第3話 薬草の瓶を取り違えたら、猫に止められました
クロが来て半月が過ぎた。
あの夜の黒い外套の男はそれから一度も現れなかった。戸締まりを二重にして、窓辺には近づかないようにした。クロは毎晩、寝室の扉の前に座って眠るようになった。寝台の足元でも枕元でもなく。
左の前足の傷は少しずつふさがってきた。もう、三本足ではなく、四本の足でゆっくり歩けるようになっていた。
その朝は朝いちばんから、お客さんが途切れなかった。
下町に、流行り風邪が出たのだ。熱と、咳と、のどの痛み。毎年、秋の終わりになると、子どもたちのあいだで広がる。
「コレットちゃん、うちの子、ゆうべから咳が止まらなくて」
「熱さましをください。じいさんがうなされてて」
「のどにいいの、何かないかい」
狭い店の中に、お客さんが五人も六人も並んだ。わたしはカウンターの奥の棚と、作業台と、天井の薬草の束のあいだを行ったり来たりした。
咳止めのタチジャコウソウ。熱さましのヤナギの皮。のどの痛みにはセージとはちみつ。秤で量って、紙に包んで、飲み方を説明してお代を受け取る。
クロはカウンターの端に座って、わたしのことをじっと見ていた。
お昼近く、小さな女の子を抱いたお母さんが、店に飛びこんできた。
「すみません、咳止めを! この子、もう三日も夜眠れなくて」
女の子は四つか五つくらい。お母さんの肩に顔をうずめて、ごほっ、ごほっと、苦しそうな咳をしていた。
「すぐにお出しします」
わたしは棚の上の瓶に手を伸ばした。タチジャコウソウの、乾燥させた葉。瓶のふたを開けて、ひとつかみ取り出して紙の上に置こうとした。
その手の甲に、黒い前足が、ぽんと乗った。
クロだった。カウンターの端から、作業台の上まで跳んできていた。前足でわたしの手を押さえていた。金色の目がわたしの手の中の葉をじっとにらんでいた。
「クロ、じゃましないで」
クロはどかなかった。
それどころか、わたしの手の中の葉に鼻先を近づけて、ふんっ、と強く鼻を鳴らした。それから、もう一度、わたしを見上げた。
何かを言おうとしていた。
わたしは手の中の葉を見下ろした。
――あ。
背中がすうっと冷たくなった。
葉の形がほんの少しだけ違った。似ている。とても似ている。でも葉の裏の産毛が、ない。
タチジャコウソウではなかった。
となりの瓶に入っている、イヌハッカの葉だった。強い下剤に使う薬草。忙しさにまぎれて瓶を取り違えていた。
小さな子どもに飲ませたら、ひどい腹痛を起こす。脱水になって、熱がもっと上がるかもしれない。
わたしの手が震えた。
「……ごめんなさい、少しだけ、お待ちくださいね」
声がうわずった。お母さんに背を向けて、手の中の葉をそっと元の瓶に戻した。それから、正しい瓶のふたを開けた。
今度は葉の裏を確かめた。白い、細い産毛。指でなでると、かすかにざらりとする。それから、鼻に近づけた。すっとした、草の匂い。
タチジャコウソウだった。
紙に包んではちみつと一緒に渡した。煎じ方をゆっくり、二回、説明した。
お母さんは何度も頭を下げて、女の子を抱いて帰っていった。
扉が閉まると、わたしは作業台に両手をついて、大きく息を吐いた。
膝ががくがくしていた。
五年間、一度も薬を間違えたことはなかった。母に何度も言われていた。薬はひとつまちがえば毒になる。忙しいときほど、ゆっくり確かめなさい、と。
――あの子に下剤を。
考えただけで指先が冷たくなった。
次のお客さんが来る前に、わたしは棚の前に立った。
タチジャコウソウの瓶と、イヌハッカの瓶。母が生きていたころから、ずっと隣どうしに並んでいた。ラベルの字も母の字だ。似た葉は並べておいたほうが、見くらべやすいから。母はそう言っていた。
でも母はもういない。忙しい日に一人で店を回しているのはわたしだ。
イヌハッカの瓶を両手で持ち上げて、いちばん上の段の、いちばん端に移した。踏み台にのらないと届かない場所。それから、瓶の首に、赤い糸をぐるぐると三重に巻いた。下剤の瓶には赤い糸。これなら、どんなに急いでいても、指が先に気づく。
