22:もう一つの
「あらぁ、可愛いー!」
最寄り駅から各停電車に乗り、主要駅で地下鉄に乗り換えて数分。
たどり着いた大学病院の一室で、ふうは呆然と目を見開いていた。
目の前には、大きな黒縁メガネをかけた女性が満面の笑みを浮かべている。
毛先がくるりと内側に巻かれているボブヘアーに、チークで彩られた丸い頬。
耳にはいくつものピアスが輝いており、発せられた声はふわふわと甘い。
見た目の印象だけで判断するならば、中河原の同僚のような彼女は、しっかりと白衣を身にまとっている。
そのシンボルが、彼女が研究者であり医者であることを証明しており、ふうは混乱しながらも状況を理解していった。
「は、はじめまして。片倉ふうです」
「はじめまして、片倉さん。私は烏山と言います」
烏山はふうに自己紹介を済ませた後、彼女の隣に立っている翔真に視線を向けた。
メガネ越しに視線が重なり、翔真は無意識に背筋を伸ばした。
「えっと、あなたは?」
「婚約者の北野です。よろしくお願いします」
「北野さん…」
烏山は翔真の名前を繰り返すと、記憶を掘り起こすかのように視線を泳がせた。
「どこかで聞いたことがあるような…」
「え? はじめまして、のはずです」
「そうですよねぇ」
翔真の言葉に一度は納得したものの、烏山は「なんだっけなぁ」と、喉に刺さった小骨を取り除くかのように繰り返し呟いた。
しかし、思考を切り替えるためか、二人に座るようにと促した後、パンッと両手を合わせた。
「まず先に、私はアルファです。まだ番関係のパートナーはいませんが、五年ほどお付き合いしているオメガがいます。ぶっちゃけた話をすると、今作っている抑制剤は、その恋人の為に作っています」
烏山は笑みを消すと、真剣な表情で自分自身のことを赤裸々に話し始めた。
ふうと翔真は意外な展開に驚きながらも、静かに耳を傾けた。
「その恋人は、一回り年下の女の子で、今年社会人になりました。大学時代、たくさんの資格を取得して、頑張って就活をしましたが、オメガということで内定を貰えず、派遣社員として働いています」
オメガ女性で二十代の派遣社員。
翔真の頭の中で、自然と飛田の姿が浮かび上がってきた。
他にいないとは言い切れないが、いくつもの共通点があることも確かだ。
「あの、もしかして…その恋人は飛田という名字だったりしますか?」
翔真が抱いた疑問を口に出すと、烏山は大きく目を見開いて、身を乗り出した。
「そうです! 彼女の知り合いですか?」
「同じ会社に勤めています」
返ってきた答えに、烏山はぽんっと手を叩いた。
リアクションの一つ一つが大きい。けれど、不自然さはなく、嫌味もない。
演技でもなんでもなく、これが彼女の性分なんだろうと翔真は思った。
「あー! 思い出した! 彼女が入社してすぐの時にミスをフォローしてくれた北野さん、ですね?」
「あ、はい。そうです」
「どうりで聞いたことがあると思いました! いやぁ、スッキリした!」
悩みが一つ解決したからか、烏山はケラケラと明るく笑った。
しかし、その明るい雰囲気を片付けるかのように無表情に戻ると、鋭い眼差しで翔真を見定めた。
「彼女の働きっぷりは、北野さんから見てどうですか?」
「優秀だと思います。真面目でやる気もあるし、残業も積極的にしていますね」
翔真は笹塚から聞いた話を思い出しながら、嘘を交えることなく、本音だけでそう語った。
その言葉に、烏山は嬉しそうな悲しそうな複雑な表情を浮かべた。
「はい。彼女は学生時代から真面目で、向上心があり、自立心もありました。未だに私の番になってくれないのも、私に頼って生きていくのではなく、支え合える関係になりたいという想いが強いからです」
なんだか自分たちの関係に近しいものを感じ、ふうと翔真はいつの間にか共感していた。
烏山の話は続く。
「しかし、学校も、会社も、そんな彼女を真っ当に評価してくれず、社会に出ようとすればするほど煙たがられてしまう。 ── おかしいと思いませんか?」
首を傾げて同意を求めた烏山に、ふうと翔真は間髪を入れずに力強く頷いた。
同意を得られたことが嬉しかったのか、烏山は口角を上げて、表情を和らげる。
「だから、作ろうと決めました。愛する人が、望んだ人生を歩めるように」
