第66話 面倒な女
涼しい夜の風が僕の髪を静かに揺らした。
時刻は夜の八時。日付は八月二十四日。
夏休みが終わるまで、残り十日。
そう、僕の名前は水沢零。みんなが、あと七日で夏休みが終わる、と言っていたが、僕は学校が違うので夏休みはあと十日ある。
そこまで大きな違いではないが、それを呟いてしまえば、同じ日に夏休みが始まったのに三日も長いなんてズルだ! と言われかねない。……特に穂火に。
だから言い出せずに困っているのだが、まあ言う必要はないのだろう。
僕はそんなことを思いながら、鍵斗先輩にもらった缶コーヒーを飲みながら、アークロックの基地がある『鍵屋ガッチャン』の壁に背中を預けた。
そして最近買った有線イヤホンをスマホに挿して、音楽を再生する。
夜風に当たりながら、ノイズキャンセリングで音楽を聴いて、缶コーヒーを飲む。
これはどうにも心が憩まった。
ピザでこってりした喉に流し込まれる深い味のコーヒーは、僕の喉を癒してくれる。
ん? なんでピザがここで出てくるんだって?
それはな……先ほどまで今日あったことをまとめる会議をしていたんだが、
終わった直後に、陽向先輩のひょんな一言から出前でピザを頼んで一日お疲れ様会が始まったのだ。
それからは一時間ほどピザを食べながら会話をしていたということだ。
アークロックの空気が明るいのはいいことだけど、僕みたいなタイプはこうやって時々一人にならないと体力が持たない。
それに今日はあの穂火が会話に混じることなく黙々とピザを食べており、一枚を一人で食べていたくらいだ。僕はそれが変に気になって、余計に疲れてしまった。
本当に穂火には振り回される。
でも、楽しそうな鍵斗先輩を見て、僕はなんだか『よかった』って思えたんだ。
だから穂火にも楽しんで欲しいけど、何か悩み事でもあるのか積極性が欠けている。
別に穂火のことなんてどうでもいいけど、それでもなんとなく、心配してしまうんだ。
本当に、出来の悪い妹を持った気分だ。
僕は飲み干した缶コーヒーを自動販売機の横に置かれたゴミ箱に捨て、鍵斗先輩の元に戻ろうとした。
そう、そのために横を向いたら、横には穂火がいた。
「うおっ!?」
僕は急いでイヤホンを外して驚きつつもこう言った。
「いつからそこにいたんだ!?」
「……三分くらい前かな」
穂火は静かに目を逸らしながらそう言った。僕は「じゃあ、声かけろよ」と返す。
しかし穂火は、真っ当にこう意見してきた。
「かけたもん。零が無視したんだもん……」
「……悪いな」
僕はノイズキャンセリングのイヤホンを恨みながらも、前髪をいじる。
だが、これはいい機会だと思い、僕はこう会話を始めた。
「そういや、穂火はなんでここに?」
穂火はちびちびと『振って飲む、ゼリー炭酸飲料!』と書かれた美味しそうな飲み物を飲みながら、こう言う。
「零がいなくなったから、探しに来たの」
その声のトーンは、いつもより数段落ちているように感じる。
ここまでめんどくさいヤツだったか? と思いながらも、僕は静かにこう返した。
「優しいんだな」
「……気づいてるくせに」
「……」
僕は穂火の何かを期待するようなジーっとした目を見て、なんだか面倒に感じ始め、ポケットに手を入れてこう返す。
「何もわからないな」
「……嘘つき」
「……」
穂火は缶を指先でカンカンっと鳴らす。
僕は別に、優しい人間じゃない。目の前で人が倒れても、自力で起き上がれるなら見過ごす人間だ。
だから、先輩方や穂火みたいに、わざわざ手を差し伸べたりはしない。
でも、本当に限界なら……僕は……。
「……なあ、穂火。何かあったのか?」
僕は、先輩方が行けなかった領域にも行ける。
嫌われてもいい、拒否されてもいい、その人が救われるなら、泥だらけの手でも差し伸べる勇気はある。
桃木島でそれを学んだんだ。
