第14話 筆記試験と、母の名前
筆記試験の朝、ルークは、一番窯のパンを二つ持ってきた。
「一つは、昼の分だ」
「……ありがとうございます」
わたしはパンの包みを鞄に入れた。手が少し震えていた。ゆうべはほとんど眠れなかった。目を閉じると、薬草の名前と、効き目と、煎じ方が、頭の中をぐるぐる回った。
ルークはわたしの顔をじっと見下ろしていた。それから、外套の内側から、小さな布袋を取り出した。
「これも」
袋の口を開けると、ふわっと甘い匂いがした。乾いたカモミールの花と、ミントの葉。わたしの店の匂いだった。
「君の店の棚から、少しだけ、もらった。……昨日、君が奥にいるあいだに」
「勝手に」
「すまない」
ちっともすまなそうではなかった。耳の先が赤かった。
「緊張したら、嗅げばいい。猫の時、僕はこの匂いで眠れた」
わたしは布袋を鼻に近づけた。
カモミールとミント。それから、ほんの少しだけ、ヨモギ。毎朝、店の扉を開けたときの匂い。
胸の奥の、固く結ばれていた何かが、少しだけゆるんだ。
「……行ってきます」
「待っている」
ルークはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、わたしが角を曲がって見えなくなるまで坂の下に立っていた。振り返らなくても、分かった。
試験会場は薬師院の二階の、大きな広間だった。
長い机が何列も並んでいて、受験者が一人ずつ、間をあけて座らされた。わたしの席はいちばん後ろの、窓際だった。二十一番。
前のほうの席に、蜂蜜色の巻き髪が見えた。ベアトリーチェ様だった。一度だけ振り返って、わたしを見て、白い手袋の指で口もとを隠して笑った。
わたしは膝の上で、カモミールの布袋を握りしめた。
試験官は三人いた。
真ん中に、白髪の小柄なおじいさん。腰が少し曲がっていて、白い長衣の袖口が、薬で茶色く染まっていた。両脇に、若い試験官が二人。
「わしはハーヴィ。この薬師院で、五十年、薬をひいておる。今日の筆記を見る」
おじいさんはしわがれた声で言った。
「時間は、昼の鐘まで。始め」
問題用紙が配られた。
わたしは息を止めて一枚目をめくった。
――熱さましに使うヤナギの皮。その煎じ方と、飲ませてはならない者を書け。
知っている。毎年、秋の終わりに何十回も煎じている。小さな子どもと、胃の弱い人には量を半分に。
羽根ペンを走らせた。
二問目。三問目。四問目。手が勝手に動いた。毎日、店でやっていることだった。母が教えてくれたことだった。
十問目でペンが止まった。
――獣に噛まれた傷が、三日たっても膿む。手元の薬草はヨモギ、セージ、ドクダミのみ。どう処置するか。
ドクダミ。
わたしは問題用紙をにらんだ。
ドクダミは王都の下町では、ほとんど生えていない。うちの店にも、置いていない。図鑑で見たことはあるけれど、自分の手で煎じたことは一度もなかった。
背中に、冷たい汗がにじんだ。
前のほうで、ペンの音が、さらさらと続いていた。ベアトリーチェ様の巻き髪が、軽やかに揺れていた。
わたしだけ、止まっている。
――下町の薬草屋さんが、草をちぎって煮るのとはわけが違いますわ。
喉の奥がぎゅっと詰まった。
わたしは膝の上の布袋を鼻に押し当てた。
カモミール。ミント。ヨモギ。
ヨモギの匂いで、ふっと、思い出した。
小さいころ、作業台の下で母が乳鉢を回していた。歌いながら。わたしが近所の犬に噛まれて泣いて帰ってきた日。
――ヨモギは、生のまま揉んで傷に貼るの。煎じちゃだめ。煎じたら、いちばん大事なところが、湯気になって逃げちゃうから。
――それから、ドクダミの葉を火であぶってくるんで。左手でぎゅっと。
――ほら。膿が出てきた。
わたしは羽根ペンを握りなおした。
