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第1話 遠足前夜


「結衣、リュックの中身、もう一回確認した?」


 台所から聞こえる母の声に、桜井結衣はリビングのソファの上で広げたリュックサックを見下ろした。雨具、水筒、軍手、救急セット。学校のプリントに書かれていた持ち物はだいたい揃っている。


「したよー。あとはお菓子だけ」


「三百円以内よ」


「わかってるって」


 結衣は苦笑しながら、カウンターの向こうにいる母に向かって答えた。明日は中学二年生の校外学習――学年全体で、隣県の山にある古い神社まで歩くハイキング行事がある。毎年恒例の行事らしく、去年の先輩たちからは「山道がきついだけで、そんなに面白くない」と聞かされていた。


「でもさ、その神社って、なんかいわくつきなんでしょ」


 結衣がそう言うと、母はふきんで手を拭きながらリビングに顔を出した。


「いわくつきって、大げさね。ただ古いだけの神社よ。お母さんも中学の時に行ったもの」


「へえ、意外」


「意外は失礼でしょ」


 母は笑いながら、結衣の隣に腰を下ろした。テーブルの上には、担任の先生が配ったしおりが置かれている。表紙には「校外学習のしおり」という文字と、山と鳥居のイラストが印刷されていた。


「境宮神社、か」


 結衣はしおりを手に取り、表紙をなぞった。名前だけ聞くと、どこにでもありそうな神社だ。だがしおりの中の説明文には、少し気になる一文があった。


『境内の裏手にある祠には絶対に一人で近づかないこと』


「これ、ただの注意書きだよね」


「そりゃそうよ。古い建物は崩れやすいから危ない、ってだけ。変なこと考えないの」


 母の言葉に結衣は素直に頷いた。もっとも明日は班行動だから、一人になることなんてまずないはずだ。それに、もとより結衣はそういう話を怖がるタイプではなかった。むしろ、少し楽しみですらある。


 夕食の後、結衣は自分の部屋で、明日の服装を決めながら、スマートフォンで友人の茉優とメッセージをやり取りしていた。


『結衣、明日どの班だっけ』


『C班! 茉優は?』


『わたしD班……別の班かー』


『山道で合流できるかもよ』


 結衣はそう返信しながら、窓の外を見た。夜空には雲間からわずかに月が覗いている。ごく普通の、平凡な夜だった。翌日、自分の人生が大きく変わってしまうことなど、結衣は微塵も想像していなかった。


     *


 朝、結衣は少し早起きをして、母の作った弁当を鞄に詰めた。玄関で靴を履いていると、リビングから母が顔を出す。


「気をつけてね。班からはぐれないように」


「わかってるって。行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 結衣は玄関を出て、駅までの道を歩いた。通学路沿いの桜並木はもう葉桜になっている。五月の風はまだ少し肌寒かった。


 集合場所の校庭にはすでに大勢の生徒が集まっていた。結衣は同じ班のメンバーを見つけて、小さく手を振った。


「結衣、おはよう」


 声をかけてきたのは、同じ班の田村美咲だった。結衣は笑顔で駆け寄る。


「おはよう。今日、天気よくてよかったね」


「ほんとだよね。山道、暑くなりそう」


 二人が話していると、担任の教師がバスの前で点呼を取り始めた。結衣は自分の班の列に並びながら、しおりに載っていた「境宮神社」の写真をちらりと思い出した。


 石段の先に、古びた鳥居が写っている。裏山に囲まれた、静かな佇まいの神社だった。


「結衣、何見てるの」


 美咲に声をかけられ、結衣は慌ててしおりを閉じた。


「ううん、なんでもない。それより、バス、そろそろ来るかな」


 結衣は空を見上げた。雲一つない青空が、どこまでも広がっている。バスのエンジン音が近づいてくるのを聞きながら、結衣は友人たちと共に、列の先頭へと歩き出した。


第1話 了


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