24:忘れていた夢
リビングの端に立ち、ふうはぐるりと部屋の中を見渡した。
脱ぎ散らかした衣服はどこにもないし、朝食時に使用した食器はもう食洗機の中にある。
埃一つ落ちていない、とまでは言えなくとも、綺麗な分類に入るだろうと頷いた。
「由美さん、もうすぐ?」
寝室にある姿見を前に、ネクタイを締めながら翔真が尋ねてきた。
そんな彼の横顔に視線を注ぎ、ふうは頷いた。
「由美さんが承諾してくれてよかった」
「お義母さん、パートの日なんだっけ?」
「うん」
昨日、新しい抑制剤を飲んだふうは副作用により嘔吐してしまった。
そのため、今日も体調を崩す可能性が高く、付き添ってくれる人を探していた。
最初に白羽の矢が立ったのは、ふうの母親だった。
しかし、パートがある日だと断られしまい、ふうは由美に助けを求めた。
由美はカフェが休みの日だからと快く承諾してくれて、朝早くにふうたちが住んでいるこの部屋まで来てくれることになった。
「…誰かを招くの初めてだよね?」
「そういえばそうだ」
ふうの言葉に、翔真は思わず目を丸くした。
この部屋に住み始めて三年近く、二人はこの空間をとても大切にしてきた。
共通の友人はいるけれど招く気になれなかったし、そんな二人の気持ちを察してか無遠慮に遊びに来ようとする者もいなかった。
それは互いの両親であっても。
「冷蔵庫の中にお茶請け用のケーキが入ってるから」
「ありがとう」
「あとは、ふうがコーヒーを淹れたら問題ないと思うぜ」
こちらからお願いして来てもらうのだからと、二人は昨日のうちから由美を招く準備をしていた。
それが冷蔵庫で冷えているケーキと、ふうがいつも淹れているコーヒーだった。
ふうは小さく肩を落とす。
「カフェの店主さんにコーヒーを出すの、ちょっと緊張する」
「はは、確かに。相手はプロだもんなぁ」
翔真が笑い声を上げた時、インターホンのチャイム音が鳴り響いた。
ふうは体の向きを変えると、迷うことなくインターホンに出た。
モニターの中には、エントランスに立っている由美の姿が映っていた。
「由美さん、おはようございます」
『あ、おはようございます』
「いま、開けますね」
ふうがオートロックを解除すると、モニターの中で由美がお辞儀をした。
「由美さん、ぴったりじゃん」
「ね、流石だ」
棚に置いてある置き時計を一瞥してから、翔真は感心の声を上げた。
それに頷きを返し、ふうはもう一度チャイム音が鳴るのを待った。
再びチャイム音が鳴り響き、ふうは玄関のドアを開けた。
途端、朝の早い時間だというのに、由美が爽やかな笑顔と明るい声で挨拶をしてくれた。
それになんだか、遠い日の、中河原と共に学校に通っていた頃のことを思い出した。
「今日はよろしくお願いします」
ふうは、湧き上がってくる懐かしい感情に体が震えそうになるのを堪えて、笑みを浮かべた。
「はい。よろしくお願いします。これ、手土産です」
由美は大きなトートバッグの他に、店名が刻まれた紙袋を持っていた。
それを受け取ったふうは、首を傾げながらも中身を確認した。
すると、中にはフィナンシェなどの焼き菓子がいくつも入っていた。
「お店で出してるものです」
由美の説明に、ふうは目を丸くした。
「そ、そんな、こちらからお願いしたことなのに…」
「気にしないでください。私が持っていきたくて持ってきたものですので。もし、気に入ったものがあったら、ぜひ購入しに来てください」
「ありがとうございます」
味わって食べよう、とふうは心に誓った。
そんなふうの背後から、翔真が顔を覗かせた。
「おはようございます、由美さん。今日はよろしくお願いします」
「あ、北野さん。こちらこそ、今日はお邪魔しますね」
二人に挟まれ、ふうは邪魔にならないように静かに壁際に寄った。
翔真の手には仕事用のカバンが握られており、もう家を出なくてはいけない時間なんだとわかった。
「翔真、いってらっしゃい」
「あぁ、いってきます」
由美が目の前にいるというのに、翔真は普段の習慣から、ふうの頭を撫でた後にうなじへと手を下ろした。
そして、自分がやらかしたことにも気づかず、爽やかな笑みを浮かべて、玄関を通り抜けていった。
「本当に仲が良いんですね」
由美のキラキラとした眼差しに、顔を赤くしながら、ふうは彼女をリビングまで案内した。
今日は、昨日と比べても体調が良く、足取りも軽い。
おそらく、薬の成分に体が慣れてきているのだろう。
(このまま何も起こらず、由美さんとお茶して終われたらいいのになぁ)
ふうは、そんな楽しい時間を過ごせることを願っていた。
「これから薬を飲みますが、もし体調を崩して寝てしまったら、好きにテレビをつけてもらって大丈夫です。少ないですが本もあります。あと、冷蔵庫の中のものも、ご自由にどうぞ」
