06:本能
残業をすることなく会社からの脱出に成功した翔真は、いつもと同じ時間の電車に乗り込んだ。
この急行に三十分ほど乗り続けたら、各停に乗り換えてようやくたどり着く我が家。
その安住の地が恋しくてたまらない。
しかも、なんと、今日は金曜日だった。
(今日は何の映画やんのかなぁ)
誰からも連絡が来ていないことを確認してから、翔真はSNSで情報を集め始めた。
金曜日の二十一時には、とあるチャンネルで決まって映画が放送される。
名作と言われる古い恋愛映画、去年話題になったアニメ映画、重厚なミステリー映画など、ジャンルは多岐にわたる。
ふうと翔真は、いつの間にかそれを一緒に見るのが毎週の楽しみになっていた。
(学生の頃は平日のレイトショーに行けたけど今は俺がキツいからな)
映画館は人が多い。そのため、ふうにとっては、行きたくても気軽に行けない場所の一つだった。
学生時代は、一番空いている平日のレイトショーにたびたび足を運んでいた。
どんなに見渡しても自分たちしかいないこともあり、実に快適で贅沢な時間だった。
けれど、カレンダー通りに働く会社に翔真が勤め始めてからはずっと行けていない。
ふうも気遣って、行きたいとは言わなかった。
(サブスクで見たいのを探すのもいいけど、あらすじすら知らないのを見せられるのも楽しいんだよな)
もちろん、当たり外れはある。
けれど、二人はそれが楽しかった。
外れを引いた場合は笑い飛ばし、当たりを引いたら運が良かったと喜び合う。
同じ時間を共有していると実感できることが、何よりも嬉しかった。
(おぉ、ふうが見たがってたやつだ)
今夜、放送されるのはふうが見たいと呟いていた海外発のミュージカル映画だった。
普通の人とは少し違う容姿で生まれた為、迫害されていた少女が実は希少な魔法使いであることが発覚するファンタジー作品だ。
コマーシャル越しでもわかる壮大な歌とダンス、そして、周囲の様々な圧力に負けずに自由をつかみ取ろうとする主人公の姿は、あっという間にふうを虜にした。
(こんなん、自分を重ねちまうよなぁ)
あらすじを読みながら、翔真は眉尻を下げた。
なんとか映画館で見せてあげたかったのだが、ロングヒットを重ね、レイトショーでも空席が少ない状態だったため、断念せざるを得なかった。
(ふう、喜ぶだろうな)
駅にある売店でお菓子も買っておこう。
翔真はひっそりと笑みを浮かべた後、クラゲ動画の観賞を始めた。
腕にぶら下げたお菓子が入ったビニール袋がカサカサと音を奏でる。
開放感とこれから過ごすであろう時間への期待で、翔真は鼻歌を歌い出しそうなほど上機嫌だった。
けれど、住んでいるマンションにたどり着いた彼は、息を呑むことになる。
(アルファか…?)
マンションの前に一人の男子学生が立っていた。
有名な私立高校の制服を身にまとい、芸能人にも引けを取らない端正な横顔。
アルファと思わしき少年はぼんやりとした赤ら顔でマンションをじっと見上げていた。
ドクン、と心臓が飛び跳ね、翔真はスマホを引っ掴んだ。
そして、メッセージボックスを確認する。
誰からも、ふうからも、連絡は来ていなかった。
(たまたまか?)
無意識に浅い呼吸を繰り返しながら、翔真はマンションの入り口に向かった。
このマンションに好きな子でも、住んでいるのかもしれない。きっと、そうだ。
頭の中でそう繰り返し、オートロックを解除した時 ──。
「あの、このマンションに住んでる方ですか?」
背後から声をかけられた。
恐る恐る振り返ると、綺麗な顔が翔真を見つめていた。
「あ、はい。そうです」
「ここのマンションって…オメガの人が住んでたりしますか?」
少年の質問に、翔真は息が詰まるのを感じた。
把握してはいないが、おそらく、ここに住んでいるオメガはふうしかいない。
オメガはそれほど希少で、人口の一割にも満たなかった。
唾を飲み込み、翔真は平常心を装って答えた。
「いやぁ、わからないなぁ…」
「そうですか…」
少年は落胆したように肩を落とすと、鼻をこすった。
ベータである翔真にはわからないけれど、アルファにとってオメガが放つフェロモンは甘い香りがするという。
嫌な予感はほとんど確信に変わっていた。
「それじゃ、俺はこれで…」
「あ、はい。変な質問をして、すいませんでした」
礼儀正しく頭を下げた少年にひらりと手を振り、翔真は慌てて階段を駆け登っていった。
エレベーターを待つという余裕はなく、息が切れても太ももを上げ続けた。
(最上階でよかった。一階だったら、あの少年も暴走してたはず)
そう思いながらも、いつまでも続く階段を疎ましく感じた。
本格的にヒートが始まったら、ふうはまともに動けなくなる。
だからこそ、予兆が出たらすぐに連絡をする約束をしていた。
それなのに、連絡が来ていない。
(あぁ、もう、とりあえず無事でいてくれ…!)