母のラベルの横に並んだ、赤い糸。母の棚をはじめて自分の手で変えた。
胸の奥が少しだけちくりとした。
お昼休みに、店の札を「休憩中」に裏返した。
作業台の上で、クロが、前足を揃えて座っていた。わたしはその前の椅子に座ってクロの顔をじっと見つめた。
「……クロ。どうして分かったの?」
クロはすましたように、尻尾をくるりと前足に巻きつけた。
「あの二つ、わたしでも見分けるの、難しいんだよ。葉の裏の産毛でしか分からないの。お母さんに、小さいころ、何度も教わったの」
クロの耳がぴくりと動いた。
「猫が、薬草の見分けなんてつくはずないのに」
わたしはクロの鼻先にそっと指を近づけた。クロはわたしの指先の匂いを嗅いで、それから、ほんの少しだけ、目を細めた。
「ありがとう、クロ。あの子を助けてくれて」
クロは何も言わなかった。猫だから。
でもわたしの指先に、自分の額をこつんと押し当てた。
その日の夕方、店を閉めてから、わたしは作業台の前に座って乳鉢を出した。
白い石の、大きな乳鉢。縁が少し欠けていて、内側が、長い年月ですべすべに磨かれている。母の形見だ。
明日の分の湿布の薬を作っておかなければ。
乾燥させたアルニカの花と、カモミールと、少しのヤナギの皮を入れて乳棒を回しはじめた。ごり、ごり、と、石と石がこすれる音。乾いた花の、甘い香りが立ちのぼる。
気がつくと、わたしは小さな声で歌っていた。
――月のしずくを、三つぶ落として。白い花びら、七つ数えて。
母が乳鉢を回しながら、いつも歌っていた歌。子守唄だった。小さいころ、作業台の下でこの歌を聞きながら眠った。歌詞の意味はよく分からない。母に訊いても、笑って「おまじないよ」と言うだけだった。
――銀の葉っぱを、左に回して。眠れ、眠れ、いとしい子。
作業台の上で、クロが、ぴたりと動きを止めていた。
顔を上げると、金色の目が、まんまるになってわたしを見ていた。
「どうしたの、クロ?」
クロは答えなかった。
ただ、作業台の上を歩いてきて、乳鉢のふちにそっと鼻先を近づけた。それから、わたしの顔をもう一度、じっと見上げた。
まるで、わたしの顔の中に、誰かを探しているみたいに。
「……変な子」
わたしは笑ってまた乳棒を回しはじめた。
◆ルーク
あの歌を知っている。
十歳の夏。騎士見習いになる前。僕は王宮の薬草園によく忍びこんで遊んでいた。父と母が亡くなって、王宮に引き取られたばかりのころだ。誰とも口をきかず、薬草園の生け垣の陰に隠れていた。
薬草園に若い女の薬師がいた。
栗色の髪。笑うと、左の頬にだけ、えくぼができた。
その人は生け垣の陰の僕を見つけても、追い出さなかった。かわりに、僕を作業小屋に呼んで乳鉢を回させてくれた。乳鉢を回しながら、歌を歌っていた。
――月のしずくを、三つぶ落として。
それから、僕に、葉の見分け方を教えてくれた。タチジャコウソウと、イヌハッカ。葉の裏の産毛でしか見分けられないのよ、と。
ある日、その人は薬草園からいなくなった。誰に訊いても、教えてくれなかった。
――今、目の前で同じ歌を歌っている。
同じ形の乳鉢を同じ手つきで回して。
笑ったとき、左の頬にだけ、小さなえくぼができる。
僕は作業台の上で身じろぎもできなかった。
あの人はこの子の、母親だ。
十八年前、僕に薬草の見分け方を教えてくれた人の娘が、雨の路地裏で、猫の姿の僕に手を差し伸べた。
偶然なのか。それとも。
窓の外で、かたん、と小さな音がした。
僕は乳鉢から顔を上げた。
店の扉の下の隙間に、何かが差しこまれていた。白い紙。折りたたんだ、一枚の紙。
彼女はまだ、歌っていて気づいていない。
僕は作業台から跳び降りた。四本の足で扉の前まで走った。前足で紙を引き寄せて鼻先で開いた。
汚い字で短く書いてあった。
――黒猫を渡せ。さもなくば、店に火をつける。




