第17話 満月の試験会場に、黒猫が一匹
最終実技の夜、薬師院の中庭に篝火が焚かれていた。
空はまだ暗い青だった。東の城壁の上がほんのりと白くなりはじめている。もうすぐ、月が昇る。
中庭の真ん中に低い石の囲いがあって、その中に、細い緑の茎が、何十本も並んでいた。つぼみは小指の先ほど。固く閉じていた。
月光草。
満月の光を浴びたときだけ、ひと晩だけ、白い花を開く。花びらを摘んで、夜明けまでに調合しないと、ただの枯れ草になる。
受験者は八人に減っていた。実技で四人が落ちた。わたしはぎりぎりで残った。盆の材料以外のものを入れたから減点された、と言われた。
それでも残った。
わたしは篝火の明かりの中で、自分の手のひらを見下ろした。震えていた。寒さのせいだけではなかった。
――ルーク。
今ごろ、どこにいるんだろう。
ゆうべ、ルークは言った。満月の夜は詰め所の地下に籠もる。ヨストに鍵をかけさせる。だから、明日は君のそばにいられない、と。
「大丈夫です」と答えた。笑って。
大丈夫じゃなかった。
一人で受付に行きたい、と言ったのはわたしだった。それなのに、今夜、ルークがいないと思うと、喉の奥が、ひりひりした。
東の城壁の上に白い光がのぞいた。
まんまるの月がゆっくりと昇ってきた。
中庭じゅうから、ため息のような声が上がった。
石の囲いの中で、月光草のつぼみが、いっせいに震えた。月の光が茎の先に届いた。つぼみの先がほろりとほどけた。
白い花びらが一枚、また一枚と開いていった。小さな、透きとおるような花。花びらのふちが月の光を吸いこんでほのかに青く光っていた。
息を呑んだ。
――月のしずくを、三つぶ落として。白い花びら、七つ数えて。
母の子守唄が頭の中で鳴った。
白い花びら。この花のことだったんだろうか。まさか。
「最終実技を始める」
副院長の声が中庭に響いた。
「月光草の花びらを七枚摘み、調合室に戻って眠りを助ける香油を作れ。夜明けの鐘までに提出。始め」
七枚。
わたしは石の囲いの前にしゃがんだ。白い花びらを一枚ずつ、指先でそっと摘んだ。冷たくて絹みたいに柔らかかった。
一、二、三、四、五、六、七。
手のひらの上で、七枚の花びらが、月の光を受けて光っていた。
ほかの受験者たちも、囲いのまわりにしゃがんでいた。誰も、しゃべらなかった。花びらを摘む指先だけが、月明かりの中で白く動いていた。
ベアトリーチェ様が、わたしの二つ隣で花びらを摘んでいた。白い手袋の指が少しだけ震えていた。
目が合った。
ベアトリーチェ様は、すぐに目をそらした。今夜は笑わなかった。
調合室に戻って作業台の前に立った。
今日の盆の中身は自分で確かめた。全部、本物だった。オリーブの油。ラベンダー。カモミール。それから、ガラスの小瓶。
月光草の花びらを乳鉢でそっと潰しはじめた。ごり、ごり、ではなく、すり、すり、と。花びらを傷めないように。
ふと、窓の外で何かが動いた。
顔を上げた。
高い窓の、外側の縁に、黒いものが座っていた。
月の光を背にして、前足を揃えて背筋をぴんと伸ばして。
金色の目が二つ。
わたしの手から、乳棒が落ちそうになった。
――クロ。
詰め所の地下に、籠もっているはずなのに。
黒猫は窓の縁から、わたしの顔をじっと見下ろしていた。それから、ほんの少しだけ、首をかしげた。
大丈夫か、と訊かれた気がした。
喉の奥の、ひりひりが、すうっと消えた。
わたしは誰にも見えないように小さくうなずいた。
黒猫はふいっと窓の縁から姿を消した。
一時間ほどたったころ、副院長が手を叩いた。
「花びらを油に漬けるあいだ、十五分の休みを与える。調合室を出て中庭で待て」
