23:広がっていく世界
ふうはベッドに寝転がったまま、薄く瞼を開き、青色のグラデーションが美しいカーテンが揺れるのを眺めていた。
今日は天気が良く、柔らかい風も吹いている。
きっと過ごしやすい日になるだろう。
安定した呼吸を繰り返していると、ピピピピっと電子音が鳴り響いた。
脇に挟んでいた体温計を取り出し、表示されている数字を一瞥してから、ベッド脇に座っている翔真に手渡した。
「三十六・三度ね」
翔真は確認するように呟いてから、左手に握っているスマホを操作し、いつものように健康管理アプリに入力していった。
(私も、治験日誌に書かないと…)
ふうは使命感から上半身を起こすも、想像よりもずっと重い体に目を見開いた。
「大丈夫か?」
体を硬直させたふうに、いち早く気がついた翔真は、彼女の背中に手を添えて支えた。
「体重い…」
「薬の副作用だろうな。吐き気は?」
「視界がちょっとグラグラする」
一昨日の金曜日、ふうと翔真は大学病院に出向き、新しい抑制剤の研究についての話を聞いてきた。
そして、同意の上でふうは被験者になることを決め、昨日から新しい抑制剤を飲み始めている。
病院で検査をした結果、新しい抑制剤の成分が、ふうの体に大きな悪影響を与えることはないと証明されている。
それでも、今まで体内に存在していなかった成分が、少しずつ体質を変化させており、その反動で副作用が出ていた。
「立てるか?」
「うん。朝ご飯食べて、薬飲まないと」
「薬を飲んだ後にまた寝てもいいからな」
「うん」
新しい抑制剤は、毎日同じ時間に飲まなくてはいけない。
理由としては、そうすることでホルモンの波をなだらかにして、症状を和らげるからだ。
低用量ピルをモデルにした、と烏山は語っていた。
飲む時間帯は被験者が自由に決めて良いとのことだったので、ふうは朝食後を選んだ。
空腹を避けることで副作用を出にくくし、翔真がいることで飲み忘れを防ぐ。
それは最良の選択だった。
立ち上がることはできたが、ふうの足取りはいつも以上に覚束ない。
寝室からリビングまで手を引いた翔真は、彼女をローテーブルの前に座らせた。
「危ないからキッチンには立つなよ」
転んだら、どんな大惨事になるかわからない。
険しい顔でそう言ってきた翔真に、ふうは素直に頷いた。
(…コーヒー淹れたかったなぁ)
朝食を作る翔真の隣で、二人分のコーヒーを淹れるのがふうのルーティンだった。
しかし、包丁などがあるキッチンに近寄ることは憚られ、副作用が強まる可能性のあるカフェインをこのタイミングで摂取するのも悪手になる。
ローテーブルに重い体を預け、テキパキと朝食を作る翔真の背中を眺めた。
(次は、翔真に自動調理器を贈ろう)
中河原が教えてくれたのだが、材料を入れるだけでカレーやスープができる機械で、とても便利らしい。
頭の中で値段を予想しながら、頬杖をつくと、左手の薬指がキラリと輝いた。
その光に驚いて、視線を向けたふうは、たまらずに笑みをこぼした。
(指輪…)
いまだに存在を認識するたびに驚いてしまうが、その指輪がふうの指にはめられてから、既に二日が経過していた。
飾り気のないシンプルなそれは端から見れば価値なんてないのかもしれないが、ふうにとっては何物にも代えがたい宝物になっていた。
朝食を作り終えて戻ってきた翔真の薬指にも、同じ指輪がはめられていて、ふうは小さく笑い声を上げた。
「ん? どうした?」
朝食が乗った皿をローテーブルに置きながら、翔真は急に笑い出したふうに眉を寄せた。
「お揃いの指輪してるなぁって」
「そりゃあ、するだろ」
「うん。嬉しい」
「さいですか」
つられて笑った後、翔真はふうの頭を優しく撫でた。
朝食を食べ、新しい抑制剤を飲み終えた後、ふうは治験日誌にペンを走らせていた。
カチャカチャと翔真が食器を食洗機に入れる音を聞きながら、今朝の体温や体調について、なるべく細かく書いていく。
途端、大きな目眩が襲ってきた。
「っ…!」
食べたばかりの朝食が迫り上がってくる感覚に、ふうは慌てて口元を押さえた。
冷や汗が噴き出し、口元を押さえる手が小さく震え始める。
翔真に助けを求めたくても声を発することができなくて、ふうはよろけながらも立ち上がった。
「ふう?」
トイレへと向かうふうに気がつき、翔真は首を傾げた。
けれど、聞こえてきた嘔吐する音で、すぐに容態が変化したのだと察し、慌てて追いかけた。
そして、トイレに顔を埋めるふうのために、水の入ったコップやタオルを用意し、背中を撫で続けた。
