第2話 番猫クロは、着替えのたびに部屋を出ていく
朝、目を覚ますと、枕元にクロはいなかった。
一瞬、夢だったのかと思った。雨の路地裏で黒猫を拾ったことも、その猫が枕元で丸くなってくれたことも。
寝台から体を起こして部屋を見回した。
クロは窓辺にいた。
出窓の板の上に、背筋をぴんと伸ばして座っていた。左の前足にはゆうべ巻いた包帯。朝の光の中で、黒い毛が、つやつやと光っている。金色の目が窓の外の路地をじっと見下ろしていた。
猫が日向ぼっこをしている、というより、門番が見張りに立っているみたいだった。
「おはよう、クロ」
声をかけると、クロはちらりとこちらを見て、尻尾を一回だけ、ぱたんと振った。
それから、わたしが寝間着のボタンに手をかけたとたん、すっと窓辺から降りて、とことこと扉のほうへ歩いていった。前足で扉を押し開けて廊下に出ていく。
ぱたん。
わたしはボタンに手をかけたまま、閉まった扉を見つめた。
「……やっぱり、出ていくんだ」
ゆうべだけの偶然ではなかったらしい。
着替えて扉を開けると、クロは廊下の壁のほうを向いて座っていた。わたしの足音を聞くと、振り返って、何事もなかったように「にゃ」と短く鳴いた。
はじめて聞く、クロの鳴き声だった。少し低くて、短くて、なんだか、ぶっきらぼうだった。
一階に下りて店の支度をした。
かまどに火を入れてやかんを掛ける。窓の板戸を外して朝の光を入れる。天井から吊るした薬草の束を一つずつ指でつまんで乾き具合を確かめる。カモミールはもう使える。ミントはあと二日。
クロはわたしのうしろをついてきた。三本の足でとことこと。わたしが止まると止まって歩くと歩く。
「ついてこなくても、どこにも行かないよ」
かまどの前でしゃがむと、クロは、わたしの足もとにちょこんと座った。
ライ麦のパンを切って、昨日の残りの豆のスープを温めながら、わたしはクロに話しかけた。
「今日はね、パン屋のマーガレットさんの旦那さんが、また二日酔いの薬を取りに来るの。毎週だよ、毎週。それから、鍛冶屋の親方の火傷の軟膏。午後は裏の薬草畑の草むしり」
ふり返ると、クロは、わたしの顔を見上げていた。金色の目がまばたきもせずにわたしを追っていた。
「……聞いてくれてるの?」
クロは答えるかわりに、わたしの足首に、ぽすんと頭を押しつけた。
スープを小皿に冷まして置くと、クロは匂いを嗅いでから、ゆっくり舐めた。耳がぴくぴく動いていた。おいしい、と言っているみたいだった。
朝ごはんのあと、裏庭に、木箱に砂を入れた猫用のトイレを置いた。
クロはそれをじっと見下ろした。
それから、くるりと背を向けて、裏庭の奥の、植え込みの陰のほうへ歩いていった。しばらくして戻ってくると、前足に少しだけ土がついていた。植え込みの陰の土に、きれいにならした跡があった。
「……砂の箱、使わないの?」
クロはぷいっと横を向いた。
まるで、そんなものは使えない、と言っているみたいだった。猫のくせに。
「おや、コレットちゃん。その子、どうしたんだい」
朝いちばんのお客さんは、向かいのパン屋のマーガレットさんだった。
六十を過ぎた、ふくよかなおばさん。いつも白いエプロンに、ほんのりと小麦粉がついている。母が生きていたころからの常連で、母が亡くなったあとも、何かと世話を焼いてくれる人だ。
「ゆうべ、雨の路地で拾ったんです。足をけがしてて」
「へえ、黒猫かい。縁起がいいねえ。……おや」
マーガレットさんが、カウンターの上を見て目を丸くした。
クロがカウンターの端に座っていた。いつのまにか、跳び乗ったらしい。前足を揃えて、背筋をぴんと伸ばして、金色の目で、じっとマーガレットさんを見ていた。
「なんだか、見張られてる気がするねえ」
「わたしのこと、守ってくれてるんです。たぶん」
「へえ。番犬ならぬ、番猫かい」
マーガレットさんが笑うと、クロは少しだけ得意そうに尻尾をぴんと立てた。
その日、クロは一日じゅうカウンターの端に座っていた。
お客さんが入ってくるたびに、金色の目でじっと見る。おばあちゃんや子どもには、すぐに目をそらして尻尾をゆったり揺らす。でもお昼過ぎに、近所の大工の若い衆がやってきたときは違った。