寝てたら急に来た、とかそうであってくれ。
翔真は祈りながら、借りている部屋の扉を開けた。
「ふう!」
声をかけてから、しっかりと鍵をかけた。
鞄を乱暴に落とし、靴を放り投げ、翔真はリビングダイニングを見渡した。
ふうの姿はどこにもなかった。
焦りが募る中で、浴室がある方角から水音が聞こえてくるのがわかった。
何も考えず、ただひたすらに翔真はその方角に向かった。
勢いよく脱衣場に繋がる扉を開けると、水音が大きくなっていった。
どうやら、シャワーの水が出しっぱなしになっているらしい。
浴室前に置かれたバスマットの上にはふうのスマホが転がっていた。
画面には翔真に送ろうとしていたメッセージが未送信のまま、残っていた。
「ふうッ!」
翔真が浴室を覗き込むと、服を着たままシャワーの水を頭から被っているふうが座り込んでいた。
ひんやりとした空気に冷水なのが伝わってくる。
スーツが濡れるのも厭わず、翔真は駆け寄ると、シャワーを止めた。
貼り付いたTシャツ越しにふうに触れると、こんなにも濡れているのに、驚くほどに熱かった。
(くそ、やっぱり始まってたか)
何度声をかけても、ふうは答えない。
自分の体をぎゅっと抱きしめたまま、荒い息を繰り返している。
翔真は濡れて重くなったジャケットを脱ぎ捨てると、常備しているタオルを鷲掴みにし、彼女の体を包み込もうとした。
けれど、その行動は当の本人に邪魔されてしまった。
急に飛びつかれ、翔真は強かに背中を打ちつけた。
低い唸り声を上げた後に、なんとか瞼を持ち上げると、天井と眉間にシワを寄せたふうの顔があった。
目の焦点が合っておらず、おそらく、目の前にいるのが翔真だということも理解できていない。
(抑制剤も飲めてないのか…っ)
この状態のふうと出会すたびに、翔真はいつも怯んでしまう。
まるで飢えた獣のようだと、無意識に思ってしまうからだ。
(とりあえず、抑制剤を飲ませないと)
けれど、そのためにはふうを落ち着かせなくてはいけない。
(そのためには ──)
考える翔真の頬に、ふうの両手が触れた。
そして、熱を帯びた瞳を細めて、許可もなく唇を重ねてきた。
その光景に顔を歪めながら、翔真は意を決してふうの体を掴み、組み敷いた。
「いっ…!」
ふうが痛みから悲鳴を上げる。
けれど、それを塞ぐように唇を押しつけて、鼻も塞いだ。
「んーっ! ん!」
呼吸を止められ、ふうは翔真を押し退けようと暴れる。
その細い腕を押さえつけて、翔真は彼女の体内にある酸素が枯渇していくのを待った。
(早く…! 早く!)
ふうの体から徐々に力が抜けていく。
彼女が自分の手で死に近づいていく感覚に恐怖を覚えながら、それでも意識を失う瞬間を懸命に待ち続け、ようやく解放した。
ふうの目元には涙が滲み、細い腕には翔真の手の跡が赤く残っていた。
「くそ…ッ」
ぐったりと横たわるふうを見下ろし、翔真は浴室の壁を殴った。
(俺がアルファだったら…)
すぐにヒートを終わらせられるのに。
こんな酷い目に合わせずに済むのに。
溢れてきた涙を乱暴に拭い、手の震えを無理やり押さえ込んで、翔真はタオルでふうの体を包み込んだ。
そして、壊れ物を扱うかのように持ち上げた。
(脱衣場にも抑制剤を置いとくか。あの薬たけぇんだよなぁ)
そんな改善案を模索する傍ら、翔真は不甲斐ない自分自身を責め続ける。
本当にこの子と生きていけるのか、と。
(…俺も、ふうに驚く奴らと何も変わんねぇな)
ふうと暮らす日々は楽しくて、大切にしたいと思えるほど愛しいのに、たまにどうしようもなく辛かった。




