05:予兆
自席で昼食を食べ終えた翔真は仕事用のカバンの中に放り投げていたスマホを取り出した。
特に私用の連絡がないことを確認した後にいつもの健康管理アプリを起動した。
今日のふうの体温は三十六・八度で、いつも以上に寝起きが悪かった。
(前回、ヒートが来た日を鑑みても、もうすぐだな)
ヒートは約一週間続く。
個人差はあれど、ふうの場合は最初の三日間で一気に症状が現れ、その後は緩やかに落ち着いていく。
できれば丸々一週間有給を取って寄り添ってあげたいが、仕事のことを考えるとなかなかに難しい。
翔真にできることは、初日に午後休を取って、二日目に全休、三日目に午前休を取ることが精一杯だった。
そして、それでも上司からは不満げな態度をされ、「お前、オメガなんじゃないのか?」と揶揄われたりする。
翔真はそのたびに在宅勤務ができる職場への転職を考えるが、ふうからは「あまり自分を犠牲にしないでほしい」と言われてしまう。
翔真とふうは大学時代からの付き合いだ。
だからこそ、ふうは翔真がどれほど大変な思いをして今の会社の内定を得たのかも、多少の不満はあれど居心地の良さを感じていることも知っていた。
(余裕をもって仕事を片付けるか)
翔真は昼休みを返上しようと、閉じていたノートパソコンを開いた。
するとタイミング悪く、外で昼食を取り終えた笹塚が缶コーヒーを片手に隣の席に座り始めた。
「なぁ、ちょっと聞いてくれよ」
気落ちしている彼の様子に、翔真は内心ため息をつきながら、開いたばかりのノートパソコンを閉じた。
そして、くるりと椅子を回転させて、笹塚と向き合った。
「どうしたんだよ」
「飛田さんのこと」
飛田とは、つい最近この会社に入社してきた派遣社員のことだった。
笹塚と同じ部署で働いており、オメガということで何かと話題に上がることが多い。
翔真は嫌な予感を抱きつつ、腹の前で両手を合わせた。
「またミスしたとかか?」
「ちげぇよ。むしろ、めっちゃ丁寧に仕事してる。もうミスしないように周りにダブルチェックをお願いしたり、わからないことは積極的に聞いたり」
「へぇ、仕事できる人じゃん」
「そうなんだよ! だから、なんで前にあんなミスしたのか気になったんだよ」
確かに、と翔真は頷いた。
笹塚は頬杖をつき、憂鬱そうに明後日の方角を睨みつけた。
「前任がちゃんと引き継ぎしてなかったんだって」
「え?」
「ちゃんと引き継ぎ期間を設けてたのに、ありえないだろ? すげぇびっくりした」
「前任ってどんな人?」
「三十代ぐらいの女の人。いかにも真面目そうな見た目した真面目な人。契約期間中は問題なく働いてた」
「なんで、そんな人が?」
笹塚は翔真に顔を寄せると、他の誰にも聞こえないように声を潜めた。
「これは又聞きなんだけど、妬みじゃないかって」
「妬み?」
「女性社員が言うには、前任って独身だったらしいんだ。あと、ちょっとぽっちゃりしてた」
なんとなく理解でき、翔真は無意識に「あー」と低い声を出した。
「飛田さんってオメガなだけあってめっちゃ可愛いし、スタイルも良いじゃん。それでコンプレックス刺激されてちゃんと引き継ぎしてもらえなかったんじゃないかって」
「それが本当なら、私情を挟んだ前任が悪い」
「それはそう」
言いたかったことをはっきりと言ってくれた翔真に、笹塚は力強く頷いた。
二人は同時にやるせない気持ちになった。
「それで、ここからが相談」
笹塚は前のめりだった姿勢を正すと、考え込むように腕を組んだ。
「そういう人が一人じゃないんだ」
笹塚はあえて詳細を言わなかった。
けれど、翔真には飛田が部署内でも少し浮いてしまっているのだと察することができた。
「どうせすぐに番見つけてやめてくって、部長は対応しようとしない。でも、そんなのわからないだろ?」
「そうだな」
「でもさ、男の俺が甲斐甲斐しく世話したら、余計にややこしくなるよな?」
