくとくと速く鳴っていた。
「おやすみ、ルーク」
様をつけなかった。
ごろごろの音が一瞬止まって、それから、もっと大きくなった。
夜明けに、目が覚めた。
窓の外がうっすらと白んでいた。鳥が鳴いていた。
頬の横に、温かいものがあった。ふわふわではなかった。すべすべしていて、硬くて大きかった。
目を開けた。
黒い髪があった。
わたしの枕の、すぐ横に。黒い髪の、男の人の頭が。広い肩が。毛布からはみ出した、腕が。何も着ていない、腕が。
夜明け。呪いが解ける時刻。
ルークがすうすうと寝息を立てていた。わたしの枕元で、猫のときと同じ形に、体を丸めて。
「――――っ」
悲鳴が喉の奥で詰まった。
ルークの目がぱちりと開いた。
金色の目がわたしの目と、すぐ近くで合った。
三つ数えるくらい、二人とも動かなかった。
それから、ルークが、ものすごい速さで毛布を引っつかんで寝台から転がり落ちた。床に、ごん、と頭をぶつける音がした。
「す、すまない! 夜明け前に出ていくつもりだった! 寝過ごした!」
「ふ、服っ、服はっ」
「詰め所だ! 猫になった時に、全部、詰め所に脱ぎ捨ててきた!」
わたしは毛布をかぶったルークを残して寝室を飛び出した。
階段を駆け下りて裏口を開けた。
そこに、ヨストさんが立っていた。紺色の騎士服を一揃い、両腕に抱えて。にこにこしながら。
「おはようございます、コレットさん。団長の着替えです。副団長がたぶん要るだろうって」
◆ルーク
詰め所に戻ると、バルドウィンが、団長室の椅子にふんぞり返って待っていた。
「満月の夜は、詰め所の地下の部屋に鍵をかけて籠もる、とおっしゃっておられましたな、団長」
「……言った」
「地下の部屋の窓の格子が、外から猫の手でこじ開けられておりましたが」
「…………」
「次の満月からは、最初からコレット殿のお宅へ、着替えを届けさせましょう。夜明け前に」
バルドウィンの口の端が、ひげの下でぴくぴく震えていた。
僕は何も言い返せなかった。
窓の外ではもう、月は沈んでいた。
胸の奥の黒い根は、また静かになっている。次の満月まで二十九日と半分。
――おやすみ、ルーク。
様をつけなかった。
あの声を思い出すと、猫の姿でもないのに、喉の奥が、ごろごろと鳴りそうになった。




