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生と死 生か死


 当然、トートの両親は死んでいた。

 この程度のことは十年前にも起きていて、それどころか世界中で起こっていて、別段間を取って言うことでもないのだけれど、それでも一応、一つの現実として記しておかねばならないことではある。

「うぅあ、あ……あ」

 目の前にある、ただの物言わぬ物体となった人を見て唐突に胃の中からせりあがってくるものを感じた。

 すぐに外へと飛び出して民家の壁に胃液をぶちまける。

「はぁっはぁっ――ぅう」

荒い呼吸を繰り返して何とか意識を保とうとする。

 もうやめてくれよ。

 限界だ。いっぱいだ。

 誰か、助けて。

 そう心の中で叫ぶ。泣き叫ぶ。もはやこの村で自分の力になってくれそうな人はいなくなってしまった。この叫びを聞いてくれる人も、慰めてくれる人も。

 すっかり陽が落ちた村の中を、一人でふらふらと歩き始める。半ば引きずるようにして足を運んでいく姿は、まるで生きる屍のように暗く、傍から見ていて近寄り難い空気を出していた。そうでなくとも、ここにいる誰もが、他人を気に掛ける余裕などないのだった。

 そのまま村の門の方へと向かう。夜空に浮かぶ丸い月が、うなだれるエルを淡く照らしてその影を作り出した。月明かりに映る彼の顔は酷く暗く、かつてないほどの絶望を撒き散らす。

 いっそ前のように壊れてしまった方が楽なのではないかと思えるほどに。

 エルはそのまま村の門を出てある場所へと向かう。それが自分の意思なのか、それとも身体が勝手に動いているだけなのか、彼にも分からなかった。

 何故なら脳は全く別のことを考えていたから。いや、考えるというよりも、思い出すと言った方が正確かもしれない。

 思い出されるのは幼いころの記憶。

 エムが連れ去られる瞬間。母の死を見た瞬間。

 現在の記憶。

 トートが奪われる瞬間。彼女の両親の死を見た瞬間。

 しかし彼に取っては、幼いころも現在も、さして体感時間としては変化のないものであったが。

 今はまだ幼いころのような感覚でもある。

 それでも何故か子供の様な雰囲気はなく、現状に対して我儘を振りまくこともない。それは今頭を支配しているどうしようもない、途方もない現実のせいなのだろうか。

 ぐるぐると記憶が巡り、ぐらぐらと心を揺さぶる。

 一歩一歩、今にも転びそうな足取りで進む姿を、あの弟が見たらどう思うだろうか。

 彼のそんな様子を見かねたのか、見ていられなくなったのか、空の月は雲に隠れてしまった。


 北の海岸に着いたとき、足は疲労でがくがくと震え、砂と土で汚れた身体は何度転んだかも分からない。目の前に水平線が広がるころには、あれ以来姿を見せなかった月に替わり、燦々と煌めく太陽が昇っていた。

 昇りきって、もう頂点から下り始めるところでもあった。時刻はおそらく正午を過ぎたあたりだろう。と、ぼんやり思う。

 何の前触れもなく、ガクッと膝を地面に付けた。そのままの勢いに任せて、上半身をも倒れさせる。このまま眠ってしまおうか。こんなところに来るのは村でも俺たちだけだったし、わざわざ探しに来るような人もいないだろう。

 そう考えて目を瞑るけれど、一向に夢の中へ誘われることはなかった。むしろ頭の中は思い出でさらに膨れ上がる。記憶している様々な出来事が駆け巡る中で、そのうちに後悔の念も押し寄せてきた。

 何故。

 どうして。

 俺は。

 一人で生きている。

 そんなことばかりが頭に浮かぶ。こんなのはもううんざりだ、早く現実から逃げよう。眠ってしまえば、考えるのを止めれば、そうすれば嫌な思いをしなくて済む。

 しかしエルはそう考える半面で、自分の中にそれと相反する思いがあることを自覚していた。それは。

 考え続けなければ、いけない。

 だって。


 思考を止めたら息の根も止まりそうだった。


 たとえそれが自責の念だとしても、何かを思い、考え続けなければ、あっという間に自分は息絶えるだろうと、そう感じた。思考し、自覚し、後悔し、反省し、諦観し、曲解し、納得し、そうやっていることが、自分の命を繋ぎとめる唯一の術だと認識していた。

