04:満月の散歩
十九時、無事に定時退社を決めることができた翔真はふうと暮らすマンションに戻ってきた。
鍵を開けて扉を開けると、パタパタと足音が近づいてくる。
慌てることなく余裕すら感じられるリズムに、今日は起きていたんだと、翔真はひっそりと口角を上げた。
どんなに疲れていても、ふうが出迎えてくれたら癒されて元気が出る。
だからこそ、何が何でも早く帰りたいと翔真はいつも思っていた。
「おかえりなさい」
「おぅ、ただいま」
翔真は手を伸ばし、ふうのうなじに触れる。
細い首はいつだって滑らかで弱々しい。
もっとたくさん食べて太ってほしい。もしくは、筋肉をつけて屈強になってほしい。
翔真はたびたびそう願うけれど、オメガの体質的に無理難題を押しつけてしまうことを理解しているので、直接伝えたことはなかった。
オメガは本能的にアルファを必要としている。
だからこそ、庇護欲を掻き立てるために儚げで華奢な容姿の者が多い。
それはふうも、同じ会社で働く飛田も例外ではなかった。
まるで人間に可愛がられるために進化したと言われている猫のようだと、翔真は思った。
まぁ、猫を飼っている友人の話を聞いていると、どちらが飼われているのかわからなくなるけれど。
「今日は何してたんだ?」
「街を作ってた」
ふうのうなじから手を離し、軽く頭を撫でてから尋ねた。
そんな翔真を見上げて、ふうは答える。
「牧場経営はもういいのか?」
「うん。経営が最高ランクまで行って、好きなキャラと結婚もできたから新しいゲームを始めた」
「さいですか」
ネクタイを外しながら、翔真は苦笑いを浮かべた。
ゲームの中とはいえ、ふうが操作しているキャラが他の誰かと結婚したということが、少しだけ複雑だった。
「街を発展させて、人口を増やすと、車が増えて、色んな道に路駐が発生するの」
「リアルだなぁ」
「路駐が増えると道が混んで、渋滞や事故に繋がったりするから、対策としてたくさん駐車場を作ったの。そしたら、駐車場の維持費で赤字になっちゃった」
「本当にリアルだな」
新しいゲームを始めてテンションが上がっているのだろう。
珍しく口数の多いふうに、翔真はテンポよく相槌を打ち続けた。
「法律で路駐を禁止すると、市民から不満の声が上がるし、どうしたらいいと思う?」
そう尋ねられ、翔真は「あー」と唸りながら、短い髪をかき上げた。
「バスとか電車とか公共の乗り物を増やしたら? んで、なるべく料金安くするとか」
翔真の言葉に、ふうは瞳を輝かせた。
どうやら良いアドバイスができたらしい。
承認欲求が満たされて、翔真は嬉しくなった。
夕食を済ませた二十一時、ふうの希望を叶えるために二人は外出する準備をしていた。
とはいえ、明かりが灯った近所の民家を眺めるだけのお手軽なツアー内容なので、オシャレはせずに、気温に合わせて上着を羽織る程度だった。
「チョーカーつけたくない」
チョーカーを取ってきた翔真に、ふうは首を横に振って嫌がった。
「煩わしいのはわかるけど…」
じっと見つめられ、翔真は口ごもった。
記録している体温的にも急にヒートが来ることはないだろうし、人通りの少ない夜道を歩くだけなのでアルファに出会う確率も少なければ、いざとなったら翔真が隣にいる。
(あらゆる面で優れてるアルファに勝てる気はしないけど、俺だって一応筋トレとかしてるし…)
チョーカーが蒸れる暑い時期ならば、大目に見ることもできただろう。
単純なワガママではなく、周囲からジロジロと見られることが過度なストレスになるということも重々理解している。
それでも、絶対に安全だという保証はどこにもなかった。
また、電車の中で読んだ無理やり番にされたオメガの記事が脳裏を過り、翔真はより一層不安になった。
「…ごめん。やっぱりつけて」
眉尻を下げて懇願する翔真に、ふうは不満げに口角を下げた。
けれど、くるりと背を向けると、自ら髪を押さえて、素直に首を差し出した。
その白いうなじに、翔真はやるせない気持ちでチョーカーをつけていった。
(俺がアルファだったらなぁ…)
金具を止めながら、翔真は思った。
番を得たオメガは、番以外のアルファを誘惑できなくなるため、チョーカーが不要になる。
つまり、普通の人と同じような生活を送れるようになる。
