第20話 見習い薬師コレット、王宮へ
薬師長様は眼鏡をかけなおすと、ゆっくりと立ち上がった。
それから、机の上の三つの包みを順番に、指先でなぞった。毒草の包み。手袋。小瓶。
「ハーヴィ殿。審問の結果を申し上げましょう」
穏やかな声だった。少しも揺れていなかった。
「ベアトリーチェ・ヴァンダイク。王宮薬師試験において、他の受験者の材料に毒草を混ぜさせ、香油に毒を加えた。よって今年の試験は失格。向こう五年、受験を禁ず。王宮への出入りを禁じ、ヴァンダイク家の領地にて謹慎とする」
部屋の中がしんと静まった。
ベアトリーチェ様が、目を見開いた。
「……お父様?」
「副院長。あなたは試験官の身でありながら、受験者の材料のすり替えに手を貸した。本日をもって薬師院を去りなさい」
副院長が椅子から崩れ落ちた。床に膝をついて、何か言おうとした。薬師長様はそちらを見もしなかった。
「お父様!」
ベアトリーチェ様が、机に駆け寄った。机の縁に両手をついて、薬師長様を見上げた。涙で、巻き髪が頬に張りついていた。
「お父様が、おっしゃったのでしょう! あの娘を受からせてはならない、と! 小瓶も、お父様の棚から、お父様が取りなさいと――」
「ベアトリーチェ」
薬師長様が娘の名前を呼んだ。
やさしい声だった。御前会議のとき、わたしの見立てを「正しい」と言ってくれたのと、まったく同じ、やさしい声。
「私はそんなことを言った覚えはない」
ベアトリーチェ様の口が、開いたまま、止まった。
「おまえは、昔から、思いこみの強い子だった。私の言葉を勝手に取り違えて勝手に罪を犯した。父として恥ずかしく思う」
薬師長様は娘から目をそらして扉のほうへ手を振った。
「衛兵。この娘を連れていきなさい」
衛兵が二人、部屋に入ってきた。ベアトリーチェ様の両腕を取った。
「お父様! お父様、待ってお父様っ」
ベアトリーチェ様は、引きずられながら、何度も振り返った。白い手袋の片方だけの手を父親のほうへ伸ばしていた。
薬師長様は一度も振り返らなかった。眼鏡の奥の目はもう、机の上の書類に落ちていた。
扉が閉まった。
廊下の向こうで、ベアトリーチェ様の泣き声が、だんだん小さくなっていった。
わたしは机の端を握りしめていた。
すっとする、と思っていた。あんなに笑われて、草をちぎって煮る、と言われて毒を盛られかけて。いい気味だ、と思えると思っていた。
思えなかった。
背中に、冷たい汗が、じっとりとにじんでいた。
あの人は自分の娘を紙くずみたいに捨てた。眉ひとつ動かさずに。やさしい声のままで。
「では、コレット殿」
薬師長様がこちらを向いた。
にこりと、目尻のしわが深くなった。
「首席の合格、おめでとうございます。明日から、見習い薬師として、王宮の薬草園に来ていただきます。歓迎いたしますよ」
わたしは頭を下げた。
頭を下げながら、指先の震えが、止まらなかった。
ハーヴィ様が机の端から、わたしをじっと見ていた。白い眉の下で、灰色の目が、何かを言いたそうに揺れていた。
でも、ハーヴィ様は、何も言わなかった。ただ、骨ばった指で、机の上の空いた場所を、とん、とん、と二回叩いた。
気をつけなさい。
そう言われた気がした。
審問の部屋を出て、薬師院の石段を下りたところで膝から力が抜けた。
ルークがわたしの腕をつかんで支えた。
「……すみません」
「謝るな」
ルークはわたしを石段の端に座らせて隣に腰を下ろした。紺色の外套がわたしの肩にかけられた。
しばらく、どちらも黙っていた。
薬師院の中庭に、昼の光が差していた。石の囲いの中の月光草は、つぼみを固く閉じて、ただの細い緑の茎に戻っていた。
「受かったのに」
ぽつりと、こぼれた。
「首席なのに。ずっと夢だったのに。ちっとも、うれしくないんです。……ベアトリーチェ様の、あの声が耳から離れなくて」
