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この復活は果たして幸福か


 視界が晴れた瞬間、目の前に立っていたトートは糸が切れたかのように崩れ落ちた。

 トートの顔は青ざめていて、見れば左腕の肘があったあたりから血が流れていた。そして何よりも俺を驚かせたのは、見た目が大きく違うこと。幼いころの面影があるようで、倒れている彼女がトートだと直感したのだけれど、しかしそれでも俺の記憶にある姿からすれば何年も歳をとっているようだった。

 突然の出来事。急転する現実。理解が追いつかない。なんでトートは腕を失っている?

 とりあえず、すぐに手当てを。

 そう思って自分の身体を起こそうとする、しかし足に力が入らない。言うことを聞かない。どうして、なんで。

 また一つ理解できないことが増える。その情けない足を見た途端に驚愕した。情けない足というのは、そのままの意味で、骨にかろうじて皮が張り付いているような、そんな足が俺にくっついていた。

 は?

 誰だよこれ。そんな問いが出てくるほどに情けない。

 何で俺はこんな身体で、何でトートはそんな姿で、今はいつで、どうして、何が起きて。

 数々の疑問と不安が巡る俺の思考を、何一つ言葉を発さずに急停止させた男が、いた。その男は最初からそこにいたのに、今まで何故気づかなかったのだろう。

 俺の頭が、無意識のうちに視界に入れないようにしていたのか、そう考えてしまうほど、その男に恐怖と憤りの念を持っていた。

「ラオ……ブ」

 奇しくも、エルこと、プリクエル・アフターワードが十年ぶりにまともに喋った言葉は、弟の名でも、母の名でも、幼馴染の名でもなく、その弟を攫い、その母を殺し、その幼馴染を今まさに奪い取ろうとする仇敵の名であった。


 無言の時間が過ぎる。睨み合う二人、否、片方の瞳には感情がなかったが。しかしその視線の交錯もすぐに途切れた。ラオブは何事もなかったかのように倒れ込むトートを持ち上げて、エルに背を向けた。

 彼、エルの記憶は十年前のあの日から何一つ変わっていない。つまり、エムを連れ去られたあの日の記憶は、彼にしてみればついさっきの出来事なのだ。

 ついさっき弟を奪われた彼は、今幼馴染を奪われようとしている。しかし身体は自分のものではないかのように動こうとしない。トートの腕から滴り落ちる赤い血が、地面に跡を残していく様をただ見つめるばかりだ。

 彼はまた、壊れようとしている。

 壊されようとしている。

 いくら十年の時が流れようとも、精神はほとんど成長していないに等しいのだ、立て続けに訪れる絶望に耐えられるとも思えない。これ以上彼の内面が崩れてしまえば、もう立て直すことは不可能だろう。それに、今回のことだって自力で回復したわけではないのだから、彼のことを一心に思う、想う人がいたからこその出来事。

 しかしそれでも、彼の頭の中には一つの言葉が残っていた。今まさに目の前からいなくなってしまった人が残した最後の言葉。

 人として、生きるということ。

 彼女が彼に遺した意思。

 それが今、無意識のうちに唯一の支えとなっていた。

 だが現実的な問題は別にある。極めて現実的で、それでいて致命的な。いくら心の支えがあったとしても、肉体の支えが彼にはなかった。過去十年、もちろん最低限の仕事はこなしていたので、歩いただけで折れるようなやわなものではないが、それでも彼自身にしてみればそれと大差ない。そもそもこの身体が自分のものなのかどうかすら疑わしいのだ。

 どうしよう。

 そう思うのだって仕方がない。実際どうすればいいのか分からないのだから。ラオブとトートの姿は、エルが彼女の言葉を頭の中でリフレインしているうちに見えなくなってしまった。

 そうなれば彼のとる行動は、帰ることしかなかった。

 今から血痕をたどったとしても、追いつくどころか差は開くばかりだろうし、そもそも相対したところで何が出来るわけもない。それこそ弟の時の繰り返しだ。

 と、そんなことを冷静に考えられている自分自身に怒りを覚える。何故こんなことを普通に思っているのだろうか。

 しかしふと、こんな感情を抱くことが酷く久しぶりのように感じられて、首を傾げてしまう。誰か、誰でもいい、俺に何が起こったのかを教えてほしい。

 俺に何が起きて、世界はどうなったのか。

 未だ力の戻らない足腰を叩いて、何とかその場に直立する。すぐに膝が崩れそうになるが何とか踏みとどまろうと、とりあえず近くにあった門の柱へと手をついた。その木製の柱は自分の知っているものよりも朽ちていて、それだけで明らかにどうしようもない年月が経っているのだと思わされる。

