30:ヒート
ふうはソファーに腰掛けたまま、棚の上に置かれている小さなカレンダーを見つめた。
十二月中頃。そろそろヒートが来てもおかしくはない時期だった。
いつもならば、ただただ憂鬱なだけなのに、今回ばかりは好奇心が疼いている。
その理由は、新しい抑制剤を飲み始めてから初めて迎えるヒートだから。
(はづきは体調を崩すって言ってたな)
ふうは無意識に自身の首を擦った。
少しだけ冷たくなっていた首筋は擦るごとにじんわりと温かくなっていった。
それに疑問を抱き、翔真と共有している健康管理アプリを開いて、ここ数日の体温を確認した。
(平熱が続いている)
ヒートが近づくたびに体温が上がっていくはずなのに、いまだにその症状は現れていなかった。
そういえば、とふうは天井を仰いだ。
(ヒートが来ると、ネガティブになることが多いのにそれもない)
もし、このまま、十二月が終わったら。
終わってくれたら。
そんな希望が胸に宿ったが、それは数時間後には潰えることとなった。
午後七時、翔真の帰りを待ちながら寝室のカーテンを閉めていると、くらりと目眩がした。
それからはあっという間だった。
体に力が入らなくなり、息が乱れ、乗っていたベッドから一歩も動けなくなった。
一瞬、何が起こったのかわからなかったけれど、吹き出してくる汗にヒートが来たのだと理解した。
(こんな、急に?)
熱にうなされながら、それでも自分の意思で体を動かし続け、考えるのをやめなかった。
(熱い、しんどい。でも、意識がある)
その事実が、ふうにとっては何よりも大きな変化だった。
ボロボロと涙が溢れてきて、視界が滲んで前が見えなくなる。
(もっと、もっと早く、この薬に出会えてたら)
周囲を傷つけずに済んだのに。
自分が辛いだけで終わらせることができたのに。
嬉しいという感情と共に数え切れないほどの後悔が押し寄せてきて、頭の中がグチャグチャになっていった。
そんなふうを悲しみの底から救ったのは、他の誰でもない翔真だった。
仕事から帰ってきてすぐ、彼女の出迎えがないことに疑問を抱いた翔真は早足で寝室まできた。
「ふう、体調悪いのか?」
仕事用のカバンを足元に乱暴に落とし、コートを脱ぐことも忘れて、翔真は手を差し伸べた。
「翔真、ヒートがきた」
翔真の指先がふうの頬に触れた瞬間、その言葉が鼓膜を揺らした。
つい、体を硬直させた。過去の経験から、無意識に警戒心を抱いた。
けれど、目の前にある双眼はしっかりとした光を宿して、翔真を見つめている。
本能に飲み込まれた獣の瞳とは全く違った。
「意識ある。薬が効いてる」
ふうの言葉を、翔真はすぐに理解できなかった。
けれど、彼女の涙につられて、いつの間にか視界が滲んでいた。
「そうか。よかったな」
翔真はそう返すのが精一杯だった。
それに目を細めながら、ふうは両腕を伸ばした。
「翔真、抱きしめて」
その願いを、翔真はすぐに叶えた。
初冬の夜を歩いたせいで冷え切っていた体が、徐々に熱くなっていく。
「きっと、これからもっと良くなる」
「うん」
翔真の体に押しつぶされながら、その重みの心地よさにふうは笑みを浮かべて頷いた。
「ねぇ、翔真」
「ん?」
「ヒートがこなくなったら、翔真は好きな時に有給を使えるようになるんだよね?」
「あぁ、そうだな」
「じゃあ、大学生の時みたいに平日にデートがしたい」
耳元で楽しそうに話すふうの声で、数年前の記憶がよみがえってきた。
大学生の時は、人気のない平日に二人で頻繁に出かけていた。
また、そんな時間を過ごせるようになるかもしれない。
それが夢のようだった。
「あぁ、行こう」
翔真は上半身を起こすと、ベッドに沈むふうを見つめた。
