07:爪痕
落ちる感覚に翔真は飛び起きた。
息を切らしながら、ただ目の前だけを凝視する。
開け放たれたドアの向こう側に、明かりが爛々とついたままのリビングダイニングが広がっていた。
ソファには翔真のスーツが脱ぎ捨てられており、床は水浸しで、使われた食器もローテーブルの上で干からびている。
(やべ、寝てたのか…)
意識を失ったふうの口に抑制剤を無理やりねじ込んで飲ませ、着替えやらなんやらをしていたら、体力が尽きてしまったらしい。
泣いたせいで重い瞼を擦り、翔真は背もたれにしていたベッドを確認した。
布団の中にはふうがいる。
硬く目を閉ざし、額に汗をかきながら、荒い息を繰り返している。
その様子に、ヒートはまだ収まっていないのだと痛感させられた。
(高熱を出した時…みたいな感じなんかな)
翔真はふうの頭を優しく撫でながら、考える。
ベータである翔真にヒートの辛さはわからない。想像することでしか、補うことができない。
そして、どんなに想像しても、それは想像の範囲を超えることはなかった。
小さく息を吐いて脱力した時、胃から空腹を知らせる音が鳴り響いた。
(腹へった…)
昼食に弁当を食べて以降、何も口にしていないのだから当然か。
翔真はふらりと立ち上がった。
(料理は…たぶん、途中で遮られるし、カップラーメンも、運が悪けりゃ伸び切るな)
翔真は空腹に耐えながら玄関に放置していた仕事用のカバンと、お菓子が入ったビニール袋を拾い上げた。
そして、気だるげにお菓子の袋を開けた。
小麦粉でできた生地にホワイトチョコがかかった洋菓子風の小さなお菓子。
見るからに甘いそれを、翔真は口の中に放り込んだ。
(煎餅が食いたいな。ゼリーとかだけじゃなくってそういう塩っぱい系も、今度買っとくか)
柔らかいそれを何度も噛み、少しでも空腹を誤魔化しながら、彼は寝室に戻っていく。
(あー、スーツもクリーニング出さねぇとなぁ)
いまだに水分を含んだまま放置されているスーツを一瞥し、翔真は頭の中で今後のスケジュールを組み始めた。
(今日は金曜日。ふうのヒートが収まり始めるのが日曜か。月曜に有給とるか?)
仕事は調整してきたから取ること自体には問題はない。
ただ、むやみに有給を消化して緊急時に使えなくなるのは避けたかった。
(疲れてたら午前休…ぐらいにしとくか)
翔真がため息と共にスケジュールを組み終わると、ふうが布団の中で身じろいだ。
そして、硬く閉ざされていた瞼がゆっくりと持ち上がった。
「おー、目が覚めたか」
「………」
ひらりと片手を揺らして声をかけると、ふうがじっと見つめてきた。
目の焦点も合っているし、暴れもしない。
あのやたら値段の高い抑制剤にはちゃんと効果があるのだと、翔真は知った。
ここ最近は抑制剤を飲んだ状態のヒートしか経験しなかったため、少しだけ半信半疑になっていた。
「体調どうだ?」
翔真が手を伸ばすと、ふうはその手を取り、すりっと頬ずりをした。
そして、またじっと見上げてくる。
「しょーま」
いつもと違う甘ったるい声に、翔真は無意識に顔を歪めた。
ふうは、性的なものに対して嫌悪感を持っている。
下ネタは嫌いだし、グラビア雑誌を見かければ眉間にシワを寄せるし、映画で濃厚なラブシーンが流れたら目を覆い隠して遮断する。
もちろん、自分から積極的に翔真を求めることもなかったし、そういう雰囲気になった時はいまだに顔を真っ赤にさせる。
それは、数え切れないほど、周囲からそういう目で見られてきた反動だと、翔真は理解している。
だからこそ、ヒートのたびに、こうして甘えてくるふうを見て、思ってしまう。
( ── 目の前にいるこの子は誰だ)
