29:母と娘
コーヒーが注がれたカップを覗き込み、女は目を細めた。
(…なんだか、また白髪が増えた気がするわね)
結婚し、娘が成人するまで育て上げた。
もう、若々しい美しさに対する執着心を手放してもいい年齢だとわかってはいる。
それなのに、どんなに染め直してもすぐに白くなる頭部に、飽きることなくため息をついてしまう。
(みすぼらしくはなりたくない、からね)
そう、自分に言い聞かせて。
コーヒーを口に運ぶと同時に、扉に付けられたベルが鳴り響いた。
視線だけを動かし、入店してきた人物を確認する。
飾り気のないシンプルな服装に深々と被ったキャップ。
普通なら風景に馴染んでしまうような服装が、着ている人物の容姿を残酷なほど際立たせていた。
「ふう、こっち」
片手を上げて呼ぶと、入店したばかりのふうは表情を和らげて、安堵した様子を見せた。
歩み寄ってくる娘を見つめ、ふうの母は心の奥底で思う。
(…本当に、私に似てない。お父さんにも似てない)
ふうの母は、時たま思ってしまう。
(この娘は、──本当に私の娘なのかしら)
産んだ瞬間も、名付けた瞬間も、鮮明に覚えている。
取り違えられたわけではないと断言することもできる。
(産まれたばかりの頃は、とても似てたのに)
それなのに、オメガという細胞が強くなっていくたびに、似ても似つかなくなってしまった。
それでも、彼女は、母としてふうと向き合い続けていた。
「定期検査はどうだった?」
「問題なかった」
「それはよかったわね。お腹空いたでしょ。何か頼みましょう」
「うん。待っていてくれて、ありがとう」
笑みを浮かべたふうに、母もまた笑みを返した。
そして、二人でメニューを覗き込み、何を注文するかを決める。
店員に注文を伝え終えると、ふうは長く息を吐いて脱力した。
「まだ病院は慣れない?」
優しく尋ねると、ふうは弱々しく頷いた。
「人がたくさんいるから」
ふうが関わるのは、受付の人と、研究に関わっている数人のみ。
けれど、病院にいるのはその人たちだけではなかった。
入院している人、見舞いにきた人、たまたまこの病院にかかりにきた人。
定期的に通っているふうを初めて見る人ももちろんおり、そのたびに凝視されるので居心地が悪かった。
「…お母さんは付き添うの大変じゃない?」
気遣うように見つめられ、母は笑みを返した。
優しい子に育ったな、と誇らしげに思いながら。
「こんなに素敵な喫茶店を見つけたから大丈夫よ」
「お母さんって昔からカフェとか喫茶店とか好きだよね」
「そうね。昔はよく一緒に行ってたわね」
「うん。楽しかった」
ふうがカフェを作りたいと思い始めたのも、コーヒーを好きになったのも、母の影響だった。
雑談に花を咲かせていれば、注文していた品が次々とテーブルに並んだ。
ホットコーヒーとサンドイッチ。
コーヒーの香りを楽しんでから、ふうは食事を始めた。
「ねぇ、今年の年末はどうするの?」
ハムとチーズ、そしてレタスが挟まったサンドイッチを持ち上げて、母は尋ねた。
それに対して、ふうはきょとんと目を丸くした。
今まで、年末だからという理由で特別なことをしてこなかったからだ。
「特に決めてない」
人通りが多くなるし、今年も家でのんびりすることになるだろう。
そう考えていたふうに、母は目を細めた。
「一度、翔真くんのご両親に会いに行きなさい」
戒めるような眼差しに、ふうは息を呑んだ。
怒られていると不安にもなった。
それでも、母は纏う雰囲気を和らげはしなかった。
「翔真くんって長男なんでしょ。結婚したいなら、ふうのことや今後のことも含めて、ちゃんと話さなきゃダメよ」
「…そういうことを気にする人もいるの?」
「当たり前でしょ!」
母親の声が、静かな店内に響いた。