烏山はデスクの上に置かれていた書類を手に取ると、ふうに向かって差し出した。
「個人的に片倉さんはとても好みの女の子ですが、絶対に手は出さないと誓います。二人きりにならないように配慮しますし、基本的に看護師が同席します。ヒート前後に通院をお願いすることもありません。こんな私の個人的な願望に協力していただけるのでしたら、契約書の内容をご確認の上、同意書にサインをお願い致します」
書類の後にペンを差し出され、ふうは受け取った。
そして、翔真と顔を寄せながら、紙の上に並んでいる文字を追いかけ始めた。
「いくつか、質問してもいいですか?」
「もちろんです」
沈黙の後、顔を上げた翔真に、烏山は余裕のある笑みを浮かべた。
この機会を逃すまいと、翔真はずっと抱えていた不安を吐き出していった。
「副作用は、どのような症状が起こり得ますか?」
「現状確認されているものでは、吐き気、眠気、怠さ。あと極稀ですが、不正出血が起こることもあります」
「副作用は、どのぐらい長引くものですか?」
「個人差はありますが、まずは飲み始めの一、二週間ですね。体が薬に順応すれば落ち着いていきます。ただ、ヒート前後などのホルモンが大きく変化する時期に症状がぶり返すこともあります」
「急に体調が変化した場合、すぐに連絡が取れる手段はありますか?」
「はい。二十四時間対応している電話窓口がありますので、少しでも不安があればかけてください」
まるで最初から用意していたかのように、烏山は翔真の質問に淀みなく答えていった。
おそらく、こうやって説明するのは初めてではなく、何度も経験しているのだろう。
その様子に、この研究はすでに始まってからそれなりの年月が経っているのだと理解した。
翔真が口を閉ざしたのを確認してから、ふうは静かに片手を上げた。
「あの、この薬が一般的に使えるようになるのにどれぐらいかかりますか?」
ふうがそう質問をすると、烏山は小さく唸り声を上げて、情報を整理していった。
そして、ゆったりとした口調で説明し始めた。
「新薬が一般的に販売されるようになるまで、四つの段階を踏まなくてはいけません」
烏山は右手を顔の横まで持ち上げると、一本ずつ指を立てていった。
一つ目は、フェーズ一。少数の患者で安全性を確認する期間。
二つ目は、フェーズ二。少数の患者で適切な量と使い方を確認する期間。
三つ目は、フェーズ三。多数の患者で最終的な有効性と安全性を確認する期間。
そして、四つ目。ここまできて初めて、国の審査を受けられるようになり、価格などを決めていく。
指を四本立ててから、烏山は小指と薬指を再び折り曲げた。
「この研究は、現在フェーズ二の段階にいます。このまま順調に進んだとしても、最低でも三年はかかります」
「三年…」
ふうは、あまりにも長い期間に、先の見えないトンネルの前に立ったかのような気持ちになった。
その恐怖と絶望が、ペンを握る強さに反映される。
「ただ、研究に被験者として協力してくださった場合、継続投与という形で提供することができます」
続いた言葉に、ふうは無意識に伏せていた目を上げた。
烏山は、彼女の不安を受け止めるかのように、笑っている。
「つまり、片倉さんは他の人よりも早くこの薬を日常的に使えるようになります」
ふうは、暗闇に染まったトンネルの先で、わずかな光を見つけた気がした。
リスクを取らずに三年以上待ち続けるか、リスクを取ってすぐに新しい抑制剤を得るか。
ふうの中で、答えは完全に決まった。
「翔真…」
最終確認のため、ふうは翔真を見上げた。
色々と質問をして、多少の不安は解消されたものの、絶対に安全とは言えない現状に翔真は複雑な顔をしていた。
けれど、もう止められないこともわかっていた。
「ふう、絶対に無理はするなよ」
「うん」
「体調が悪くなったら、隠したり遠慮したりせず、周りを頼れ」
「うん」
素直に頷くふうの手を取り、翔真は祈るように握った。
「俺も、できる限りのことはするから」
「ありがとう」
翔真と額を重ねてから、ふうはペンを握り直した。
そして、迷いなく同意書にサインをし、烏山に差し出した。
「先生、これからよろしくお願いします」
「はい。こちらこそ、ご協力ありがとうございます」
ふうの名前がサインされた同意書を恭しく受け取り、烏山は深々と頭を下げた。




