第21話 王宮の薬草園で、母の植えた木を見つけました
見習いの仕事は朝の水やりから始まった。
井戸から汲んだ水を木の桶で畝まで運ぶ。ラベンダーの畝が十二。セージが八。ローズマリーが六。それから、名前も知らない南の国の薬草が、ガラスの温室の中に、ずらりと並んでいた。
桶は重かった。三往復で腕がぱんぱんになった。下町の店の、小さな裏の畑とは広さがまるで違った。
ほかの見習いは四人いた。合格した五人のうちの、わたし以外の四人。みんな、貴族の家の息子と娘だった。
四人は水やりの桶を従者に運ばせていた。
「あら、首席さん。ご自分で運ばれるの?」
見習いの一人が扇で口もとを隠して笑った。わたしは桶を下ろして汗をぬぐった。
「はい。慣れてますから」
言い返したつもりはなかった。本当に、慣れていた。
扇の娘は少しだけ眉を寄せて、従者を連れて行ってしまった。
ベアトリーチェ様がいなくなっても、わたしが平民であることは変わらなかった。
それでも、薬師長様に「エルミナの娘さん」と呼ばれた朝から三日、何も起きなかった。薬師長様は薬草園には、めったに顔を出さなかった。ときどき、温室の向こうの回廊を白い長衣で通りすぎるのが見えるだけだった。
そのたびに、背中が、ひやりとした。
四日目の朝、いちばん奥の畝まで水を運んだとき、甘酸っぱい匂いがした。
初日にも、かすかに嗅いだ匂いだった。どこから来るのか、ずっと気になっていた。
桶を置いて、匂いのするほうへ歩いた。
薬草園のいちばん外れ。石の塀のきわ。乾燥小屋の裏の、誰も通らない日陰。
そこに、一本の木が立っていた。
わたしの背丈の、倍くらい。濃い緑の、つやつやした葉。枝のあちこちに、黄色い実が、ころんころんとぶら下がっていた。
レモンの木だった。
薬草園には、レモンの木は、この一本しかなかった。周りの畝とも、温室とも、まるで関係のない場所に、ぽつんと一本だけ。
わたしは幹に手を当てた。
ざらりとした樹皮。日陰なのに、ほんのり温かかった。
幹の、わたしの腰くらいの高さに、何かが刻んであった。古い、浅い傷。長い年月で樹皮に埋もれかけていた。
指でなぞった。
小さな、花の印だった。五枚の花びらがくるりと輪になっている。
わたしの心臓がどくんと鳴った。
知っている。この印を知っている。
母が薬の瓶のラベルの隅に、いつも小さく描いていた印だった。自分で作った薬だけに描く印。店の棚の古い瓶には、今でもその印が残っている。
「……お母さん?」
声がかすれた。
「その木に、触るんじゃねえ」
うしろでしゃがれた声がした。
わたしはびくっと振り返った。
小柄なおじいさんが、立っていた。
つばの広い麦わら帽子。泥だらけの前掛け。日に焼けて、くるみの殻みたいにしわだらけの手に、剪定ばさみを握っていた。白いひげが顎の下でぼうぼうに伸びていた。
「す、すみません」
「見習いか。見ねえ顔だな。どこの家の娘だ」
「家はありません。下町の、薬草屋の娘です」
おじいさんの眉がぴくりと動いた。
「平民の見習い? この薬草園に?」
「はい。コレットといいます」
おじいさんは剪定ばさみを下ろして、わたしの顔をじろじろと見た。
それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「その木はな、おれが十八年、一人で世話してきた木だ。薬師院の連中は切り倒せって何べんも言ってきやがった。薬草園に、果物の木なんぞいらねえってな。おれがそのたびに追い返した。だから、勝手に触るんじゃねえ」
「……どうして守ってきたんですか」
訊くと、おじいさんは黙った。
麦わら帽子のつばの下で、目が、レモンの木の上のほうを見上げた。
「約束したからだ。昔、ここにいた娘っ子に。この木を枯らさねえでくれってな」
わたしは息を止めた。
「その人は、栗色の髪で」
おじいさんがゆっくりとこちらを見た。
「笑うと、左の頬にだけ、えくぼができませんでしたか」
