第90話 泣いた後は
不穏な空気は場面を包み、アークロック全体の空気を重くする。
陽向灯里の悩み。空錠鍵斗の失敗。
そして、山田穂火の涙。
三名がそれぞれの曇りを抱えたこの場面で、他に影響されない圧倒的な清涼剤が現れた。
彼の名前は水沢零。
アークロックで最も、嫌われる勇気を持つ男である。
「待てよ、穂火」
零は、教室から走り去った穂火の背中に声をかけた。
山田穂火が摩白祈莉に拒絶されてから、三十分の時が経っていた。
屋上で下を見つめていた穂火を見つけた零は、ポケットに手を入れながらこんなことを言ったんだ。
「摩白祈莉に酷いことを言ったそうだな」
疾坐馬巳鶴経由の噂情報により、零は穂火がしたことを理解している。
ゆえに、彼は調査を諦めてまで穂火のもとに来た。
そんな零に、穂火は顔も見せずにこう返す。
「言ってないもん」
「言っただろ。その内容も雰囲気も、すでに聞いている」
「……」
穂火は何も言わずに、早足で屋上の端っこに向かった。
それを見た零は表情を崩しながらも、こう伝える。
「逃げたって何も変わらないぞ!」
「……っ!」
穂火は、零を見た。
その時の表情を、零は二度と忘れないだろう。
可愛いを捨てた、本気の歪み。
悲しみと怒りが混在した、歪んだ顔。
今にも泣きそうな表情で、眉尻を上げて怒りを見せる。顔のシワが増えて、その姿は鬼のようであった。
だが、零はそれに慄かない。
「穂火、お前が善意でやったことなのはわかる」
一歩近づく零。穂火は退こうとしたが、それに悔しさを覚えてあえて近づいた。
零は喋る口を止めない。その零の美しい髪が、風で揺れた。
「でもな、穂火、お前は強引なんだ。プラネッツと戦った時はそれがいい方に向いたが、いつだってそうなるわけじゃない」
「うるさい」
「穂火、お前は弱いんだ」
「うるさい……!」
「一人じゃ何もできないんだ!」
「うるさいうるさいうるさい!!」
「だから!!」
「……!」
怒りのボルテージが頂点に達した穂火は、床を蹴り上げ零に近づく。そして、本気の拳を零に向けた。
零はそれを、ハンカチ越しに受け止める。
そして、静かにこう言った。
「だから、頼れよ……僕たちを」
穂火の拳は震えていた。だが、そう簡単に割り切れるものではない。
穂火は「ハンカチ越しなら触れられるんだね」と呆れたように皮肉を言いながら、頬に滴を伝わせた。
それは涙ではない。
ポツポツと雨が降り始めた。
ここは屋根のない屋上。穂火と零は雨に濡れながら、想いをぶつけた。
「誰だって触れられるわけじゃない」
「そっか。私は魅力のない女だもんね」
「……そういうことじゃ!」
「零も!」
穂火の大きな声が零の声を止める。穂火はこう続けた。その声は、雨に反比例して勢いを弱め続ける。
「零も、弱っちいよ……。私に触られたら気絶するくせに。なのに、なんで……なんで……受け止められるの?」
雨の音だけが大きくなる。だけど、零は彼女の声を聴き届けた。
だが彼は、配慮などできない人物である。だからこう言う。
「見てられないからだ」
「……!」
「僕には親友はいない。でも……」
零はそっと、腕に付けていた『桃太郎の腕輪』を穂火に見せる。それを見た穂火は、あからさまに動揺した。
『支配のアークリオン』と面と向かって戦った穂火だからこそ、その腕輪の危険性は理解できる。
なぜそれを零が持っている? なぜそれを付けている? なぜ見せた?