布団に散らばる髪の束も、潤んだ瞳も、赤い頬も、全てが愛おしく思える。
本能のまま、導かれるようにふうの額に口づけを落とした。
「翔真、体の熱が引かない」
「辛いか?」
ふうはゆっくりと唇を動かした。
「もっと抱きしめてほしい」
ふうの両腕が首に絡みつき、翔真は引き寄せられた。
二人の体はより密着し、吐く息さえ混じり合う。
明かりがついたままの部屋の中、それでも二人の視界はお互いのことしか認識できないほど狭く薄暗かった。
(これが、本来のヒートなのか)
翔真は求められることに喜びを感じながら、そんなことを考えていた。
色んなことがどうでもよくなり、目の前にいるパートナーと同じ時間を過ごしたいという想いが溢れてくる。
こんなにも幸福な時間は生まれて初めてだった。
「ふう、好きだ」
ふうを覆うようにベッドに手をつき、キスをする。
触れるだけですぐに離れると、もっとと言わんばかりにふうが距離を詰めてきた。
「私も好き」
何度もキスを重ね、荒い息遣いと衣擦れが寝室に響く。
ふうのヒートに、翔真の理性も崩れていった。
「──やべ、寝てた」
はっと目を覚ました翔真は、思わず心の声を口にした。
天井からは燦々と光が降り注ぎ、まるで昼間のように明るい。
しかし、サイドテーブルに置かれた時計の針は午後十時を差しており、カーテンの向こう側には暗夜が広がっていた。
(明日も仕事だっつーの)
眠るふうを眺めていたら、いつの間にか寝落ちしてしまった。
聞こえてくる寝息が途切れないように注意しながらベッドから下りると、乱暴に脱ぎ捨てたスーツを拾って、寝室の明かりを消した。
(飯、飯、飯かぁ。まぁ、軽く食うか)
色んなことが面倒くさい。できることなら、あの多幸感を抱いたまま朝を迎えたかった。
そんな本音を隠すことなく、翔真は冷蔵庫に入れていた冷ご飯を電子レンジで温めると、卵と醤油をかけて、軽く胃を満たした。
そして、流れ作業のようにシャワーを浴びて汗を流すと、ようやくスマホがチカチカと点滅していることに気がついた。
(メール…)
濡れた髪をタオルで拭きながら、届いたメールを確認すると、それは母親からのものだった。
『年末に帰ってくる件なんだけど、おばあちゃんがせっかくだから一泊していかないかって』
メールの内容に、翔真は眉間にシワを寄せた。
久しぶりに孫が帰省することに合わせて、婚約者との顔合わせ。
浮かれているであろうことが、文面からでも伝わってきた。
(…俺の両親と祖父母とはいえ、ふうにとっては初対面の人たちだからな)
一日一緒に過ごしただけで、気疲れしてしまうのが目に見えていた。
断ることは簡単だったが、翔真は結論を保留にした。
(ふうに聞いてからだな)
彼女がどうしたいか、それが最優先事項だった。
(母さんと父さんは、たぶん問題ない)
オメガと結婚しようとしていることも、子供を作ることなく二人で生きていこうとしていることも、おそらくは理解してくれるだろう。
指摘することはあれど、最終的には息子の意思を尊重してくれる人たちだから。
ただ、と翔真はため息をついた。
(──問題はばあちゃんとじいちゃんだ)
決して、悪い人たちではない。
ただ、価値観が何世代も前で止まってしまってることが問題だった。
(オメガと結婚することは認めてくれても、子供のことは理解してくれないかもしれない)
ふうがオメガだからこそ、余計に。
もう一度ため息をついた時、寝室からふうの呼ぶ声が聞こえてきた。
どうやら目を覚まし、寝ぼけながら翔真を探しているらしい。
(やめやめ、こんな良い日なんだから)
翔真はスマホの画面を消すと、笑みを浮かべて寝室へと戻っていった。




