第18話 合格発表の掲示板の前で
七枚の花びらを手のひらにのせて調合室に戻った。
部屋の中はしんとしていた。ほかの受験者たちはまだ中庭にいた。副院長の姿もなかった。
わたしの作業台の下に黒猫が座っていた。
前足のあいだに、何かを抱えこんでいた。月の光がそれをちらりと照らした。ガラスの小瓶。琥珀色の、濁った汁。
黒猫はわたしを見上げて、小瓶を前足で、すっとわたしのほうへ押しだした。
わたしはしゃがみこんだ。
小瓶の封蝋に、乳鉢と乳棒の紋が押してあった。薬師院の印だった。
「……これ、守ってくれてたの?」
黒猫はうなずいた。
それから、ふん、と鼻を鳴らして、調合室の扉のほうをにらんだ。背中の毛がまだ少し逆立っていた。
誰かがこれを取りに来たのだ。そして、この子に追い返された。
わたしはポケットから紙を出して、小瓶と、白い手袋をいっしょに包んだ。それから、実技試験の日に取っておいた、イヌハッカとキツネノテブクロの包みと並べて鞄のいちばん奥にしまった。
手が震えていた。
でも、今は震えている時間はなかった。
作業台の前に立った。新しい小鉢に、オリーブの油を注いだ。月光草の花びらを一枚ずつ、すり、すり、と潰していった。
黒猫は作業台の端に跳び乗って、わたしの手もとをじっと見ていた。窓から差しこむ月の光の中で、金色の目が、ずっと、わたしを見ていた。
一人じゃない。
そう思ったら、指の震えが、すうっと止まった。
潰した花びらを、油に沈めた。ラベンダーを一本、カモミールをひとつまみ。小鉢を焜炉の端の、ほんのり温かいところに置いた。熱すぎると、月光草の匂いが飛んでしまう。
待つあいだ、わたしは、黒猫の背中に、そっと手を置いた。
「詰め所の地下に、籠もってるんじゃなかったの」
黒猫はふいっと横を向いた。
「また、窓の格子、こじ開けてきたの?」
尻尾の先がぴくりと動いた。
「……ヨストさんに、怒られるよ」
黒猫はわたしの手のひらの下で、喉を、小さくごろごろと鳴らした。
怒られてもいい、と言われた気がした。
夜明けの鐘の、少し前。
わたしは香油の小瓶にふたをした。ほのかに青く光る油。カモミールとラベンダーと、月光草の、やさしい匂い。
ふと、窓の外を見た。
東の空がほんの少しだけ、白みはじめていた。
――夜明け。
わたしははっとして作業台の端を見た。
黒猫も窓の外を見ていた。それから、わたしを見た。耳がぴんと立っていた。
夜明けに呪いが解ける。人の姿に戻る。何も着ていない、人の姿に。
この調合室の、ど真ん中で。
「い、行って! 早く!」
小声で叫ぶと、黒猫は、弾かれたように窓に跳びついた。窓の縁から、一度だけ振り返ってわたしの顔を見た。
金色の目がほんの少しだけ、細くなった。
それから、黒い影が、窓の外の暗がりに消えた。
夜明けの鐘が鳴った。
合格発表は三日後の朝だった。
薬師院の門の前の掲示板に、人だかりができていた。受験者だけでなく、その家の人たちや、従者や、侍女たち。きらびやかな服の人たちが、背伸びをして掲示板をのぞきこんでいた。
わたしは人だかりのいちばん後ろで足を止めた。
足が前に出なかった。
減点された。盆の材料以外のものを入れた。最終実技では小鉢を割られた。花びらを摘みなおした。規則違反だと言われるかもしれない。
落ちていたら。
ルークの名前と、陛下の名前の推薦状。ハーヴィ様の、骨ばった手。母の、乳鉢。
全部、無駄にしたら。
「行かないのか」
隣で低い声がした。
ルークだった。いつのまにか、わたしの隣に立っていた。紺色の外套に一番窯のパンの包み。
「……こわいんです」
正直に言った。