受験者たちがぞろぞろと部屋を出ていった。わたしも作業台の上に、花びらを漬けた油の小鉢を残して中庭に出た。
篝火の前で手をこすりあわせた。
ふと、気づいた。
ベアトリーチェ様が、いなかった。
中庭に出てきた受験者の中に、あの蜂蜜色の巻き髪が見当たらない。
胸がざわっとした。
そのとき、調合室の中から、がしゃん、と何かが割れる音がした。
それから、きゃあ、という甲高い悲鳴。
わたしは駆け出していた。
調合室の扉を開けると、わたしの作業台の上が、めちゃくちゃになっていた。
油の小鉢が床に落ちて割れていた。月光草の花びらが、石の床に散らばっていた。ラベンダーの束が、踏みつけられていた。
そして、作業台の前に、ベアトリーチェ様が、尻もちをついていた。
右手を押さえていた。白い手袋が片方、なくなっていた。むき出しの手の甲に、赤い引っかき傷が三本、走っていた。
「ね、猫が! 汚い黒猫が、いきなり飛びかかってきて!」
ベアトリーチェ様が、高い窓を指さした。
窓の縁に黒猫がいた。
口に、白い手袋をくわえていた。
わたしは床に膝をついた。割れた小鉢のかけらのあいだから、こぼれた油を指先ですくった。
鼻に近づけた。
月光草の、かすかに甘い匂い。オリーブの油。
それから、その奥にほんのかすかに、熟れすぎた果物みたいな、甘い匂い。
――ヨルガオ。
御前会議のときの、あの小瓶と、同じ匂いだった。
眠りを助ける香油に、ヨルガオの汁を混ぜたら。嗅いだ人は眠りを助けられるどころか、二度と目を覚まさないかもしれない。
背中が凍りついた。
副院長がほかの受験者を押しのけて調合室に入ってきた。散らばった花びらと、割れた小鉢と、尻もちをついたベアトリーチェ様と、窓の黒猫を順番に見た。
「二十一番。これはどういうことだ」
「わたしの香油が、割られています。それに中にヨルガオが」
「猫が暴れて割ったのだろう。おまえの猫か」
わたしは窓の上の黒猫を見上げた。
黒猫は白い手袋をくわえたまま、まっすぐわたしを見ていた。
「……はい。わたしの、猫です」
「なら、おまえの責任だ。花びらはもう残っていまい。最終実技はここまでだな」
副院長が口の端で笑った。
わたしは立ち上がった。
月光草はまだ咲いている。月はまだ空の真ん中にもいない。夜明けの鐘までまだ五時間ある。
「中庭の月光草をもう七枚、摘ませてください」
「規則では一人七枚だ」
「では規則のどこに、割られた者はやり直してはならないと書いてありますか」
自分でも驚くような声が出た。
副院長の口がぴたりと閉じた。
調合室の入り口に、いつのまにか、小柄な白髪のおじいさんが立っていた。
ハーヴィ様だった。
「書いてはおらんな」
しわがれた声でハーヴィ様が言った。
「摘んでおいで、エル……いや、二十一番」
◆ルーク
僕が窓の縁に戻ったとき、あの娘は彼女の小鉢の上に小瓶を傾けていた。
琥珀色の、濁った汁。封蝋に、三つ葉ではなく、乳鉢と乳棒の紋。薬師院の印だ。
娘は小さな声でひとりごとを言っていた。
「お父様の、おっしゃるとおりに。……これであの子は終わり。お父様はわたくしを褒めてくださる」
震えた声だった。
僕は窓から飛びこんだ。小鉢を前足で払い落とし、娘の手から小瓶を叩き落とした。小瓶は作業台の下の暗がりに転がっていった。
手袋だけはくわえて逃げた。汁が指先に染みている。
今、手袋は彼女の手にある。小瓶は作業台の下に、まだ転がっているはずだ。
中庭で、彼女が、月光草の前にしゃがんでいる。一枚ずつ、花びらを数えている。
僕は窓の縁から、調合室の中を見張りつづけた。
副院長が誰もいなくなった調合室で、作業台の下に手を伸ばすのが見えた。
――させるか。
僕はもう一度、窓から飛び降りた。




