第13話 王宮薬師試験の受付で、笑われました
王宮薬師院は王宮の東の翼にあった。
白い石の三階建て。正面の扉の上に、乳鉢と乳棒を組み合わせた紋章が彫ってある。扉の前の石段には、もう、二十人ほどの若い人たちが並んでいた。
わたしは石段の下で足を止めた。
並んでいるのはみんな、きれいな服を着た人たちだった。絹の上着。刺繍の入った外套。耳飾りが朝の光にきらきら光っている。従者に日傘を差しかけさせている人もいた。
わたしは自分の紺色のワンピースを見下ろした。
いちばんいい服だった。ゆうべ、袖口のほつれを繕ってアイロンもかけた。それでも、石段の上の人たちの服と並べると、くたびれた布切れみたいに見えた。
鞄の中の推薦状を、指で確かめた。ルークと、陛下の名前が並んだ推薦状。これがある。大丈夫。
「受付には、一人で行きたいんです」
ゆうべ、ルークにそう言った。ルークは長いこと黙っていた。それから、「分かった」と言った。大きな手で、わたしの頭を一回だけなでて帰っていった。
一人で来た。
わたしは息を吸って列のいちばん後ろに並んだ。
列はなかなか進まなかった。
前の人たちはずっとおしゃべりをしていた。家庭教師の薬師がどれだけ厳しかったか。去年の試験でどこの家の息子が落ちたか。父上が薬師院の誰と親しいか。
わたしの知らない名前ばかりだった。
わたしは鞄の中で、母の形見の小さな薬匙を握った。銀の、柄の細い匙。今朝、なんとなく、持ってきてしまった。
握っていると、少しだけ、背筋が伸びた。
前の人がちらりと振り返った。わたしの服を、頭のてっぺんから靴の先まで見てすぐに前を向いた。隣の人に何か耳打ちした。二人でくすくす笑った。
頬が熱くなった。
聞こえないふり。聞こえないふり。わたしは鞄の取っ手を握りしめた。
一時間ほど並んで、ようやく受付の机の前に立った。
机の向こうに、灰色の長衣を着た若い書記官が座っていた。羽根ペンを持ったまま、顔を上げずに言った。
「家名と、推薦人の名を」
「家名は、ありません。コレットです。下町で薬草屋をしています」
書記官の羽根ペンが、止まった。
顔を上げた。わたしを見て、もう一度、わたしの服を見た。
「……家名が、ない?」
「はい」
「平民か」
周りの空気がざわっと揺れた。
うしろに並んでいた人たちが、いっせいにこちらを見た。前のほうで受付を済ませた人たちまで振り返った。
「平民の受験者なんて何年ぶりだ」
「推薦状なんか、あるわけないだろう」
「薬草屋だって。下町の」
ささやき声があちこちから聞こえた。わたしの耳の後ろが、じんじんと熱くなった。
「推薦状はあります」
声が少し大きくなった。わたしは鞄から封筒を出して机の上に置いた。
そのとき、横から、白い手袋の手がすっと伸びてきた。
封筒を、ひょいと取り上げた。
「まあ。拝見してもよろしくて?」
鈴を振るような声だった。
振り返ると、わたしと同じくらいの年の娘が立っていた。
蜂蜜色の髪を、きれいに巻いて結い上げている。淡い桃色の絹のドレス。首に真珠。肌が白くて、目が大きくて、絵本の中のお姫様みたいだった。
うしろに、侍女を二人従えていた。
「ベアトリーチェ様」
書記官があわてて立ち上がった。
「ベアトリーチェ・ヴァンダイク様。薬師長閣下のお嬢様だ」
うしろの誰かが小声で言った。
薬師長。あの御前会議でわたしの見立てを「正しい」と言ってくれた人。丸い眼鏡の、やさしそうな人。
その人の娘がわたしの推薦状の封筒を、白い手袋の指先でつまんでいた。汚いものを持つみたいに。
「近衛騎士団長様と、国王陛下の連名ですって」
ベアトリーチェ様は、封筒の表を読み上げてころころと笑った。
「まあ、すてき。下町ではこういうものを、どこで書いていただけますの? 露店かしら」
周りから、どっと笑いが起きた。