 死んでもいい、そう思うと同時に、死にたくない、と想う。

 もうこんな世界は嫌だと思うけれど、この世界以外には行き場所がない。

 それに何よりも『死』が怖かった。

 恐ろしかった。

 あまりにも間近で死を見てしまった自分は、自身もそうなってしまうことに恐れをなしたのだ。情けないことに。

 人間は分からないものに恐怖を抱くと言う。だからこそ、死という体験のしようもない、理解の出来ない現象に畏怖するのだ。しかし。

 しかしである。

 エルは分かってしまった。死というものがどういうことなのか。

 これが正解なのかどうかは誰にも分からないけれど、少なくとも彼は感じたのだ。

 『死』は『怖い』ものだと。

 分からないから怖いのではなく、分かったうえで怖い。

 死ぬということはとてつもなく怖いことであり、圧倒的に忌避の対象で、ありえないほどに気持ちが悪い。それが彼の出した答えだった。

 そしてそこに辿り着いてしまえば、あとはそこから逃げるしかない。死からの逃避。

 現実逃避ではなく、死亡逃避。

 死ぬくらいならば、この現実を受け入れよう。そう思えるほどにこれまでの『死』が彼に与えた恐怖は大きかった。もっと別の、例えば老衰やあるいは病死だったならばこうはなっていなかったかもしれない、すぐにでも死へ向かっていただろう。しかし彼が体験した、否、体験した人を見た彼は、死がそんな生易しいものではないことに気づいてしまった。

 死ぬのが怖い。

 ただ、死ぬのが怖いからと言って、積極的に生きたいと思えるかどうかは、まったくの別問題だ。現実を受け入れよう。その行為が上手くいっていたなら、彼はしかしこんなふうになっていない。

 生物が死から逃れられないのと同様、現実もまた受け入れようと思って受け入れられるものではない。

 現実だって、そんなに甘くはない。

 軽くない。

 それだけの器を持たなければ、すぐさま割れてしまうだろう。

 そうして彼は、死からの逃避と、現実からの圧迫によって、行き詰ってしまった。これぞ板挟み。前門の虎後門の狼。右手に現実を左手に死を持って、まさに崖っぷちに立たされていた。十年前のように、ただ壊れるのを待つ存在となってしまったのだ。

 倒れ込んだままの姿勢で、目を瞑り、ひたすらに何かを口走る。

 そんな状態が何時間か続いた。

 辺りはもう沈みかける夕日によって赤く染まり始めていて、あと少しで夜がやってくるようであった。そこでふと意識を取り戻す。自分が意識を失っていたことに今気づいて、何をやっていたんだっけと考える。

 考えることはやめない。

 でも、もうそろそろ限界のようだった。肉体的にも、精神的にも。かつてエルが壊れてしまってからは、ロクな生活習慣ではなかった。いくらトートが多少の世話をしていたと言えど、満足に食事もしていない。そのうえ心は潰れる寸前だ。追いつめられた精神は、肉体をも蝕んでいく。

 だんだんと気持ちが遠のいていくのを感じる。このまま手放してしまえば、きっともう戻ってくることはないだろうと思った。あんなに恐れていて、望んでいた死が、こんなにも近くにある。

 手を伸ばせば。

 手を放せば。

 やっと俺もいける。苦しまなくて済む。既に瞼を持ち上げる気力もなかった、指の一本だって動かしたくない。

 ずっと頭の中を回っていた数々の思い出が、だんだんと薄れていく。とうとう、終わりか。

「死ぬ……のか」

 そう口にした。

 瞬間。

 全身が急に冷えた気がした。体中に鳥肌が立つ。急激な気持ち悪さが自分を襲う。頭がガンガンと痛む。手足は痙攣しているかのようだ。原因は分からない、でもただ一つ思った。

 怖い。

 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。

 死にたくない!

「いやだっ‼ 死ぬのは嫌だ‼ 怖い‼ 怖い怖いこわい‼」

 彼が死ぬと自らの口で言った途端、これまでとは比較にならに程の恐怖が襲ってきた。瞼の裏に映るのは、母の顔。切り離された頭部。床一面に広がる赤い液体。頭蓋骨の重み。響き渡る誰かの笑い声。狂ったような、笑い声。

 それを消したくて頭を振り回す。仰向けになって地面をのたうち回る。

 叫ぶ、叫ぶ、叫ぶ。

 もうだめだ。このままじゃあ、俺は。

 また、壊れる。死にたい。死にたくない。

 そうしてやっと瞼を持ち上げた。赤い光に一瞬目が眩む。ぎゅっと目を瞑ってから、もう一度ゆっくり開けた。最後にこれだけ、壊れてしまう前にこれだけは見ておきたいと、そう思い何とか身体を持ち上げて前を見る。


 瞬間、全てを忘れた。


 いや、一つだけ、たった一つ心に灯る光がある。

 それは、かつてこの瞼に焼き付けた、あのオレンジ色の光。

 三人で見た、夕日。

 今度は、頭の中に幸せな思い出だけが蘇る。恐怖も、逃避も、まるで全てが嘘だったかのように、消えてなくなった。

 様々な記憶がフラッシュバックする中で、最後にトートの顔が見えた。何かを言っているようだ。そこには見覚えのある風景。

 それはつい昨日の出来事。村の門の前で、彼女が最後に言った言葉。意識は曖昧であったけれど、これだけはハッキリと聞こえた。自分の身体もいっぱいいっぱいのくせに、それでも振り絞って言ってくれた言葉。


「生きて」


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