ルークは少し黙っていた。それから、わたしの手を取った。大きな手のひらが、わたしの冷たい指をすっぽりと包んだ。
「僕もこわい」
「ルーク様が?」
「君が落ちていたら、陛下の前で薬師院の門を蹴り破る」
「やめてください」
思わず、笑ってしまった。
笑ったら、足が、一歩前に出た。
ルークに手を引かれて人だかりのあいだを抜けた。人々が騎士団長の外套を見て左右に道をあけた。
掲示板の前に出た。
合格者、五名。
いちばん上に、大きく書かれた番号を見てわたしは息を止めた。
――首席、二十一番。
二十一番。
わたしの番号だった。
何度見ても、二十一番だった。目をこすっても、二十一番だった。
その下に、小さく、試験官の評が書き添えてあった。ハーヴィ様の、震える字だった。
――盆の毒草二種を見抜き、これを用いず。三日眠れぬ子のため、自らの判断でカモミールを加う。最終実技にて、香油に混ぜられたヨルガオを嗅ぎ分け、夜明けまでに作りなおす。薬は課題のために作るにあらず、飲む者のために作るもの。首席に推す。
文字がにじんだ。
ぽたり、と、涙が石畳に落ちた。
「……受かった」
声にならなかった。
ルークの手がわたしの手をぎゅっと握った。痛いくらいに。
見上げると、ルークは、掲示板を見ていなかった。わたしを見ていた。金色の目が少しだけ、赤かった。
――君が、王宮の薬師になったら。その時に、もう一度、ちゃんと言う。
あの回廊の言葉を思い出した。
頬がかあっと熱くなった。
ルークも、同じことを思い出したのかもしれない。耳の先が首まで真っ赤になった。
「コ、コレット。その」
「あ、あの、ルーク様」
二人の声がまた重なった。
そのとき、人だかりの前のほうで悲鳴が上がった。
「嘘ですわ!」
ベアトリーチェ様だった。
掲示板の前で、桃色のドレスの裾をつかんで立ちつくしていた。
合格者五名の中に、ベアトリーチェ様の番号はなかった。
六番目に、小さく、補欠と書かれた欄があった。そこに、ベアトリーチェ様の番号が、一つだけ書いてあった。
「最終実技を提出できなかったからですって? あれはあの猫のせいですわ! あの汚い黒猫が、わたくしに飛びかかってきて手を傷つけて!」
ベアトリーチェ様が、振り返った。人だかりのあいだから、まっすぐにわたしを指さした。
右手の甲に、白い包帯が巻いてあった。
「あの娘の猫ですわ! あの娘が、自分で言いましたもの。わたくしの猫です、と。平民の娘が猫を使って受験者を襲わせたのです!」
人だかりがざわっと揺れた。
何十という目がいっせいにわたしに向いた。
ベアトリーチェ様のうしろに副院長が立っていた。冷たい目でわたしを見下ろしていた。
「この件は明日、薬師長閣下の御前で審問とする。二十一番の首席はそれまで預かりだ」
◆ルーク
首席、預かり。
彼女の指が僕の手の中で、冷たくなっていくのが分かった。
さっきまで、掲示板の前で泣いていた指だ。受かった、と、声にならない声で言った指だ。
あの娘はまだ気づいていない。
自分で言ってしまったことに。
――あの汚い黒猫が、わたくしに飛びかかってきて。
あの十五分、受験者は全員、中庭にいたはずだ。調合室にいたのは彼女の作業台の前で小瓶を傾けていた、あの娘一人だけだ。
明日の審問で、それをあの娘の口から、もう一度言わせる。
僕は彼女の手をもう一度、強く握った。
「明日、僕も行く」
彼女が僕を見上げた。
「……猫のことを訊かれたら」
「訊かれたら、答える。騎士は嘘をつかない」
彼女の目がまんまるになった。
大丈夫だ。嘘はつかない。
ただ、全部は言わない。
彼女の指が、僕の手の中で、ほんの少しだけ、握り返してきた。思ったよりも、ずっと強い力だった。