(ふうの番になって、そんな日々を送らせてあげたい)
しかし、どんなに強く願っても、ベータとして生まれた翔真には逆立ちしても叶えられないことだった。
(誰か、偉いやつ…後天的にアルファになれる薬を開発してくれよ)
翔真はいつだってその時を待っている。クラウドファンディングに投資する準備もしている。
そして、欲しい情報を得るためにネットを巡回するのを忘れない。
けれど、どんなに探しても、現代にそんな方法は存在しなかった。
チョーカーをつけ終わると、ふうはいつもと変わらない態度で翔真に笑いかけた。
「行こう」
その笑顔と明るい声に、翔真は救われた気持ちになった。
そして、差し出された小さな手を、しっかりと握り返した。
絶対に離さないように、と。
各停の電車しか止まらない小さな駅が最寄りなため、彼らが住むマンション周辺も静かで落ち着いている。
今夜は満月だと翔真に教えられていたふうは、さっそく空を仰いだ。
大きな満月が、雲に遮られることなく光を放っていた。
「綺麗…」
呟いてから、翔真と繋がっている指先にほんの少しだけ力を込めた。
それに気がつき、彼もまた満月を見上げた。
「おー、見事だな」
二人はしばらく足を止めて、満月を堪能した。
再び歩き始めてからは、漏れる明かりを頼りに民家の様子を眺めた。
「あ、翔真。あそこの窓辺に猫がいるよ」
「おぉ、ほんとだ」
ふうが指差した方角に視線を向ければ、カーテンを背に、二階の窓からこちらを見下ろしている猫の姿があった。
逆光のせいで黒猫に見えるけれど、本当はどんな姿をしているのかは二人にはわからなかった。
「なぁ、カレーの匂いしないか?」
「する」
「誰か食ってんのかな」
「食べたくなるね」
「明日はカレーにすっか」
「うん」
夜と言っても、時刻は二十一時になったばかり。
世界が寝静まるにはまだ早く、くたびれた様子の社会人や、塾帰りらしき学生とすれ違うこともあった。
すれ違う人たちは、のんびりと散歩をする二人を温かい眼差し、あるいは鬱陶しそうな眼差しで眺めてくる。
けれど、ふうがチョーカーをしていることに気がつくと、誰もがぎょっと肩を揺らした。
翔真はその反応を目の端で捉えるたびに、チョーカーの威力を痛感させられた。
(猛獣じゃねぇんだぞ…)
数え切れないほどふうの隣を歩いてきたのに、化物を見つけたかのようなその反応には、いまだに慣れることはできなかった。
十五分ほど歩いた頃、街灯に照らされた一台の自動販売機にたどり着いた。
元々ここを折り返し地点と定めていたため、一息つこうと、翔真はスウェットのポケットに入れていた五百円玉を取り出した。
「ふう、何にする?」
「コーヒー」
ふうは迷うことなくアイスコーヒーを指差した。
翔真は眉を寄せた。
「今日、何杯飲んだ?」
翔真に聞かれ、ふうは小さく肩を跳ねらせた。
「二…、三杯?」
ふうは指を折って数えたが、明確には覚えていなかった。
缶コーヒー三杯なら許容範囲だと、ネット記事で読んだことがある。
けれど、ふうの言う三杯は大きなマグカップになみなみになるまで注いだ三杯だと翔真は知っている。
「胃を壊すからダメだ」
ふうは目を丸くした後、がっかりしたように肩を落とした。
そして、自動販売機のラインナップを改めて確認した。
「カフェオレは…?」
「コーヒーと変わらねぇじゃねぇか」
「…コーラ」
「カフェイン入ってるからダメ」
次々とダメ出しをくらい、ふうは顔を歪めると、珍しく声を張った。
「翔真と半分こするのは!?」
「どんだけカフェイン取りたいんだよ」
翔真はため息をついて、自動販売機に五百円玉を入れていった。
チャリン、と音が鳴った後、アイスコーヒーと麦茶のボタンを押す。
そして、取り出し口から拾い上げた缶コーヒーをふうに渡した。
「半分だからな」
缶コーヒーを両手で受け取ると、ふうは嬉しそうに頷いた。
買った飲み物を零さないように注意しながら、二人は来た道を戻っていく。
「夜は静かだね」
ぽつり、とふうが呟いた。
「 ── ずっと夜だったらいいのに」
その言葉に、通り過ぎる人たちの化物を見つけたような反応に気がついていたのだと、翔真は知った。
「そうだな…」
翔真はそう返して、ふうに手を差し出した。
それを握り返し、彼女は寂しそうに笑った。