ローテーブルを挟んで、向かい合わせに座り、ふうは由美にそう説明した。
そして、急変した場合の連絡先を伝えてから、三錠の薬を手のひらに転がした。
由美の瞳が、まじまじとその粒を見つめる。
「三錠も飲んでるんですね」
「はい。でも、今日も副作用が強く出たら数が減るらしいです」
「そういう…量を確認する治験なんですか?」
「はい」
ふうはあらかじめ用意していた水の入ったコップを左手に構え、薬を飲み干した。
薬は途中で引っかかることもなく、水に流されていった。
そのことに、二人は自然と肩の力を抜いた。
「…毎日同じ時間帯に飲むって、けっこう面倒ですよね」
「はい。翔真がいなかったら、飲むのを忘れたりすると思います」
「だから、北野さんがいる朝に?」
「はい」
「うちの櫂は、朝練がある時は早いけど、ない日は昼近くまで寝てるので…いつ飲むか悩みますね」
由美は顎に手を当てると、目を細めて、自分のことのように考え始めた。
「…櫂くん、サッカーを続けてるんですね」
聞いてはいけないような気がしながらも、ふうはつい尋ねてしまった。
それに対して、由美は嫌な顔をせずに、笑みを浮かべた。
「はい。本人が中学の間は全力でやると決めたんです。潔くやめるために、と」
カフェで櫂の話を聞いた時は、人との生活に居心地の悪さを感じているように思えた。
だがそれは、取り越し苦労だったのかもしれない、とふうは笑みを返した。
「櫂くんは強いですね」
「少し生意気なところもありますけどね」
ふうの言葉に、由美はそう続けた。
少し刺々しい物言いだったが、端々に愛を感じる声色と表情だった。
その時、昨日と同じように、ふうの視界がぐらりと揺れ始めた。
目を開けていると酔ってしまいそうで、ふうは慌てて瞼を下ろした。
「もしかして、副作用ですか?」
「…はい。このままちょっと横になります」
動いたらいけない気がして、ふうはそのままカーペットの上で寝転がった。
真っ暗な視界の中、由美が履いたスリッパがパタパタと移動する音が聞こえてくる。
それはまるで大きなうさぎの足音のようだった。
「片倉さん、クッションと毛布です。脱衣場からタオルも持ってくるので、それで視界を暗くしましょう」
突然のことに慌てることもなく、テキパキとこなしていく由美に、ふうは素直に従った。
「暑いとか、寒いとかありますか?」
「今は大丈夫です」
クッションを枕にし、毛布に包まれていると、かなり楽な気分になった。
「由美さん、ありがとうございます」
「いえいえ。このために来たんですから」
タオルで覆われた暗闇の中、由美の優しい声が聞こえてきた。
「…片倉さんってコーヒーを淹れるんですか?」
少しの沈黙を挟んだ後、由美がそう尋ねてきた。
おそらく、キッチンにあるコーヒーミルを見つけたのだろう。
小舟に乗っているような感覚を体験しながら、ふうは小さく頷いた。
「はい。後で、淹れさせてください」
「いいんですか?」
「はい。由美さんが淹れるコーヒーには劣りますが、通販で豆を買って、ブレンドしてるんです」
「まぁ、すごく本格的ですね!」
「数少ない楽しみです」
ふうが笑みを浮かべると、また少しだけ沈黙が流れた。
その静かな時間に身を任せていると、再び由美が口を開いた。
「片倉さん、もしご興味があったら…私の店で働きませんか?」
「え?」
ふうは思わず瞼に乗せていたタオルを掴んで、持ち上げた。
細い視界の中で、キッチンを見つめていた由美がゆっくりと振り向いた。
「小さな店ですが、ありがたいことにSNSなどの口コミのおかげで客足が増えているんです。あと、他に店員がいてくれたら、私も気軽にトイレに行けるようになります」
由美の茶目っ気のある微笑みに、ふうは戸惑いを隠せなかった。
「私…履歴書真っ白ですよ」
ふうは大学を卒業してから、どこかに働きに出たことがなかった。
アルバイトをしたことがなければ、派遣社員にも契約社員にもなったことがない。
社会に出ることは二度とないだろう、とすら思っていた。
「片倉さんが破天荒で、社会のルールを守れないような人だったらお声がけしてません。もちろん、無理にとは言いません。気が向いたら、教えてください」
由美はそう言うと、ふうの手に触れ、タオルを優しく瞼の上に戻した。
再び訪れた暗闇の中で、ふうはぐるぐると色んな感情が渦巻いていくのを感じた。
歓喜、混乱、恐怖。
そして、頭の中で自分の明るい声が響いた。
── 私、カフェを作りたい!
まだ、夢を失う前の幼い自分は、両親にそんな夢を語っていた。
そのことを、ふうは静かに思い出していた。




