21:指輪
翔真の足音が行き交う中、ふうは膝を折り曲げて、テレビ台に置かれているストームグラスを見つめていた。
雫の形をしたガラスケースの中では、大きめの結晶が液体全体に広がっており、白く染まっていた。
今日の天気はあまり良くないらしい。
幸先の悪さに、ふうは思わず眉間にシワを寄せた。
「ふう、チョーカーをつけよう」
その言葉と共に、ふうは折り曲げていた膝を伸ばして、翔真に駆け寄った。
そして、自ら進んで髪をまとめると、素直にうなじを差し出した。
「今日、天気悪いみたい」
「折り畳み傘持っていくか」
「うん」
金属がぶつかり合う音が何度も小さく響き、チョーカーのベルトが締まった。
ふうは無意識にチョーカーと皮膚の隙間に指を突っ込むと、息苦しさにため息をついた。
そんな彼女を褒めるように頭を撫でてから、翔真は口を開いた。
「帽子も被るか?」
「うん」
翔真はポールハンガーにかけられたキャップを指先で掴むと、ぽすっとふうの頭に乗せた。
それをしっかりと被り直し、ふうは用意していたカバンを肩にかけた。
「よし、行くか」
「うん」
「体調悪くなったらすぐに言えよ」
「わかった」
最終確認を経て、二人は一緒に住んでいる家から外に出た。
もちろん、折り畳み傘を忘れずに。
最寄り駅にたどり着いてすぐ、ふうは無意識に足を止め、その建物を見上げた。
(…すごく久しぶりに見た)
ふうは自分の行動範囲を意図的に狭くしている。
そのため、電車に乗るのは本当に必要な時だけで、数年ぶりのことだった。
各停しか止まらない駅のため、建物自体はこじんまりとしており、平日の昼間ということもあって人気はほとんどない。
それでも、ふうは今すぐにでも家に帰りたくなってしまった。
「ふう、大丈夫か?」
「…大丈夫」
小さく息を吐き、深々と帽子を被り直してから、数歩先にいる翔真に歩み寄った。
そして、彼に連れられる形で改札を通り抜けた。
(…煩い)
改札の音、電車が来ることを知らせる放送、ドアが閉まる時の警告音。
通り過ぎる人たちの色とりどりのファッションに、壁に貼られているポスター。
普段なら一ヶ月かけてやっと得られるほどの情報量が一気に襲いかかってきて、ふうは目眩を感じた。
けれど、翔真を含めた他の人たちはそれを当たり前のものとして受け入れ、意識すらしていないように見える。
それが、ふうに疎外感を与えた。
「翔真は、いつもこの駅を使ってるんだよね?」
「まぁな」
「すごいね…」
「?」
すごい。
毎日電車に乗れるなんて、普通に生きられてる人たちは本当にすごい。
ふうは心の底からそう思うのに、当人たちはそのすごさを理解していないようだった。
道中、自動販売機で水を購入してから、二人はホームへと降りた。
「昨日、お母さんに連絡したんだ」
「今日のこと話したのか?」
「うん。それで、本当に通院するつもりなら、可能な時は付き添ってくれるって」
「おー、よかったじゃん。頼んどけって」
「うん。あと、結婚は大賛成だって」
「それはよかった」
翔真は、照れくささから苦笑いを浮かべた。
ふうの両親とは何度か会ったことがあり、同棲をする際には腹を割って話したりもした。
オメガの娘を預けるということで何かと不安があるはずだ。
それなのに、信頼してくれていることを、翔真は誇らしく思った。
「…翔真は、親に結婚のこと話した?」
帽子の影の中、ふうが青白い顔で尋ねてくる。
翔真はペットボトルのキャップを開けながら、首を横に振った。
「まだ」
おそらく、両親は良い顔をしないだろう。
同棲をすると決めた時もそうだった為、翔真はそう予想している。
両親は決して、ふうのことが嫌いというわけではない。
ただ単に、オメガで、定職についていない人と生きていこうとしている息子を案じているだけだった。
「でも、俺の将来だから」
