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12/21

第12話 満月の夜、窓を叩いたのは黒猫でした


 その日、ルークは、夕方のパンを持ってこなかった。


 朝はいつものように来た。一番窯の丸パンを手渡して、「今日は、夕方、来られない」と短く言った。それから、何か言いかけてやめた。金色の目が一瞬だけ、窓の外の空を見た。


「お仕事ですか」


「……ああ」


 それきりだった。ルークは外套をひるがえして坂のほうへ歩いていった。


 変だな、と思った。


 この六日、ルークは朝と夕方に、一度も欠かさず来ていた。夕方に来られない日は、前の日に必ず言ってくれた。「明日は陛下の護衛がある」とか、「騎士団の剣の稽古を見る」とか。


 今日は理由を言わなかった。


 昼間、店番をしながら、何度も扉のほうを見てしまった。鈴が鳴るたびに顔を上げて、お客さんだと分かって肩を落とした。


「コレットちゃん、今日は上の空だねえ」


 マーガレットさんに言われて乳棒を落としかけた。


 夕方になっても、ルークは来なかった。わたしは一人で豆のスープを作って一人で食べた。


 半月、猫と二人で食べていたスープ。ルークが人に戻ってからは、夕方に一緒にパンをかじっていた。


 一人で食べるスープは、塩が足りない気がした。


 食べおわった器を洗いながら、窓の外を見た。坂の上の、王宮の方角。


 いつもなら、もうすぐ扉の鈴が鳴る時間だった。紙の包みを持った背の高い人が、「夕方の窯のパンだ」と言いながら入ってくる時間。


 鈴は鳴らなかった。


 わたしは布巾をぎゅっと絞った。水が手首まで垂れた。


 ――お仕事、なんだよね。


 自分に言い聞かせて器を棚に戻した。戻す手が少しだけ乱暴になった。




 夜になった。


 店を閉めて二階に上がった。寝間着に着替えて、灯りを消そうとして窓の外に目をやった。


 東の空に、月が昇っていた。


 まんまるだった。少しも欠けていない、大きな満月。屋根の向こうから、ゆっくりと顔を出して、下町の石畳を白く照らしていた。


 きれいだな、と思った。


 そのとき、窓ガラスが、こつん、と鳴った。


 わたしはびくりと肩を跳ねさせた。


 こつん。こつん。


 何かが外から窓を叩いている。二階の窓を。


 ふと、あの夜の、黒い外套の男を思い出した。背中がすうっと冷たくなった。わたしは燭台を握りしめてそろそろと窓に近づいた。


 窓の外の、出窓の板の上に、黒いものがいた。


 月明かりを背にしてちょこんと座っていた。前足を揃えて。背筋をぴんと伸ばして。


 金色の目が二つ、光っていた。


「……クロ?」


 燭台が手から落ちそうになった。


 黒猫はもう一度、前足で窓ガラスをこつんと叩いた。


 わたしは窓の掛け金を外した。冷たい夜風と一緒に、黒猫がするりと部屋の中に入ってきた。床に降りてぶるっと体を振った。夜露で毛が少し湿っていた。


 首に、剣と百合の札が下がっていた。


 間違いなかった。


「ルーク、様?」


 黒い頭がこくりと下がった。


 それから、うなだれた。耳がぺたんと後ろに倒れていた。


「どうして。呪いは解けたんじゃ」


 声が震えた。


 黒猫は窓の外の満月を鼻先でさした。それから、自分の胸のあたりを前足でとんとんと叩いた。


 満月。胸。


「……満月の夜だけ、猫に戻っちゃうの?」


 うなずいた。


「ずっと、知ってたの?」


 黒猫は少しのあいだ動かなかった。それから、ゆっくり、一回だけ、うなずいた。


 わたしの胸の奥で、何かが、きゅうっと縮んだ。


「……なんで言ってくれなかったの」


 黒猫は答えなかった。答えられなかった。猫だから。


 でもわたしには分かった。今朝、何か言いかけて閉じた口もと。窓の外の空を見た目。夕方に来られない、と言ったときの、短い声。


 ルークは言おうとしていた。何度も。言えなかったのだ。


「わたしが、がっかりすると思った?」


 黒猫はうなずいた。


「せっかく呪いが解けたって喜んでたのに。また猫に戻るなんて言ったら、わたしが泣くと思った?」