わたしの指先が冷たくなった。
「……偽物じゃありません」
「あら、怒らないで。わたくし、心配して差し上げているのよ」
ベアトリーチェ様は、封筒をひらひらと振った。
「王宮薬師の試験は、遊びではありませんの。筆記、実技、最終実技。毎年、貴族の家で十年以上学んだ者たちが、半分以上落ちますのよ。下町の薬草屋さんが、草をちぎって煮るのとは、わけが違いますわ」
わたしは唇を噛んだ。
草をちぎって煮る。
母が毎晩、乳鉢を回していた。熱を出した子どものために、夜明けまで煎じ薬を見張っていた。わたしも、五年間、一人で。
それを草をちぎって煮る、と。
「恥をかく前に、お帰りになったほうが、あなたのためですわ」
ベアトリーチェ様は、にっこり笑った。
侍女たちも笑った。周りの人たちも笑った。
足が震えた。逃げたかった。今すぐ、この石段を駆け下りて、下町の店に帰って、扉にかんぬきをかけて、カモミールのお茶をいれたかった。
――作りません。
ふいに、自分の声が耳の奥でした。
柄の悪い男たちの前で、膝を震わせながら、二回言った声。
あのときも、こわかった。それでも、言えた。
わたしは手を伸ばした。
ベアトリーチェ様の白い手袋の指から、封筒をそっと取り返した。
「心配してくださってありがとうございます」
声が思ったよりも、しっかり出た。
「でも、受けます。草をちぎって煮るのが、どれだけ難しいか、試験でお見せします」
ベアトリーチェ様の口もとの笑みが、ほんの一瞬だけ、止まった。
わたしは書記官のほうへ向き直って封筒を差し出した。
「確かめてください」
書記官はおそるおそる封を切った。中の羊皮紙を広げた。
いちばん下に、二つの署名と、二つの封蝋が押してあった。一つは剣と百合。もう一つは金の王冠。
書記官の喉がごくりと鳴った。
羽根ペンを持つ手が、震えはじめた。
「……へ、陛下の、御璽」
受付の周りがしんと静まりかえった。
さっきまで笑っていた人たちが、口を開けたまま、固まっていた。
書記官は震える手で、受験者の名簿に、わたしの名前を書きこんだ。家名の欄には、何も書かなかった。かわりに、推薦人の欄に、二つの名前をとても丁寧に書いた。
「じゅ、受験番号、二十一番。筆記試験は十日後の朝、九時です」
「ありがとうございます」
わたしは頭を下げて受付の机を離れた。
ベアトリーチェ様の横を通りすぎるとき、桃色の絹のドレスの裾が、小さく震えているのが見えた。
石段を下りながら、膝が、がくがくしていた。
でも、背中は、まっすぐだった。
石段の下で、ベアトリーチェ様の声が背中に届いた。
わたしにではなく、侍女に向けた、小さな声だった。
「二十一番、ね。……お父様に、お伝えしておいて」
振り返らなかった。
でも、首のうしろが、ひやりとした。
◆ルーク
薬師院の向かいの、回廊の柱の陰から、僕はすべてを見ていた。
一人で行きたい、と彼女は言った。だから、行かなかった。受付には。
回廊は受付ではない。
……騎士として、苦しい言い訳なのは分かっている。
彼女が笑われたとき、柱を握る指に、力が入りすぎた。石の柱に、ひびが入ったかもしれない。あとで修繕の費用を払う。
だが出ていかなかった。
彼女は自分で封筒を取り返した。自分の声で「受けます」と言った。
僕が出ていけば、あの場は、すぐに静まっただろう。だがそれでは「騎士団長の女だから」と言われる。彼女はそれを望まない。
だから、柱を握っていた。
石段を下りていく彼女の背中は、まっすぐだった。膝は震えていたが。
――ヴァンダイク。
あの娘が侍女に囁いた声は、僕の耳にも届いた。
お父様に、お伝えしておいて。
御前会議の日。薬師長は渡してもいない小瓶を「改めた」と言った。
二十一番。
僕は柱から手を離した。指の跡がくっきりと残っていた。




