3話
”夕暮れ”の意味を考えながら駅に向かう。
道の途中に酔って寝転ぶ者が居るのも見慣れた光景だ。
酔った若者達は駅に向かって走る。
電車も家に帰る時間だ。
俺は駅のホームの進行方向とは逆の端まで歩く。
車両内の人数は階段付近から離れる事で減少するからだ。
仕事終わりの弱った俺の心臓はゆっくりとリズムを刻み、
”ただ生きている”事を知らせる為の臓器だったはず。
電車を待つだけの時間。
強い拍動が全身に響き、乾いた背中に汗が流れる。
手の震えに気付いた俺は己の内に問い掛ける。
これは・・・緊張?
慣れ過ぎた日々に奪われた感覚、それとも感情なのか・・・
答えが出る間も無く、スピーカーから割れた音が流れる。
電車に乗り込み、座れる席を探す様な素振りで辺りを見渡す。
席は全て埋まり、立っている人はまばらだ。
少ないながらも立っている人間が多い所を選ぶ。
木を隠すには森だ。
誰も俺には注目していない。
帰りの電車というのは不思議な空間だ。
ここが公共の場である事を忘れさせる。
鼻に指を刺す者、指を舐め本を捲る者。
脇を掻いてから指を鼻に近づける者。
家で寛ぐ無防備な姿を曝け出す。
見えていないのだ、己以外の全てを。
だからこそ、この時が最善なのだ。
訪れた好機を無駄にするな。
この行動の結果が何も生まなかったとしても、
心の中に彷徨う亡霊を残してはいけない。
今日であるべき明確な理由も無い。
本当に無い。
俺は手摺りに掴まった手へゆっくりと顔を近づけた。
顔を掻く為に近づいただけに見え、不自然さは無いはずだ。
車窓から、流れる街の灯りが見える。
暗い鏡がボンヤリと己の姿を映し出す。
滑稽だと笑えばいい。
愚かであると罵ればいい。
有給休暇を取った未来の俺がそれを否定する。
俺が口が半開きになった時。
刹那に感じる強烈な違和感。
身体が一切の動きを止めた。
動作に関する神経を遮断された感覚。
思考から?・・・いや、これは本能からだ。
間違い無い、これは本能からの警告。
俺は視覚情報を頼りに違和感の正体を探す。
視線を動かしてはいけない。
こちらの動きを悟られる。
視点を中心にして俯瞰で捉えるんだ。
焦りと不安で思考が焼かれる前に。
見ている、俺を見ている。
暗い車窓越しに獲物を見据えた獣の様な目が。
隣の優男。
皺の無い高級スーツ、磨かれた靴と煌めく腕時計。
充分過ぎる程、他人との差を見せつけ楽しむ余裕。
金と時間までもを持て余した男が一体何を望んでいるんだ?
そうか、金では買えぬ未知への渇望。
俺の行動がこの男の好奇心の扉を開いてしまった。
だが俺は右手の鞄を網棚に置いた。
空いた手で手摺りの上部を掴めば死角が生まれる。
優男よ、欲望に駆られ隙を見せたな。
深淵を覗き込む時、深淵もまたお前を見ている。
閉じかけた希望がゆっくりと花開く。
だが、夢は余りにも儚く脆い。
勝利を確信した瞬間、俺の手が血に染まる錯覚・・・
いつだ・・・俺の脳はいつ敗北を認めた!?
ああ、そうか・・・最初から終わっていたのだ。
始まってすらいなかったのだと認めざるを得なかった。
鋭い視線が刃の様に突き刺さる。
最初からそこに居たのだ、真に警戒すべき本当の敵が。
女性はずっと俺の前に座っていた。
いや、女性の前に俺が立っていたと言うべきか。
不自然な程高く掲げられたスマホ。
前髪を弄りながら顔の角度が季節の様に移り変わる。
だが、その視線は手元にあるテクノロジーの遥か先を見ている。
右・・・左・・・右・・・左・・・
振り子の様に、黒目が数度に渡り揺れる。
こいつはわざわざ隙を見せつける。
誘っているのか?
本心が見えてこない以上、動くのは蛮勇。
ここで冷静さを欠く奴で、大成した人間を俺は知らない。
そうか、手摺りを掴む手を放せばいい。
左手で視界を遮れば終わりだ。
俺はつい笑みを零した。
電車内にアナウンスが流れる。
駅名が告げられ、一人、また一人と降りていく。
車内の密度が下がり、空いた席が目立ち始めた。
左手を手摺りから放し、腕時計を見る素振り。
下からの視線を完全に遮った。
俺はやったんだ。
幾度の試練に挫けそうにもなった。
だが、それはもう遠い過去の話。
ゴールテープは直ぐそこに見えている。
顔を手摺りに近づけるだけだ。
・・・しっ、しまった、それが狙いだったのか!!
左手を放してしまった事で、
” 鼻を掻く為に顔を手に近づける ” という大義名分を失った。
己の浅はかさに反吐が出る。
焦った俺は左手を手摺りに戻した。
後は ” 女性が席を立つ ” に命運を託すしかない。
静かに揺れる電車は、ゆっくりと時を刻む。
空いた扉から流れ出る人混み、俺はその中に居た。
ああ、認めるよ・・・俺は焦り、そして間違えた。
計画も判断も・・・
俺という敗残兵の背後で、
席を立った女性は優男に媚びた笑顔を見せていた。
この物語の主人公の思考は常軌を逸しております。
影響を受けて公序良俗に反したムーブをぶちかましても、
自己責任となりますのでご注意下さい。
警察の御厄介になるのはさることながら、
素敵な異性に”変態”と認定された場合の精神的苦痛は、
”むしろご褒美なのでは!?”と脳内変換をしてお楽しみ下さい。




