26:捨てられた番
テーブルに届いたばかりの時は熱々の湯気を漂わせていたカツ丼が、程よく冷めてきた。
おかげで口の中を火傷する心配もなく、翔真は咀嚼していく。
濃い味付けの中で、玉ねぎの酸味がつんっと駆け抜けていった。
「あの、話したくなかったら話さなくていいんですけど ──」
そんな前置きと共に翔真は尋ねた。
「なんで、烏山先生と番にならないんですか?」
尋ねられた飛田は、僅かに目を見開いた。
箸に挟まれていた豚肉の生姜焼きがずり落ちそうになるも、寸前のところで踏みとどまる。
そのまま視線を泳がせて口ごもる彼女に、翔真は一抹の不安を覚えた。
(…セクハラとか言われたらどうしよう)
今後はプライベートでも関わる機会が増えそうだからと踏み込んでみたものの、飛田にその気がないのならば、年下の女性社員にセンシティブな話題をぶつけてしまったことになる。
番になるならないの話題は、結婚するしない、出産するしないと同格の話題に位置づけられていた。
「あー、ごめんなさい。踏み込みすぎましたね。忘れてください」
翔真は自身の額に手を当て、作り出した影の中で眉間にシワを寄せた。
沈黙に耐えられずに謝罪すると、飛田が慌てて首を横に振った。
「いえ、重い話になるので話していいのか、迷ってしまっただけです」
「重い話?」
首を傾げた翔真の顔色を窺うように、飛田は慎重に話し始めた。
「実は、私の母もオメガなんです」
カーテンで仕切られた半個室の中、他の誰にも聞かせないように、声を潜めて。
「母は典型的なオメガで、アルファである父と番になり、結婚しました。でも、母は ── 捨てられた番、なんです」
捨てられた番。
翔真には聞き馴染みのない言葉だった。
けれど、褒められた称号ではないことは、ニュアンスから理解することができた。
「捨てられた番にも種類があります。一方的に契約を切られた場合、浮気をされて裏切られた場合、そして放置された場合。母は、番である父にずっと放置されています」
飛田の説明に、翔真は混乱した。
番というのは、一度結ぶと抗うことのできない強固な関係性だとされてきた。
つまり、契約は解除できないし、お互いがいなければ生きていけないほど依存し合う。
それが番なんだと、思っていた。
「番を蔑ろにする人がいるんですか…?」
だからこそ、翔真はどうしても信じることができなかった。
今までそんな例を聞いたことがなかったし、番というものを運命的な美しいものととらえていたからかもしれない。
飛田は悲しそうに笑った。
「番を蔑ろにする人は極めて少ないです。でも、確かに存在します」
「そう…なんですか…」
常識だと思っていた知識がひっくり返った衝撃で、翔真はそう返すのが精一杯だった。
「父は、いくつもの会社を経営しています。とても忙しくて、基本的に家にはいません。それでも、私が小さかった頃は、定期的に母に会いに帰ってきてました」
飛田は目を細めた。
その眼差しは翔真ではなく、じっとテーブルの木目を見つめている。
しかし、その木目でさえも、認識していないような虚ろな眼差しだった。
「父はだんだんと帰ってこなくなり、とうとう国外で仕事をするようにもなりました。父の名誉のために言いますが、衣食住に困ったことはありませんし、怒鳴られたり殴られたりしたこともありません。ただ、おそらく、家族よりも仕事が大切で、私たちと話すよりも世界中を相手に取引するのが楽しいと感じる人なんだと思います」
結婚が向いていない人。
翔真の中の、飛田の父親に対する印象はそれだった。
「何日も連絡が返ってこなくなり、何ヶ月も会えなくなり、母は番である父に捨てられたのだと認識しました。それから、 ── 母は壊れてしまいました」
飛田は耳たぶを引っかいた。
まるで、すぐ近くで母親の泣き叫ぶ声を聞いたかのように。
「…父親には連絡したんですか?」
「はい。父は、一度だけ母の様子を見に帰ってきました。でも、泣き叫び、父がもうどこにも行かないようにと足を切ろうとした母に恐怖を感じて、それ以降帰ってきてません」
「………」
壮絶な話に、翔真はごくりと喉を鳴らした。
テーブルに置かれたカツ丼は更に冷え、もう湯気すら立たなくなっていた。
「罪悪感からか、父がたくさんの使用人を雇ったので、私がヤングケアラーになることはありませんでした。でも、私は…人を強烈に依存させる番という関係を怖いと思いました」
「それは…仕方のないことですよ」
翔真は月並みな言葉を送った。
それ以外の言葉が思いつかなかった。
「烏山先生を疑ってるわけじゃありません。でも、父のように忙しい人だから…怖いんです」
飛田は苦笑いを浮かべると、話の結論を語った。
それは彼女が、努力して社会に溶け込もうとしている理由も補ってしまうほどの説得力を持っていた。
「…ごめんなさい、暗い話をしてしまって。昼休みが終わっちゃうので食べましょう」
場の空気を切り替えるように、再び箸を動かした飛田につられて翔真も箸を動かした。
けれど、先に言わなくてはいけないことがあり、口を開いた。
「飛田さん、話してくれてありがとう」
余計なことを話してしまったと俯き気味になっていた飛田は、パッと顔を上げた。
そして、翔真に引かれていないことを知り、表情を和らげた。
「はい! こちらこそ、聞いてくださってありがとうございます」
二人は雑談を交えつつ、注文した料理を平らげていった。
飛田の話を聞く前と聞いた後で、全く空気が変わらなかったと言えば嘘になる。
しかし、二人の間に気まずさはなかった。
「ふうも、外で働こうか迷ってるんです」
会計を済ませ、店の外に出てから、翔真はポツリと呟いた。
「知り合いにカフェを経営してる人がいて、声をかけてくれたんです」
飛田はその大きな瞳を輝かせると、ぴょんっと小さく跳ねた。
「素敵なことだと思います!」
その過剰なリアクションが烏山と被り、翔真はつい笑ってしまった。
きっと、二人が一緒にいる時はとても賑やかなのだろう、と微笑ましくもなった。
「北野さんは、やっぱり心配ですか?」
「はい。でも、コーヒーが好きなのは知ってるので、本人がやりたいなら尊重したいです」
知り合いのカフェで働くといっても、苦労が全くないわけではない。
働くなら公私混同はできないし、ふうに社会人経験がないことなど客にとっては関係のないことだ。
そして、ふうもそれをわかっているからこそ、なかなか決断できずにいる。
「今度話す時、良かったら背中を押してやってください。飛田さんは、ふうの希望になると思います」
希望。
その言葉を受け、飛田の瞳が水の膜に覆われた。
それは溢れることなく、差し込む光を反射して、宝石のように輝く。
「…私にとっては、ふうさんが希望です」
飛田の言葉に、翔真は目を丸くする。
「だって、ふうさんが北野さんと平和に暮らせれば、オメガは番がいなくても幸せに生きていけるって証明できるから」
そんなこと、考えてもいなかった翔真は意表を突かれて足を止めた。
飛田は「ふふふ」と軽快に笑うと、人差し指を立てた。
「気づいていませんでしたか? ふうさんと北野さんも、けっこうすごいことを成し遂げようとしてるんですよ!」
翔真は今まで、仕事に真摯に向き合っている真面目な飛田しか知らなかった。
しかし、茶目っ気のある振る舞いに、こちらが本性なのだと知った。
「いやいや、俺なんてそんな」
ふうと飛田は仲良くなれるだろう。
翔真は笑みを浮かべて、前を向いた。