ヒートのせいで、ふうの本来の人格がなくなり、生殖本能だけが剥き出しになる。
おそらく、ヒート状態のふうだけを知っている人からすれば、性に奔放な人間なのだと解釈してしまうだろう。
本当は、真逆の人間なのに。
しかも、ふうは翔真だから求めているわけではない。
視線が重なろうとも、名前を呼ぼうとも、翔真だからではなく、目の前に自分の熱を鎮めてくれる存在がいるという認識で、体が動いている。
そして、やはりそこにふうの意思はないに等しかった。
本能がふうの体を動かしているだけに過ぎなかった。
それが、オメガの、ヒートの、恐ろしさだと翔真は思った。
目の前の女性が恋人と認識できなくても、翔真は誘われるままベッドに上がった。
そうすることで、ほんの少しだけヒートを抑えられるのを知っているから。
「ふう、好きだ」
覆いかぶさられながら、翔真に両手を伸ばすふうは答えなかった。
それから二日が経過した日曜日。
ふうは酷い頭痛から目を覚ました。
体の重さに驚きながらなんとか上半身を起こし、目の前に広がる光景に愕然とした。
翔真が背を向けて眠っている。
その背中には、おそらく自分がつけたであろう真新しい爪痕が残っていた。
反対側を向くと、いつも整っているリビングダイニングがまるで獣が暴れた後のように散らかっていた。
「あ…」
ふうは何も覚えていなかった。
今日が何曜日なのかもわからなかった。
けれど、ヒートが来たのだと、目の前の光景だけでわかってしまった。
(私…約束守った?)
翔真に連絡しようとしたことは、ぼんやりと思い出すことができた。
けれど、送った瞬間の記憶がなければ、抑制剤を飲んだ記憶もなかった。
どちらもやろうとして、慌ててしまった結果、何もかもが間に合わなかった。
その事実に、血の気が引いていくのを感じた。
「かた、片付け、なきゃ…」
溢れてくる涙を拭うのも忘れて、ふうはベッドから降りようとした。
これ以上、翔真に迷惑をかけたくなかった。
それなのに体がまともに動いてくれず、ベッドからずり落ちて、肘を強打してしまった。
響く痛みにうずくまり、ふうは裸の自分を抱きしめた。
(なんで…)
涙で滲む世界で、ふうは問いかける。
(なんで…私はオメガなの)
なんで、私がオメガで生まれなくちゃいけなかったの。
ふうは声を押し殺して泣き続けた。
何もできないからこそ、せめて、眠っている翔真を起こしたくなかった。
ひとしきり泣いた後、ふうはなんとかベッドに戻った。
あのまま床に転がっていたら、また翔真を心配させてしまうことは明白だったからだ。
彼の背中をじっと見つめ、痛々しい爪痕にまた泣きそうになりながら、無理やり目を閉じて、自分を暗闇に閉じ込める。
(…翔真と別れた方がいいんだろうな)
その方がお互いのためになると、ふうはわかっていた。
翔真なら、すぐに新しい恋人ができることも。
自分が我慢すれば、すべて丸く収まる。
わかっているのに、どうしても選択することができなかった。
自分から、彼を拒絶することができなかった。
翔真は、ふうが初めて恋をした人で、幼馴染みに勇気をもらいながら何度も声をかけて、やっと恋人になれた人だったから。
(やだよ…)
彼が、自分以外の誰かの隣を歩いているのなんて見たくなかった。
結婚して、家庭を持つなんて想像すらしたくない。
(なんで、普通の恋人同士になれないの)
なんで ──。
(翔真に迷惑かけることしかできないの)
なんで、自分は普通に生きられないのだろう。
ふうはすがるように翔真の背中に頭を寄せた。
「翔真、好き…」
ふうがそう伝えても、疲れ切った翔真は眠り続け、答えてはくれなかった。