剪定ばさみがおじいさんの手から、地面に落ちた。
ざくっ、と、湿った土に刺さった。
おじいさんはわたしの顔を穴があくほど見つめた。泥だらけの手がわなわなと震えていた。
「……笑ってみな」
ハーヴィ様と、同じことを言った。
わたしは笑おうとした。うまく笑えなかった。目の奥が熱くなっていた。それでも、口の端を上げた。
おじいさんの目から、ぽろっと、涙が落ちた。
白いひげに、しずくが引っかかってきらりと光った。
「エルミナの……娘っ子か」
「はい」
「生きてるのか。あの子は。元気なのか」
わたしは首を横にふった。
「五年前の冬に、流行り病で」
おじいさんは何も言わなかった。
レモンの木の幹に、片手をついた。麦わら帽子がずるりと傾いた。肩が小さく震えていた。
しばらくして、おじいさんは、袖で目をごしごしこすった。
「……ウォルターだ。この薬草園の、庭師だ。四十年、ここで土をいじってる」
「ウォルターさん」
「さんはいらねえ。あの子も、ウォルター、ウォルターって呼び捨てだった」
「……じゃあ、ウォルターさん、で。わたしには、まだ、それがちょうどいいです」
ウォルターさんは、ふん、と鼻を鳴らした。白いひげの下で、口の端が、少しだけ動いた。
ウォルターさんは、レモンの木を見上げた。
「この木はな、あの子が植えたんだ。十九で薬師院に来た年の春に。種から育てたって、得意そうに持ってきやがった。薬草園に果物の木を植えるやつがあるかっておれは怒鳴った。あの子は笑ってな」
ウォルターさんの声が、少しだけ、やわらかくなった。
「レモンは、熱を下げて喉を楽にする。何より、いい匂いがする。苦い薬を飲む子どもが、これを嗅いだら、少しは笑うでしょう、ってよ」
わたしの目から、涙がこぼれた。
知っていた。その言葉を知っていた。
下町の店で、母は、子ども用の咳止めに、いつもレモンの皮をひとかけら入れていた。苦い薬を飲む子が、これを嗅いだら、少しは笑うでしょう、と言いながら。
同じ言葉を十八年前、この木の下で言っていた。
わたしはレモンの木の幹に、額をくっつけた。
ざらりとして温かかった。
ここに、母がいた。
しばらく、そうしていた。ウォルターさんは、何も言わずに、落ちた剪定ばさみを拾って、わたしの隣で、レモンの木の下枝を一本だけ切った。
切り口から、すっとした、青い匂いが立った。
「持っていきな」
ウォルターさんは、葉のついた小枝を、ぶっきらぼうにわたしの手に押しつけた。
「あの子の木だ。娘っ子が持ってりゃいい」
昼に、門まで迎えに来たルークに、レモンの木の話をした。
ルークは黙って聞いていた。それから、薬草園の外れのほうを遠い目で見た。
「覚えている。十歳の夏、あの木の下で乳鉢を回した。まだ、今の半分くらいの高さだった」
「ほんとですか」
「青い実が、三つだけ、なっていた。君の母上が一つもいで、僕の手に乗せてくれた。……酸っぱくて泣いた」
わたしはふき出した。
ルークは耳の先を赤くして横を向いた。
◆ルーク
その夜、詰め所の団長室に、バルドウィンが一枚の羊皮紙を持ってきた。
「団長。王宮の侍医からです。内密に、と」
開くと、短く書いてあった。
――フローラ王女殿下、三日前より、昼間にも眠気を訴えられる。夜、寝言で猫のように鳴かれることあり。薬師長閣下が眠り薬を処方。お耳に入れておきたく。
僕は羊皮紙を握りしめた。
フローラ殿下。陛下の末の姫君。十になられたばかりだ。
猫のように、鳴く。
胸の奥の黒い根が、どくりと疼いた。あの夜の僕と、同じだ。呪いをかけられた夜から、喉の奥で、勝手に猫の声が鳴りはじめた。
そして、処方しているのは薬師長だ。
「バルドウィン。明日、殿下に目通りを願い出る」
「団長お一人で?」
僕は少し考えた。
殿下は人見知りが激しい。騎士団長が一人で行っても、口をきいてはくださらないだろう。
十歳の僕がそうだったように。
「……薬草園の見習いを一人、連れていく」