ふうの世代では、結婚は必ずしなくてはいけないものではないし、出産もまたしかり。むしろ、それを周りが強要することは非常識だと思われている。
だからこそ、今後の結婚生活についてあれこれ説明する必要はない。
ふうはそう思っていた。
「ふうたちはあまり気にならないかもしれないけど、お母さんたちの世代はまた考え方が違うの。オメガで定職についていなければ、子を儲けられないかもしれない人とは結婚させたくないって思うかもしれないんだから」
「………」
ふうは目を泳がせると、顔色を窺うように母を見つめた。
「お母さんは…孫ほしい?」
ほしいに決まってる。
そう言いかけて、母は言葉を飲み込んだ。
孫の顔は見たいし、できれば世話もしたい。たまに家に泊めて、無責任に甘やかしたい。
けれど、出産と育児がいかに大変なことかは嫌と言うほど知っていた。
そして、おそらく自分の娘にはそれらに耐えられるだけの気合がないことも。
「本音を言えば、孫の顔は見たいよ。でも、育てるのはあなたたちなんだから、あなたたちがどうするか決めなさい」
ふうは瞳に不安を映すと、こてんと首を傾けた。
「…決めるのは私たちなのに、説明しに行かないといけないの?」
「いけないわよ。大切な息子さんと結婚させてもらいたいならね」
逃げ道を求め、甘えてきたふうに、はっきりと伝える。
それでも抵抗があるのか、目を泳がせ、言葉を発せずにいる彼女に思わずため息をついた。
「翔真くんのご両親に嫌われてもいいなら、別にしなくていいんじゃない?」
「それは、ダメ」
「そうでしょ?」
万人に好かれなさい、なんて大それたことは言わないし、教えない。
それでも、関わらなくてはいけない人たちには最低限の嫌われない努力はしなさいと説いた。
「大丈夫よ。翔真くんのご両親なんだから、視座が低いなんてことはないと思うわ」
コーヒーカップを持ち上げると、ふうの母は優雅に笑った。
つられてコーヒーカップを持ち上げながら、ふうは口角を下げた。
「翔真の実家、遠いんだよね…」
「あら、そうなの?」
「うん」
「新幹線に乗ったりするの? それなら、なおのこと早く席を取らなきゃダメよ」
「新幹線には乗らないけど、電車を乗り継いで二時間近くかかるらしい。年末は普通の電車も混む?」
「混むわね。会社勤めの人たちがお休みになるから」
ふうは大きなため息をつくと、乱暴に髪をかき上げた。
色素の薄い細い毛がふわりと揺れて、舞う。
母は、その光景に目を細めた。
(…この娘が結婚か)
元々内向的で、友だちを作るのも上手くなくて、心配することが多かった。
(今思えば、愛梨ちゃんと仲良くなれたんだからそれだけで十分だったのに、なんで私は…友だちは多くなくちゃいけないって思ってたのかしら)
普通の子として生きて欲しかった。
大学までいって、会社に勤めて、結婚して、出産して、そういう普通の人生を歩んでほしかった。
オメガだとわかってからも、なるべくそのレールを外れてほしくなかった。
だからこそ、学校に行きたくないと言われても、獅子が我が子を谷に落とすかの如く、学校に通わせ続けた。
(今なら、その選択は間違っていなかったと思える)
一緒に生きていきたいと思えるほどの人と出会うことができたのだから。
(でも、もし、翔真くんと出会えなかったら…どうしていたのかしら)
それは想像するだけで恐ろしい世界だった。
(私のことだから、アルファとお見合いさせてたかもしれないわね。それが幸せなことだって)
母は再びコーヒーカップを持ち上げると、茶色い水面を覗き込んだ。
そして、重力に従ってたるむ顔を見つめる。
(もし、結婚を反対されたら──)
どんなに考えても、その先の答えは出てこなかった。
いや、考えたくもなかった。