「コレットちゃん、今日もかわいいねえ。今度の休み、川べりの祭り、一緒に行かない?」
若い衆はカウンターに肘をついて、身を乗り出してきた。ときどきこうして、薬を買うついでに冗談を言っていく人だ。
「行きません。腰痛の湿布、三枚でいいですか?」
「つれないなあ。じゃあ、そのかわりに手を握らせてよ」
若い衆がカウンターの上のわたしの手に手を伸ばした。
その手の甲を黒い前足が、ぺしっと叩いた。
「いてっ」
クロだった。カウンターの端から、音もなく移動してきて、わたしと若い衆のあいだに座っていた。
背中の毛が少しだけ逆立っていた。金色の目が若い衆をにらんでいた。喉の奥から、ううう、と低い声がもれていた。
「な、なんだよ、この猫」
「……すみません。番猫なんです」
わたしは笑いをこらえながら、湿布を三枚、紙に包んで渡した。若い衆は手の甲をさすりながら、すごすごと帰っていった。
扉が閉まると、クロは何事もなかったようにカウンターの端に戻った。前足を揃えて座り直して、ふん、と鼻を鳴らした。
「クロ。今の、焼きもち?」
クロはぷいっと窓の外を向いた。
耳の先がぴくぴく動いていた。
夜になって店を閉めた。
二階の寝室で、着替えようとすると、クロはまた、扉の外に出ていった。もう驚かなかった。三回目だ。
「着替えたよー」
扉を開けると、クロは戻ってきた。それから、窓辺の出窓に跳び乗ってまた窓の外を見はじめた。
「クロ、寝ないの?」
クロは窓の外から目を離さなかった。
わたしは寝台に入った。今夜は毛布をめくっても、クロは首を横にふった。ゆうべ、枕元に来てくれたのは一回だけの特別だったらしい。
少しだけ、さみしかった。
ゆうべ、頬のすぐ横で鳴っていた、ごろごろという音。あれをもう一度聞きたかった。猫に枕元をふられて落ちこむ二十四歳なんて、マーガレットさんに知られたら、きっと一週間は笑われる。
わたしは毛布を鼻の上まで引き上げた。
「……いいもん。今夜はひとりで寝るもん」
窓辺のクロの尻尾が、ぱたん、と一回だけ揺れた。聞こえていたらしい。
灯りを消して、目を閉じかけたとき、窓辺のクロが、ぴくりと体をこわばらせた。
耳がぴんと前に立った。背中の毛がゆっくり逆立っていく。喉の奥から、昼間よりもずっと低い、うなり声がもれた。
「……クロ?」
わたしは毛布を肩にかけたまま、そっと窓辺に近づいた。
窓の外は暗い路地だった。雨は上がっていた。石畳が月明かりに濡れて光っている。
向かいの、パン屋の軒下。
黒い外套の男が一人、立っていた。
頭巾を深くかぶって顔は見えない。ただ、じっと、こちらを見上げていた。この店の、二階の窓を。
わたしの背中に、つめたいものが走った。
男はわたしが窓辺に立ったのに気づいたのか、すっと身をひるがえして、路地の暗がりへ消えていった。
足音は聞こえなかった。
◆ルーク
外套の裾に刺繍が見えた。
月明かりの下、一瞬だけ。銀の糸で縫い取られた、三つ葉の模様。
――宰相家の、従者の外套だ。
喉の奥でうなり声が勝手にもれた。猫の喉は思っているよりずっと正直に鳴る。
あの夜、僕に眠り薬を盛ったのは宰相の手の者だった。呪いをかけたのも。僕が猫の姿で野垂れ死ぬと思っているなら、なぜ、この店を見張る。
――僕が、ここにいると、気づかれたのか。
窓辺で、彼女が毛布を胸に抱えて小さく震えていた。
「……今の人、なんだったんだろう」
言いたい。危ないから、戸締まりを二重にしろと。窓に近づくなと。しばらく店を閉めろと。
口を開けた。
「にゃ」
……出たのはその一声きりだった。
彼女がふっと笑った。
「心配してくれてるの? ありがとう、クロ」
そう言って彼女は僕の頭を撫でた。指先がまだ少し、冷たかった。
僕は窓辺から降りた。
寝台の足元ではなく、扉の前に座った。外から誰かが入ってくるなら、ここを通る。
猫の体は小さい。剣も持てない。それでも、今夜は、眠るつもりはなかった。
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