02:静かな朝
海中を切り取ったような青色のグラデーションが美しいカーテンが開け放たれた窓から朝日が差し込む。
それを背に受けながら翔真はベッド脇に座って、瞼を閉じて横たわっているふうを見下ろしていた。
重力に従って流れる彼女の髪の隙間から首筋が見える。
色が白いからか、青色の血管がはっきりと浮かび上がっている。
翔真は無意識に手を伸ばすと、うなじの滑らかさを確認してから、柔らかな髪を撫でた。
その感触にふうが目を開くと同時に、ピピピピ、という電子音が鳴り響いた。
「見せて」
翔真が手を差し出すと、ふうは寝転んだまま脇に挟んでいた体温計を渡した。
表示されている数字は三十六・一度。
「まだ大丈夫そうだな」
そう呟きながら、翔真はスマホのアプリを起動させた。
それは使用者の健康に関する記録を残して、グラフや平均値を出してくれるものだった。
そのアプリに、慣れた手つきで先程の体温を入力していく。
それは、ふうと暮らし始めてから翔真が身につけた習慣の一つだった。
オメガには三ヶ月に一回、ヒートという発情期が必ず来る。
それは強烈なフェロモンを放ち、もし近くにアルファがいれば、たちまちアルファの理性を奪ってしまうほどのものだった。
アルファが理性を失えば、オメガは本能的に抵抗することができない。
その末に、アルファにうなじを噛まれてしまったら、番という一生解消することのできない強制的な関係性が生まれる。
そうならないために、翔真はふうの健康管理をして、いつヒートが来るのかを予測できるようにしていた。
「朝飯にしよう」
翔真が立ち上がると、ふうも遅れてベッドから起き上がった。
もう完全に眠気が消えている翔真とは違い、ふうは欠伸が絶えず、足取りも不安定だ。
それでも、彼の背中を追いかけて寝室からリビングダイニングへと移動した。
二人の朝食はパンを中心にしたメニューか、白米を中心にしたメニューの二通りしかない。
今日はまだ食パンが残っているため、前者となった。
翔真は慣れた手つきで、油を引いたフライパンに卵を三つ落とし、蓋をした。
白身はすぐに火が通るけれど黄身は時間がかかる。
黄身が焼けるのを待っている間に、冷蔵庫に入っている野菜を洗って切って、簡単なサラダを作った。
手際よく朝食を作っていく翔真の隣で、ふうは相変わらず半分寝たまま、なんとかコーヒーミルのもとにたどり着いた。
そして、よたよたとした動作でコーヒーミルの近くに置いてある豆が入った袋を手に取った。
しっかりと止めていた袋口を開けると、芳醇な香りが一気に広がっていった。
ふうはそれを思いっきり吸い込み、笑みを浮かべる。
その凝縮された香りにほんの少しだけ目が覚めた彼女は、コーヒーミルに豆をセットして、鼻歌を歌いながらのんびりとハンドルを回し始めた。
(相変わらず呑気なやつ)
聞こえてくる鼻歌に、無意識に口角を上げながら、翔真は六枚切りの食パン三枚をトースターの中に並べていった。
二枚は翔真の分で、一枚はふうの分。目玉焼きもそうだった。
「「いただきます」」
完成した朝食は、リビングダイニングの中央に置かれたローテーブルの上に並べられた。
二人はそれを囲んで座ると、声を揃えて、手を合わせた。
テレビをつけていないため、食器のぶつかる音や、小鳥のさえずり、散歩中の犬の鳴き声が心地よく響く。
それに時たま耳を傾けながら、二人はそれぞれのリズムで朝食を食べていった。
翔真は二枚のトーストにさっとマーガリンを塗ると、使い終わったバターナイフとマーガリンの容器をふうに差し出した。
ふうはそれを受け取り、一枚のトーストにマーガリンを塗っていく。
端から端まで丁寧に。
カリッと焼けたトーストの表面にバターナイフを滑らせた時に鳴る音が好きだと、以前ふうは語っていた。
その瞬間を楽しみながら幸せそうにマーガリンを塗るふうの姿に、翔真は吹き出しそうになったが、パンを飲み込むことでなんとか誤魔化した。
(ほぼ毎日してることを、なんであんなに楽しめるんだか)
そんな疑問が浮かびつつも、その姿に癒されている自分がいることにも、翔真は気がついていた。
彼女のことを愛おしいと思う理由の一つだった。
朝食を食べ終えた後、翔真は冷凍食品を駆使して簡単な弁当を作ると、汚れた食器類を食洗機に放り込み、会社に出かけるための身支度を始めた。
顔を洗い、ヒゲを剃り、スーツを着る。
忙しなくテキパキと動く翔真を不用意に邪魔することなく、ふうはテレビの隣に飾られているストームグラスを眺めた。
ストームグラスは、ふうがネットで一目惚れした置物で、雫の形をしたガラスケースの中に透明な液体が入っている。
中の液体が透明でキラキラとした結晶が底に沈んでいたら晴れ、結晶が浮かび上がっていれば雨や雪、全体的に濁っていたら嵐、といったように直近の天気がわかる代物だ。
今日のストームグラスは澄んでおり、結晶たちは底に沈んでいる。
どうやら晴れらしい。
ふうは姿見の前でネクタイを締めている翔真に嬉々として報告した。
「晴れ、ね。了解」
ストームグラスを購入して間もない頃、翔真はその天気予報をあまり信じていなかった。
けれど、意外とストームグラスの歴史が長いことを知り、大きく外れないことを繰り返し体験してからは疑わなくなった。
それに、たとえ予報が外れて雨が降ろうとも仕事用のカバンの中には常に折り畳み傘を入れているので何も問題はなかった。
「洗濯するね」
「おー、洗濯機に入れたまま忘れないようにアラームつけておけよ」
「うん」
ふうは料理をすれば怪我をするし、掃除をすれば床を丸く掃く。そして、洗濯をすれば洗濯機の中に濡れた洗濯物を放置してしまうのだが、決して本人のやる気がないわけではなかった。
むしろ、翔真の役に立てることだと知っているからこそ、ふうは積極的にやりたがる。
だから、結果として失敗してしまっても、翔真は怒ったことがない。
そのため、ふうはいまだに挑戦することをやめなかった。
身支度を終えた翔真は仕事用のカバンを手に取り、玄関に向かった。
ふうもそれを追いかける。
「んじゃ、行ってくる」
「うん」
「不用意に外に出んなよ」
「うん。翔真」
「ん?」
靴を履き終えたタイミングで名前を呼ばれ、翔真は振り返った。
大きな瞳が寂しげに見つめてくる。
「 ── 早く帰ってきてね」
ふうは翔真が外出するたびにそう言う。
だからこそ言われ慣れているはずなのに、いつまでたっても彼女と同じように寂しくなってしまう。
翔真は手を伸ばし、彼女のうなじを撫でてから、ぽんっと頭に手を置いた。
「おぅ。ちょっとだけ待っててな」
「いってらっしゃい」
「いってきます」
翔真は後ろ髪を引かれる思いで、二人で暮らしている家から外に出た。
翔真はなるべく残業をしない。残業をした方が出世しやすいと、同期や上司に数え切れないほど言われているがしていない。
理由は、家事が苦手なふうの代わりに夕飯を作らなくてはいけないというのもある。
けれど、それは建前で、彼女が寂しがるから早く帰りたかった。
(いや、寂しがってるのは俺の方か?)
まぁ、どっちでもいいか。
翔真は不意に浮かんだ疑問を振り払い、早く帰りたいと思いながら会社に向かった。