「なるな」
「だよなぁ…」
翔真はそう返しながら、大学時代を思い返していた。
ふうと翔真は同じ大学の同級生だった。
そして、オメガであるふうは入学当初からかなり注目されており、有名だった。
クラスなんてあってないような、高校や中学校よりも拘束が少ない大学という環境でさえ。
そのせいで友人になった時から、付き合い始めて卒業するまで、色々なことを言われた。
その中には聞くに堪えない内容のものもあったし、殴り合いの喧嘩に発展することもあった。
その経験があるからこそ、軽い気持ちでオメガに寄り添ってしまうと自分も相手も傷つくことを翔真は知っていた。
「あー、どうしよう。別に惚れてるとかじゃないんだよ」
「わかってるって」
「飛田さんってすげぇ仕事を引き受けようとするの。残業も積極的にして、めっちゃ頑張ってんの。たぶん、人一倍働かないと契約切られるってわかってるから」
笹塚が語る仮説を翔真は否定しなかった。
自分がオメガでなくても、そういう空気を感じ取ることはできるからだ。
「そういう人が報われてくれなきゃ…こっちだってやる気なくすじゃん。頑張らない方がいいって」
天井を仰ぐように脱力した笹塚に続いて、翔真もため息をついた。
どうしたらいいのか、二人には案が浮かんでこない。
部長とか課長といった肩書きを持っていたらやりようがあったかもしれないが、二人はまだまだ何の権限も持っていない平社員だった。
沈黙の末、笹塚は立ち上がった。
「とりあえず、部署内のサバサバした女性社員が飛田さんと仲良くなってくれるのを祈りながら、たまにフォロー入れるわ」
「それがいいかもな」
結局、曖昧な結論しか出なかったが、笹塚は無理やり切り替えて、感謝の言葉を残して自席に戻っていった。
その背中を見送りながら、彼が偉い立場になったら、この会社も少しはオメガに優しい会社になれるのかもしれない、と翔真は思った。
(そうなればいいのにな)
翔真は背伸びをすると、先程閉じたばかりのノートパソコンを再び開いた。
その同時刻、ふうはリビングダイニングのソファで寝てしまっていた。
つけっぱなしのテレビからは、大好きな配信者の八時間にも及ぶ超大作なゲーム実況が止まることなく流れ続けている。
時たま、耳をつんざくような叫び声が上がったりしているのに、ふうは起きない。
クッションを胸に抱えて、眉間にシワを寄せている。
── 片倉さんって、やっぱりエッチなことが好きなの?
暗闇の中で聞こえてきた声に、ふうは勢いよく目を覚ました。
寝ていただけなのに息が荒れ、全身に冷や汗をかいている。
なんとか体を起こし、ぼんやりと部屋の中を見渡した。
そして、慣れ親しんだリビングダイニングであることを確認し、ようやく息をついた。
(…熱い、気持ち悪い)
よろけながら寝室のクローゼットに歩み寄り、乱暴に着替えを掴むと、朦朧としながらもシャワーを浴びに行った。
(ヒートの前はいつも嫌な夢を見る)
医師曰く、ホルモンバランスが崩れてしまうのでネガティブになったり、無気力になったりする人が多いのだという。
ふうも例外ではなく、よく悪夢にうなされていた。
(翔真の職場にオメガの人がいるって言ってたな…)
頭からシャワーの水を被りながら、ふうは考える。
滴り落ちる水滴がまるでビーズカーテンのように視界の端でキラキラと煌めいた。
(ヒートの時、どうしてるんだろう。抑制剤を飲んでも、完全に抑えられるわけじゃないし)
どうして、あの暑苦しいチョーカーを一日八時間以上もつけていられるのだろうか。
電車や、オフィスといった、人が集まる場所に毎日行けるのだろうか。
(強い人…なんだろうな)
それとも、周囲に無遠慮な人があまりいない環境で育ったのだろうか。
考えても答えを得られない問いを頭を振って追い出し、ふうはシャワーを止めた。
(翔真…早く帰ってこないかな)