お父様、お父様、と。
わたしは膝を抱えた。
「わたし、ひどいですか。あの人に、ひどいことされたのに」
「ひどくない」
ルークは前を向いたまま言った。
「君は薬師だ。誰かが苦しむ声を聞いて、平気でいられる人間は、薬師にならないほうがいい」
わたしはルークの横を見上げた。
ルークの手がわたしの手を探して膝の上で重なった。
「僕は君のそういうところが」
言いかけてルークは口を閉じた。
耳の先が赤くなっていた。
「……そういうところが、何ですか」
「何でもない」
「言いかけてやめないでください」
「君が、王宮の薬師になったら、言う」
「なりました。今日」
ルークがゆっくりとこちらを向いた。
「見習い、だろう」
「見習いも、薬師です。ハーヴィ様がそう言ってました」
ルークの金色の目がまんまるになった。
それから、ふいっと、横を向いた。猫のときと、まったく同じ角度で。
「……見習いが取れたら、言う」
「ずるいです、ルーク」
言ってから、自分で気づいた。様を、つけなかった。昼間の、人の目のある石段で。
ルークの耳の先が、首まで赤くなった。
「……もう一度」
「言いません」
思わず笑ってしまった。笑ったら、胸の奥の冷たいものが、少しだけ溶けた。
ルークも、口の端を少しだけ上げていた。
次の朝、わたしは、白い見習いの長衣を着て王宮の東の門をくぐった。
ルークが門の前まで送ってくれた。一番窯のパンを二つ持って。マーガレットさんが、どうしても持っていけと言って聞かなかった、干しイチジクの包みも。
「昼に、迎えに来る」
「お仕事は」
「昼は、休みだ」
当たり前のように言って、ルークは、わたしの長衣の襟を指先で直した。
それから、門番に聞こえないくらいの小さな声で言った。
「何かあったら、すぐに呼べ。薬草園の生け垣の陰でもいい。僕は昔、そこによく隠れていた」
わたしはうなずいた。
門をくぐって白い石の道を歩いた。
道の両側に、生け垣が続いていた。その向こうから、薬草の匂いがした。ラベンダー。セージ。ローズマリー。それから、どこか懐かしい、甘酸っぱい匂い。
生け垣が切れたところに、広い薬草園が広がっていた。
何十という畝。ガラスの温室。井戸。乾燥小屋。白い長衣の薬師たちが、朝露の中で籠を抱えて歩いていた。
ここで母が働いていた。十八年前に。首席の薬師として。
胸の奥がきゅうっと熱くなった。
「おはようございます、コレット殿」
うしろから、穏やかな声がした。
振り返ると、薬師長様が立っていた。白い長衣。丸い眼鏡。朝の光の中で、目尻のしわが、やさしく笑っていた。
娘を捨てた、翌朝だった。
「ようこそ、王宮の薬草園へ」
薬師長様は一歩、わたしに近づいた。眼鏡の奥の目がわたしの左の頬をじっと見た。
「やはり、似ておられる」
わたしの背中が凍りついた。
「笑うと、左の頬にだけ、えくぼができるのでしょう。……あなたのお母上も、そうでしたね、エルミナの娘さん」
◆ルーク
昼、薬草園の門で待っていると、彼女が出てきた。
白い長衣の袖を両手でぎゅっと握りしめていた。
僕を見つけるなり、小走りに寄ってきて、何も言わずに、僕の外套の端をつかんだ。
指が冷たかった。
「……薬師長様が、母の名前を知っていました」
かすれた声だった。
僕は彼女の手を外套ごと握った。
文書庫の、切り取られたページ。十八年前、首席の薬師の名だけが消えた名簿。
あの男は隠すのをやめたのだ。
審問の部屋で、僕の手首を見て笑ったときから。
――おまえたちのことは、全部知っている。
そう言われたのと、同じだ。
見上げると、昼の空に、白い月が薄く浮かんでいた。昨日より少し欠けている。
次の満月まであと二十五日。
薬草園の生け垣の向こうで、誰かが、こちらを見ている気がした。
僕は彼女を背中にかばうように、半歩、前に出た。




