第19話 すり替えたのは誰ですか
審問の部屋は薬師院の三階の、いちばん奥にあった。
窓の少ない、細長い部屋だった。壁一面の棚に、古い薬の瓶が並んでいた。ラベルが黄ばんで、中身が何なのか、もう分からないものもあった。部屋の真ん中に長い樫の机。
机の奥の、背の高い椅子に、薬師長ロレンツォ様が座っていた。
白い長衣。丸い眼鏡。柔らかそうな茶色の髪。御前会議のときと同じ、やさしいしわのある目尻。
その右に副院長。左にハーヴィ様。
机のこちら側にわたしが立った。少し離れて、ベアトリーチェ様と、侍女が二人。
部屋の扉の脇に、ルークが、腕を組んで立っていた。
目が合った。ルークは、何も言わなかった。ただ、組んだ腕の右の指先を、一回だけ、とん、と動かした。
猫のときに、前足で羊皮紙の「はい」を叩いたのと、同じ動き方だった。
わたしは、小さく息を吐いた。
「では始めましょう」
薬師長様が穏やかな声で言った。
「わが娘ベアトリーチェは、最終実技の夜、調合室で黒猫に襲われ、手に傷を負い、香油を提出できなかったと申しております。その猫は二十一番、コレット殿の猫であると」
薬師長様がわたしを見た。眼鏡の奥の目がにこりと細くなった。
「コレット殿。あの猫はあなたの猫ですか」
「……はい」
声が少しかすれた。
「では、あなたが猫に命じて娘を襲わせたのですか」
「いいえ」
「では、なぜ、猫が娘を襲ったのでしょう」
わたしは鞄の取っ手を握りしめた。
膝が震えていた。でも、ここで黙ったら、全部終わる。
「娘さんが、わたしの香油に、毒を入れていたからです」
部屋の空気がぴんと張りつめた。
ベアトリーチェ様が、甲高く笑った。
「まあ。なんてひどい言いがかり」
「証拠が、あります」
わたしは鞄から、紙の包みを三つ取り出して樫の机の上に並べた。
一つ目を開いた。
「実技試験のとき、わたしの盆にだけ入っていた、イヌハッカとキツネノテブクロです。薬師院の札がついたままです」
二つ目を開いた。白い手袋。指先が琥珀色に染みていた。
「最終実技の夜、猫が、娘さんの手から、くわえて逃げた手袋です。指先から、ヨルガオの匂いがします」
三つ目を開いた。ガラスの小瓶。
「同じ夜、わたしの作業台の下に落ちていた小瓶です。封蝋は薬師院の印。中身はヨルガオの汁です。御前会議で、宰相様の小瓶から嗅いだのと、同じ匂いがします」
副院長が椅子の上で身じろぎした。
ハーヴィ様が白い眉を寄せて手袋を取り上げた。鼻に近づけた。それから、小瓶のふたを開けて同じように嗅いだ。
しわだらけの手が止まった。
「……間違いない。ヨルガオだ」
ハーヴィ様は小瓶を机に置いて、じっと見下ろした。
「この粉のひき方。わしは知っておる」
しわがれた声が低くなった。
「これほど細かくひけるのは、薬師院でも、ほんの数人だ」
机の奥で、薬師長様の指が、樫の板を、こつ、と一度だけ鳴らした。
「そんなもの、誰でも、後から作れますわ!」
ベアトリーチェ様が、一歩、前に出た。
「わたくしの手袋を盗んで、汁を染みこませただけかもしれません。平民の娘なら、そのくらいのこと、平気でしますわ」
「そうだ」
副院長が低い声で続いた。
「第一、ヨルガオを混ぜたところを誰が見た。この娘は中庭にいたはずだ。見てもいないことをどうして言える」
わたしは言葉に詰まった。
見ていない。見ていたのは黒猫だけだ。
黒猫はうなずくことしかできない。審問の部屋で、猫にうなずかせるわけにはいかない。
喉の奥がからからに乾いた。
「僕が、見た」
低い声が部屋に響いた。
扉の脇から、ルークが、一歩前に出ていた。
「最終実技の夜。調合室で。ベアトリーチェ嬢が、コレットの香油の小鉢に、その小瓶の汁を傾けるのをこの目で見た」