母の声のとおりに、書いた。ヨモギは煎じず、生で揉む。ドクダミは火であぶって柔らかくし、患部を包む。左手で押さえる。右手では力が入りすぎて傷を広げるから。
書きおわったとき、昼の鐘が鳴った。
羽根ペンを置いた指が、インクで青く染まっていた。
わたしは窓の外を見た。薬師院の中庭の向こうに、王宮の白い塔が見えた。
お母さん。
声に出さずに、呼んだ。
――ちゃんと、覚えてたよ。
答案を集めおわって、受験者たちが広間を出ていくなか、わたしは呼び止められた。
「二十一番。少し、残りなさい」
ハーヴィ様だった。
ベアトリーチェ様が、扉のところで振り返った。わたしを見て口の端をくいっと上げた。きっと、わたしが何かしくじったと思っているのだろう。
広間に、わたしとハーヴィ様だけが残った。
ハーヴィ様はわたしの答案を手に持って、十問目のところをじっと見ていた。
「この答え。誰に習った」
「……母です」
「ドクダミを左手で押さえる。右では力が入りすぎる。この書き方をわしは一度だけ聞いたことがある」
ハーヴィ様が顔を上げた。
白い眉の下の、小さな灰色の目がわたしを見ていた。
「娘さん。笑うてみなさい」
「え?」
「いいから」
わけが分からなかった。でも、わたしは、言われるまま、口の端を上げてみた。
ハーヴィ様の灰色の目がわたしの左の頬で止まった。
しわだらけの手が、答案の紙をくしゃりと握った。
「……エルミナの、娘か」
わたしの息が止まった。
「母をご存じなんですか」
「知っておるとも。わしの、いちばんの弟子だった」
ハーヴィ様は椅子に、どさりと腰を下ろした。
「十八年前、この薬師院でいちばん腕のいい薬師だった。王宮薬師の、首席だ。まだ二十六だったが、わしより、よほど薬の匂いが分かった」
王宮薬師の、首席。
わたしはその場に立ちつくした。
母の手を思い出した。荒れて、ひびが入って、爪の間がいつも緑色だった手。下町の小さな店で、朝から晩まで乳鉢を回していた手。
あの手が王宮で、いちばんだった。
どうして何も言ってくれなかったの。
胸の奥で、うれしいのと、さみしいのが、ぐちゃぐちゃに混ざった。
薬草園で働いていた、とだけ聞いていた。母は王宮のことをほとんど話さなかった。わたしは母が薬草園の草むしりか、水やりの手伝いをしていたのだと思っていた。
首席。
「どうして。どうして母は王宮を」
「それは」
ハーヴィ様は言いかけて口を閉じた。
広間の扉のほうをちらりと見た。誰もいなかった。それでも、声を低くした。
「ここでは言えん。……娘さん。一つだけ、約束しなさい」
「はい」
「試験が終わるまで、薬師長の前で母の名を出してはならん。決して」
ハーヴィ様の手が、わたしの手首をぎゅっとつかんだ。骨ばった、乾いた手だった。
薬師長。ロレンツォ・ヴァンダイク様。御前会議でやさしく笑ってくれた人。
ベアトリーチェ様の、お父様。
わたしの背中を冷たいものが、ゆっくりと這いのぼっていった。
◆ルーク
同じ時刻、僕は王宮の文書庫にいた。
薄暗い棚のあいだを蝋燭を持って歩いた。王宮に仕える者の名簿は、年ごとに綴じてある。十八年前の、薬師院の名簿。
見つけた。
革の表紙の、分厚い一冊。埃を払ってページをめくった。
首席薬師の欄。
そこだけ、ページが、なかった。
刃物で、根元からきれいに切り取られていた。前後のページはそのまま残っている。首席の名前と、その年の記録だけが、跡形もなく消えていた。
切り口は古かった。少なくとも、十年以上前のものだ。
蝋燭の炎が揺れた。
誰かが十八年前に、エルミナという薬師がここにいた証を消した。
この文書庫に入れるのは、各院の長と、近衛騎士団長だけだ。
僕は名簿を閉じて元の棚に戻した。指先に、古い紙の粉がついていた。
――薬師長は、この十七年、ずっと、薬師院の長だった。