差し出したペットボトルを受け取って、ふうは口をつけた。
そんな彼女の横顔を、翔真は静かに眺めた。
「翔真…」
濡れた唇を手の甲で拭った後 ──。
「私から逃げるなら今だよ」
ふうは仄暗い瞳で諭してきた。
そんなことを言われるとは露とも思わず、意表を突かれた翔真は目を見開いた。
「はぁ?」
少しだけ怒りを孕んだ間の抜けた声が響く。
「翔真が私にしてくれてることって介護に近いと思う。それにすごく助けられてるし、甘えてしまっているのも自覚してる。でも、簡単にできることじゃないって…わかってるつもり」
ふうは目をそらすと、胸の前で握りしめているペットボトルを睨みつけた。
「私は翔真と結婚したいけど、それ以上に翔真に幸せでいてほしい。だから…」
翔真は眉間にシワを寄せると、ふうの言葉を遮るようにペットボトルを力強く掴んだ。
そして、彼女から奪うように取り上げると、胸を大きく張って煽った。
ごくごく、と彼の喉が大きく動く様に、ふうは呆気にとられて口を開けていた。
乱暴に濡れた唇を拭った後、翔真は真っ直ぐにふうを見つめた。
「あのなぁ、俺は好きでもない奴のために時間や労力を割けるほどお人好しじゃねぇよ。告白もプロポーズも、自分からしたから自覚ないかもしれないけど、ちゃんと俺に好かれてるのを自覚しろ!」
翔真の言葉に続いて、ホーム全体に放送が流れた。
二人が乗ろうとしている電車がもうすぐ着くらしい。
相変わらずぽかんと口を開けているふうに、翔真の方が恥ずかしくなってしまった。
翔真は項垂れるように俯くと、静かにペットボトルのキャップを締めた。
「…俺もずっと思ってた。ふうは俺と付き合い続けるよりも、アルファの番を見つけた方が幸せなんじゃないかって。だから、なかなか踏ん切りがつかなくて言い出せなかったけど…ふうが俺と結婚したいって言ってくれて、すげぇ嬉しかった」
電車がホームに滑り込んできて、大きな風が吹いた。
透明な風の向こう、翔真は泣きそうなのを堪えるように笑った。
「同情なんかじゃねぇよ。役に立ってるっていう優越感でも、使命感でもない。俺も、一緒に生きていきたいって思っただけだ」
電車のブレーキ音があらゆる音をかき消していった。
それでも、ふうは翔真の言葉を聞き漏らしはしなかった。
「翔真…」
震える声で名前を呼ばれ、翔真はぎこちなく顔を上げた。
まだ顔が熱く、情けない表情をしている自覚がある。
それでも視線を合わせると、手を差し出された。
「………」
無言のまま、その手に自分の手を重ねる。
そして、涙を溜めるふうの瞳に笑いかけた。
「行こう」
「うん」
開いた電車のドアを、二人でくぐる。
乗客は疎らにしかおらず、ほとんどの席は空いていた。
二人は手を繋いだまま、近くの席にそっと座って、身を寄せ合った。
「なぁ、ふう」
「何?」
「病院の帰りに、体力的に余裕があったら…指輪を買いに行こう」
「え…」
翔真は真っ直ぐに前だけを向いていた。
ドアが閉まり、正面にある窓の風景が後ろへと流れ始める。
「婚約指輪ってやつ」
今日の検査が終わって、本格的に研究に協力することが決まってから、言おうとしていたことだった。
婚約指輪を買って、ふうに着けてもらう。
それは、アルファがたくさん勤務しているであろう大学病院に通う時に、既にパートナーがいるという盾になるから。
毎回付き添うことのできない翔真は、そうやって少しでも安心したいと思っていた。
「婚約指輪ってペア?」
「いや、片方が贈るものなはず」
「なら、ペアの指輪がほしい」
ふうは翔真に寄りかかると、一度繋いでいた手を解いて、指を絡ませた。
「二人でつけたい」
瞼を下ろして微笑んだふうに、翔真もまた寄りかかった。
「じゃあ、ペアリングにするか」
「うん」
二人は、繋いだ手に視線を集めた。
もう少ししたら、そこにはめるであろうお揃いの指輪を思って。