 しばらくそのままで、足の震えがおさまるのを待つ。手をついた姿勢のまま呼吸を整えて、同時に頭の中をも整理しようと試みる。

 考えて、考える。

 先ほどのトートの出来事、自分の身体、柱の腐朽具合、世界の姿。

 …………。

 まずは自分の家に行ってみるか、確認したいことがある。


 十年前に弟を奪われて、意識が回復すると同時に幼馴染すらも奪われた。その間の記憶などほとんどないにも関わらず、精神的には未だ幼子のはずにも関わらず、こうも冷静にいられるのは何故なのか。それはまだ本人には分からないどころか、気づいてさえいないのであった。


 やっぱり記憶の中にある村の風景とはどこか異なる印象を覚える。自分の身体と、村の様子、これを見る限り数年の時間は過ぎているみたいだ。問題はどれくらい経ったのか、それを知りたい。

 あたりは既に暗くなり始めていて村人の姿はなかった。誰かにあれこれ聞きたかったけれど、こんな状況、自分が自分かもわからないままに、さして交流の無かった他人に質問を投げかけるのは気が引けた。

 たとえ同じ村に住む者同士と言えど世界が世界なので、和気藹々と何かをすることはなかった。交流があったのも、家族とトート、あとは彼女の両親くらいだろうか。もちろん他の人の顔と名前くらいは把握している、はずだ。

 トートの両親か……自分の娘があんなことになってしまった今、どういう状況にあるのだろう。彼らとの数少ない記憶を手繰り寄せながら、いつの間にかたどり着いていた自宅の扉を開く。

「げほっ、ごほっ……」

 入った途端に埃が舞ってつい咳き込んでしまう。まったく覚えてはいないけれど、もしも長年の間この家で生活していたのだとすれば、それはそれは身体に悪かっただろう。今自分の姿を上から下まで見ればそんなことはわかりきっているのだけれど。

「ただい、ま」

 喉が落ち着いたのちに、控えめに言葉を出してみる。しかしその声はすぐに消えて再び埃っぽい空間だけが残った。

 当然返ってくる言葉などはない。

 気落ちはしない、分かっていたこと。

 そうして大して広くもない自分の家を見まわして目についたのは、古びたテーブル。こちらも埃をかぶっていて指でなぞるだけでその先にはたっぷりの塵芥が溜まる。

 そのまま視線をチラリと横に向けると、一瞬、息が止まった。

 目の先にあったのは、こちらも大量の埃を乗せた、――――頭蓋骨。

 椅子の上に乗せられたそれは、まっすぐにテーブルの方を見ていて、真っ暗な瞳は吸い込まれそうなほどの闇を持っていた。

「っはぁ! くぅ……ううう」

 途端、呼吸が苦しくなる、息を吸い込むといういつも通りの動作が上手くできない。誰かに助けを求めるかのように視線の向かう先を移動させた。

 きっと無意識だったろうけれど、その動かした方向はかつて弟が座っていた席であった。そこに置いてある、何故か懐かしさが込み上げてくるような棒切れを見て、さらに呼吸ができなくなる。

「はっはっ……はっはぁ、ぁ」

やばい、と本能的に感じた。本能的というよりも経験的にだろうか。

 このままここにいたら、また何かが変わってしまいそうな気がした。

 だから飛び出した。

 半ば叩くように、乱暴に扉を開けて外へと出る。

「うぅ、うあぁぁ」

 声が口から洩れるのと同時に、涙が浮かんできた。

 分かってはいたこと。

 二人がもうここにはいないのだと。

 分かってはいた。

 でも改めてそれを突き付けられると、やはり穏やかではいられなかった。この状態でいるのは絶対にダメだと、そう判断をして、何か別のことへと意識を向けようとする。

「――そうだ、トートの両親は……」

 家に帰る途中で考えていたことを思い出して、すぐさま彼女の家へと走り出す。のんびり歩いてなんかいたら、また思い出してしまいそうだから。息を切らしながら、ただただ足を動かして地面を駆ける。

 ものの数十秒で家には着いた。この程度ではーはー言っている自分の肉体に苛立ちながらも、扉を軽く叩いた。

 中からは、トートの父か母、どちらかの声が返ってくるものだと、当たり前のようにそう思って。


 しかし彼は忘れていた。ついさっき自分で忘れようと思って意識から外したことなのだから、それは仕方ないにしても、やはり心の準備はしておくべきだったのだ。

 子どもを攫われた、その親がどうなってしまうのかを。

 果たして、弟の時はどうだったのかを。

 彼は知っていたはずなのに。


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