例え穂火に嫌われることになっても、ここで行かなきゃ穂火はずっとこのままだ。
嫌われることは慣れているし、僕は容赦なく穂火の弱い部分にも足を踏み入れる。
穂火は、目を逸らして、少し考えながらこんなことを言い始める。
「零はさ……遊んでいる途中に友達が帰っちゃったらどう思う?」
僕は本音で「知らん」と返した。
穂火は呆れたような瞳で僕を見たあと、「なにそれ」と言ってくる。
僕はため息を吐いたあと、こう話し始めた。
「僕には友達はいない。昔から、男は何もしてないのに嫌ってくるタイプと、僕の近くにいる女の子目当てで近づいてくるタイプの二種類しかいなかった。女の子に至っては、僕を異性としか見ない。友達なんてできる環境じゃなかったんだ」
穂火は「へー」と興味なさそうに返してきたあと、こう訊いてくる。
「空錠先輩は違うの?」
「……先輩はなんか違うだろ。仲間で、大切な人だけど、友達とは違う感じがする」
「へー」
僕は、言う気はなかったけど、先ほどから不貞腐れているように会話する穂火にイラついてしまい、軽くこう言った。
「でも、穂火とだけは友達になれそうだなって思っていたんだ。僕を異性として見ないしな」
「……なにそれ」
小さく微笑んだのを、僕は見逃さない。
穂火は面倒臭い女の子じゃない。なのにここまで厄介な姿になっているのは、かなり大きなダメージをくらっているからだ。
ここまで見てしまって見逃すことはできない。
その理由を探るために、僕は弱点を晒した。
「そういうわけだから、わからないんだよ……友達なんて」
「……そうだよね」
「だからさ……」
今日は月が綺麗だ。だんだん満月に近づいていて、多分月末には完璧な満月になるだろう。
そんな月は黄色く光り、この場をキラキラと照らす。
街灯と重なり合うその光は穂火を照らし、その小さな姿を露わにする。
この土の地面は、その光をぐっと受け止めていた。
清らかな空気が流れるこの空間で、僕は彼女にこう言う。
「僕に友達を教えてくれよ、穂火」
「……」
「一人じゃないのがアークロックなんだろ?」
これ以上のことは僕には言えない。でも、それでも……僕は穂火のことを信じているから。
これで充分だと感じられた。
「ゔん……!」
鼻水が混じったような声が聞こえる。
下を向いてプルプルと肩を震わせる穂火の足元は、次第に湿っていく。
僕はそんな彼女の肩に、慰めようと手を置こうとした。
なのに……!!
「触らないでよ!」
「なんで!?」
強く拒否され困惑が極まる。
穂火は落ち着いて、ズズッと鼻水を吸い込みながらこう言った。
「ごめん。でも、今は話を聞いて欲しくて……。ほら、零なら多分私に触れた瞬間に気絶するかなって」
事実である。
僕はおそらく、
大丈夫か、穂火?
と言いながら肩に触れ、二秒後には痙攣して気絶していただろう。
それを防いでくれたのには感謝する。だが……それはそうと、なんで僕は彼女に手を差し出そうとしたのだろうか。
自分でも不思議なくらい、無意識であった。
僕が自分の手を見つめながら疑問に思っていると、穂火はこんなことを言ってくる。
「今日は月が綺麗だね」
「穂火でも綺麗って思うんだな」
「それ、どういう意味?」
「いや、なんでもない」
僕は微笑みながらそう返す。その穂火の声のトーンは、いつものようだった。
穂火はそっと僕に、半歩だけ近づきながらこう言い始める。
「ちょうどいいや。ねえ零……私ね、ある女の子に避けられちゃったの」
「そうか……」
「それでね、その子に出会ったのは今日みたいに月が綺麗な日で……その子はね……私の、私の……
『親友』だったの」
僕は話を聞くために、そっと耳を傾ける。
周りのノイズが少しずつ消えていき、穂火の声だけが耳に残った。
穂火は静かにこう話し始める。
長い長い、読み聞かせが始まった気分だった。
「その子の名前は摩白祈莉。美佐校の生徒だよ」