「全部出してもいいんだからな」
ふうの耳に届いているのかは定かではない。
そんな余裕がないことも理解している。
それでも、翔真はふうが落ち着くまで、声をかけ続けた。
『薬の量が多かった可能性がありますね。明日もこのまま継続していただいて、それでも嘔吐が起こるようでしたら、お手数ですがまた電話してください。一度に飲む量を減らします』
体力を消耗し、眠ってしまったふうをベッドに運んでから、翔真は烏山に電話をかけた。
電話越しに、烏山は淡々とした声色で仮説を説明し、指示を出してくれた。
本来ならばそれに安心感を覚えるはずなのに、翔真の焦りと不安はくすぶり続けていた。
『…突然のことで驚かれましたよね?』
「はい…」
察するように問いかけてきた烏山に、翔真は弱々しい声で返した。
そして、ベッドで横になるふうに視線を注いだ。
顔色は青白く、いまだに眉間にシワを寄せて苦しんでいる。
(明日は月曜日…)
会社に出勤しなきゃいけない日だ。
つまり、ふうに付き添い続けることはできなかった。
「明日も、嘔吐する可能性はあるんですよね」
『体が薬の成分に慣れて、今日よりは症状が軽いとは思いますが、起こる可能性は十分にあります』
頭の片隅で、有給の残量を数える。
金曜日に病院への付き添いをするために取得したばかりで、その分の仕事も溜まっている。
くしゃり、とベッドシーツを握った時、烏山が口を開いた。
『あの、個人情報の観点で詳しくは話せないのですが、葉月…じゃない、飛田さんにお話されるとアドバイスをもらえるかもしれないです』
それは秘め事を教えるかのような、小さな声だった。
「それって…」
『あー! これ以上は言えないです! 私が怒られる!』
無意識に深掘りしようとした翔真は、大きな声に驚いて、慌てて口を閉ざした。
けれど、飛田もまたこの研究に関わっているかもしれないという予想を立てることはできた。
『…あと、本当にお辛い場合は、辞退することも可能です。その際は、片倉さんと話し合った後に、言ってくだされば対応します』
おそらく、貴重な被験者を逃したくないだろう。
それでも、逃げ道を用意してくれた烏山に、翔真は感謝の言葉と共に深々と頭を下げた。
電話を切り、大きく息を吐くと共に髪をかき上げる。
そして、改めて明日をどう乗り切るか考えようとした時、服の裾を掴まれた。
「翔真…」
いつの間に起きていたのか、ふうが薄く開けた瞳で見上げてくる。
翔真は目を見開くと、慌てて向き直り、彼女の頬に触れた。
「大丈夫か?」
「うん。まだ胃がムカムカするけど…」
「烏山先生に電話したら、量が多かった可能性があるって。明日も嘔吐するようなら、電話してくれって言ってた」
「うん。ありがとう」
ふうは頷きを返しながらも、裾を掴む指先から力を抜かなかった。
何か伝えたいことがある。
そう感じて、翔真はあえて口を閉ざした。
「翔真、あとで私からお母さんに電話する」
「え?」
「説明して、明日来てもらう。お母さんが無理なら、愛梨か由美さんに相談してみる」
助けてくれるであろう人物を挙げて、ふうは懸命に説得しようとしていた。
「だから、大丈夫だよ」
大丈夫。
その言葉に、翔真は目を見開いた。
そして、自分たちの生活に多くの人たちが関わっていることを実感し、その温かさに、少しだけ泣きそうになった。
「…わかった。なぁ、ふう」
「なに?」
「飛田さんが、ふうと話してみたいんだってさ」
「烏山先生の恋人の?」
「そう。さっき気づいたんだけど、飛田さんってこの新しい抑制剤に関わってるのかもしれない。だから、普通に働けているのかも」
実際に、笹塚から聞いた話では、長期的に休みを取ることもなく、他の人とほとんど変わらずに働けているらしい。
だからこそ、契約解除されることもなく、今でも会社に貢献し続けている。
ヒートが軽いオメガなのかとずっと思っていたけれど、既に新しい抑制剤でヒートを抑えている可能性もある。
だからこそ、話をしてみたらどうだと勧められたような気がした。
「まぁ、急に抑制剤の話をすんのもアレだけど、同年代で同性のオメガなんて珍しいんだろ?」
「うん。話してみたい」
ふうは瞳を輝かせると、翔真の首に腕を絡ませて、引き寄せた。
翔真はされるがまま身を寄せ、ふうにもたれかかった。
「楽しみだなぁ」
ふうの呟きに、翔真はひっそりと笑みを浮かべる。
ふうがこれから訪れるであろう未来に希望を見出していることが、彼にとって、何物にも代えがたい幸福だった。