部屋が静まりかえった。
ベアトリーチェ様の唇が、わなわなと震えた。
「う、嘘ですわ」
「騎士は嘘をつかない」
「嘘ですわ! だって、あのとき、調合室には、誰もいませんでしたもの!」
ベアトリーチェ様が、叫んだ。
「受験者はみんな中庭に出ていて、副院長様も外にいらして、部屋の中には、わたくし一人しか――」
言葉がそこでぷつりと切れた。
ベアトリーチェ様の手が自分の口を押さえた。
部屋じゅうの目がベアトリーチェ様に向いた。
「……一人しか、いなかった」
ハーヴィ様がしわがれた声でゆっくりとくり返した。
「休みの十五分、受験者は全員、中庭で待てと言われた。そなたはその十五分、調合室に、一人でいたのだな」
ベアトリーチェ様は答えなかった。
口を押さえた白い指先が、小刻みに震えはじめた。
「あ……あの、わたくしは手袋を取りに」
「手袋は、猫がくわえて逃げたはずだが」
ルークが静かに言った。
そのとき、ベアトリーチェ様のうしろで、侍女の一人が、床に崩れるように膝をついた。
「お、お許しください!」
若い侍女だった。肩ががたがたと震えていた。
「わたくしが、温室から、イヌハッカとキツネノテブクロを摘んでまいりました。お嬢様に言われて。実技の朝、副院長様が、あの娘の盆にだけ、それを」
「黙りなさい!」
ベアトリーチェ様の声が裏返った。
でも、侍女は止まらなかった。泣きながら、全部、話した。夜中の温室。籠に摘んだ毒草。ヨルガオの小瓶は、お嬢様が、お父様の調合室の棚から持ち出したこと。
副院長が椅子から腰を浮かせた。こめかみから、汗が一筋、流れ落ちた。
わたしは机の端を握りしめて立っていた。
足の震えは止まっていた。
かわりに、胸の奥が、しんと冷えていた。怒りよりも、もっと冷たいものだった。
七つの子どもに飲ませる薬に毒を入れさせた。眠りを助ける香油に、目を覚まさなくなる汁を混ぜた。
薬を人を傷つける道具にした。
母がいちばん嫌ったことだった。
わたしはベアトリーチェ様を見た。
蜂蜜色の巻き髪が、乱れていた。包帯を巻いた右手を、左手でぎゅっと握りしめていた。受付で、わたしの推薦状をひらひらと振っていた人と、同じ人とは思えなかった。
この人も、薬を学んできたはずだった。十年以上、貴族の家で。
その十年で、誰も、教えてくれなかったのだろうか。薬は飲む人のために作るものだと。
「お父様」
ベアトリーチェ様が、机の奥を振り返った。
涙で白い頬が濡れていた。
「お父様、なんとかおっしゃって。お父様がおっしゃったのでしょう。あの娘を試験に受からせてはならないと」
部屋じゅうが薬師長様を見た。
薬師長様は眼鏡を外して、白い布でゆっくりと拭いていた。
◆ルーク
薬師長は眼鏡を拭きながら、一度も娘を見なかった。
それから、眼鏡をかけなおして僕を見た。
ほんの一瞬。
眼鏡の奥の目が僕の顔から、僕の左の手首に下りた。袖の下の、まっすぐな傷あとのあたりに。
それから、ゆっくりと、口の端を上げた。
――知っている。
この男は知っている。あの夜、調合室に人の姿の騎士団長がいなかったことを。いたのは黒猫一匹だったことを。
そして、その黒猫が、誰なのかを。
騎士団長が満月の夜に何になるのかを。
呪術師に呪いの材料を流した者でなければ、知りようのないことを。
僕の指が剣の柄にかかった。
薬師長はそれを見ても、笑みを崩さなかった。
「娘が、取り乱しておりますな」
穏やかな声だった。
「どうやら、私は、育て方を誤ったようです」
僕は、剣の柄から、ゆっくりと指を離した。ここで抜けば、負けるのはこちらだ。
あの男は、それを分かっていて、笑っている。