あらゆる疑問が穂火の脳を巡るが、それは単純な答えであると、穂火はすぐに気づいた。
零は、こう言う。
「嫌われるのは、辛いよな」
「……零」
穂火の筋肉は緩んでいき、ゆっくりと拳を降ろす。
零はこう続けた。
「僕は、この腕輪に魅入られている。鍵斗先輩に知られたら、嫌われるだろう。それを考えただけで、心が痛む。悲しさで溢れる」
「なんで……」
穂火の動揺をよそに、零はこう伝える。
「だからわかるんだよ。穂火、お前の気持ちが。お前の行動が」
「なんで……」
穂火は、それが受容だと理解しつつも、口ではこう言った。
その儚すぎる自己犠牲精神に、感服しながら。
「なんで、私に言うの? もう、隠せないよ」
「そうだな」
雨に濡れた零は、より一層美しさを増す。対照的に、穂火は髪を濡らし、雨女のように不気味になる。
でも、そんな穂火の顔に直接濡れてない新しいハンカチをぶつけながら、零はこう言った。
「なんでだろうな」
穂火は「ふがっ!」とそのハンカチの勢いに驚きながらも、零の表情をハンカチと髪の間から見た。
それは、なんだか物悲しさを思わせる。
そんな表情を見て、穂火は自身の焦りに気づいた。
祈莉と仲直りする、それが先行しすぎて、あの夜、零と話して気づいたことすら忘れていた。
祈莉はもう、別の場所にいるのだ。
でも、だからって仲直りを諦めるわけじゃない。
事件と同じなんだ。
「ありがとう、零」
頬に雫が伝う。
穂火は、ハンカチをゆっくり奪って、微笑んだ。
気づいたのだ。
仲直りは自分本位ではダメだと。
アークロックで学んだのは、桃木島で学んだのは、伝える勇気。
ただ、話せばいいわけじゃない。想いを伝える必要がある。
事件と同じように、相手を知ることが、伝える第一歩なのだ。
そんな簡単なことに、今更気づいた穂火は、それがおかしくて、笑ってしまう。
その顔を見た零は、安堵したように「まったく」と言った。
そんな零の顔面に、穂火はハンカチを押し当てる。
「……ふが!」
零は零らしくないみっともない声を上げながら、穂火からそのハンカチを急いで奪い取る。
「何すんだ」
静かに怒りながらそう言った零だが、穂火は「仕返しだもん」と返しながら、こう続けた。
「零も大概強引だよね」
「うるさい」
前髪をいじりながら、零はそう返した。そんな零を見て、穂火は微笑む。
そして、「来い」と言った。
ザアザア降る雨の中、天から飛来する一本の槍。
暗い雲を突き進んだそれは、雲に一つの穴を開けた。まるで、台風の目。
穂火と零のいる場所だけが晴れて、空には快晴が広がった。
そして穂火の手の中に、ガキンッッッッッと、槍が収まる。
そう、空から飛来したのは『鬼の槍』。
穂火はそれを掲げながら、「お揃い!」と、慣れない全力の笑顔を見せて言った。
穂火の中二心は、再生する。
もとより山田穂火は、アークロックで最も、再起の力がある女である。
彼女はメンタルが強いわけじゃない、それどころか、繊細なくらいだ。
でも、立ち上がる。
彼女には大切な、仲間がいるから。
「零」
「なんだ?」
「友達」
穂火は少し下がって、零に槍先を向けてこう述べる。
「その、契りだ!」
ニシシと笑った穂火を見て、零は呆れたように「仕方ないな」と言う。だがその顔には、微笑みがあった。
零は『桃太郎の腕輪』を『鬼の槍』の槍先に、カツンッと当てる。
その音は、ダークネスエコー。
山田穂火は、復活する。
そんな穂火に、零は自慢するように言った。
彼が救うのは、穂火だけじゃない。
「それより穂火、聞いてくれ。
一つ事件について分かったことがある。それは……」
零は、自信があるように胸を張って、口角をあげてこう言った。
「昔、イジメがあった。そしてそれは……
容疑者六名、全員が関与していたことなんだ」
「え……」
水沢零。彼は、空錠鍵斗、いや、アークロックの危機すら救う。
ポケットから取り出したメモ用紙を見せて、こう言った。
「つまりこの事件は、二つの事件が重なって出来ていた」
どんより暗い空は、空いた穴から少しずつ晴れていく。
零は、フェンスに背中を預けて、こう言った。
「まだ諦めるなよ、穂火。僕たちの炎は……まだ、
——消えていない」
雨が止んだ空に、虹がかかる。