 うなずいた。それから、前足で床をかりかりと掻いた。


「だから、黙って、詰め所で一人で、猫になって朝まで過ごすつもりだったの?」


 黒猫の耳がぴくりと動いた。


 うなずきかけて止まった。


 それから、窓のほうを見てわたしのほうを見た。


 ――でも来てしまった。


 金色の目がそう言っていた。


 わたしは床に膝をついた。黒猫と、目の高さを合わせた。


「ばか」


 声が湿った。


「一人で朝まで猫でいるつもりだったのに、結局、窓を叩いてるじゃない」


 黒猫はうつむいた。


「……来てくれてよかった」


 わたしは両手を差し出した。


 黒猫は少しためらってから、わたしの手のひらに、自分から頭を押しつけた。あの雨の夜と、同じように。


 夜露の冷たさの奥に、温かい体温があった。


「おかえり、クロ」


 黒猫は小さく「にゃ」と鳴いた。




 その夜、クロは寝台にのぼってきた。


 毛布をめくる前に。わたしが「おいで」と言う前に。


 三本足ではなく、四本の足で、毛布の上をとことこと歩いてきて、わたしの枕元でくるりと丸くなった。


 わたしは灯りを消した。


 窓から、満月の光が差しこんでいた。黒い毛が青白く光っていた。


「……ねえ。ひと月に一回、こうなるんだよね」


 頬のすぐ横で、黒い頭がこくりと動いた気配がした。


「じゃあ、ひと月に一回、うちに来ればいいよ。満月の夜はうちで寝ればいい。詰め所で一人で丸くなってるより、ずっといいでしょ」


 クロの喉がごろごろと鳴りはじめた。


 小さな、温かい音だった。


 わたしはクロの背中に手を置いた。ふわふわの毛の下で、心臓が、とくとくと速く鳴っていた。


「おやすみ、ルーク」


 様をつけなかった。


 ごろごろの音が一瞬止まって、それから、もっと大きくなった。




 夜明けに、目が覚めた。


 窓の外がうっすらと白んでいた。鳥が鳴いていた。


 頬の横に、温かいものがあった。ふわふわではなかった。すべすべしていて、硬くて大きかった。


 目を開けた。


 黒い髪があった。


 わたしの枕の、すぐ横に。黒い髪の、男の人の頭が。広い肩が。毛布からはみ出した、腕が。何も着ていない、腕が。


 夜明け。呪いが解ける時刻。


 ルークがすうすうと寝息を立てていた。わたしの枕元で、猫のときと同じ形に、体を丸めて。


「――――っ」


 悲鳴が喉の奥で詰まった。


 ルークの目がぱちりと開いた。


 金色の目がわたしの目と、すぐ近くで合った。


 三つ数えるくらい、二人とも動かなかった。


 それから、ルークが、ものすごい速さで毛布を引っつかんで寝台から転がり落ちた。床に、ごん、と頭をぶつける音がした。


「す、すまない! 夜明け前に出ていくつもりだった! 寝過ごした!」


「ふ、服っ、服はっ」


「詰め所だ! 猫になった時に、全部、詰め所に脱ぎ捨ててきた!」


 わたしは毛布をかぶったルークを残して寝室を飛び出した。


 階段を駆け下りて裏口を開けた。


 そこに、ヨストさんが立っていた。紺色の騎士服を一揃い、両腕に抱えて。にこにこしながら。


「おはようございます、コレットさん。団長の着替えです。副団長がたぶん要るだろうって」






◆ルーク


 詰め所に戻ると、バルドウィンが、団長室の椅子にふんぞり返って待っていた。


「満月の夜は、詰め所の地下の部屋に鍵をかけて籠もる、とおっしゃっておられましたな、団長」


「……言った」


「地下の部屋の窓の格子が、外から猫の手でこじ開けられておりましたが」


「…………」


「次の満月からは、最初からコレット殿のお宅へ、着替えを届けさせましょう。夜明け前に」


 バルドウィンの口の端が、ひげの下でぴくぴく震えていた。


 僕は何も言い返せなかった。


 窓の外ではもう、月は沈んでいた。


 胸の奥の黒い根は、また静かになっている。次の満月まで二十九日と半分。


 ――おやすみ、ルーク。


 様をつけなかった。


 あの声を思い出すと、猫の姿でもないのに、喉の奥が、ごろごろと鳴りそうになった。


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