01:小さな駅の1LDK
翔真はチラリとパソコンの斜め下に表示されている時計を確認した。
現在の時刻は十七時四十五分。定時まで残すところ、あと十五分だった。
今日中にしなくてはいけない作業は全て片付いている。
(このまま何も起こらなきゃ、定時で帰れるな)
彼はパソコンに向かってひっそりと笑みを浮かべた。
その時だった。
背後から怒声が聞こえてきた。
翔真は反射的に顔を上げ、椅子を回転させると、怒声が聞こえてくる方角に視線を向けた。
周囲の人たちも同じように視線を集めている。
(トラブルか?)
目を凝らすと、同期の一人が顔を赤くしながら、怒鳴っているのがわかった。
その同期の向かいには、背中を曲げて俯く女性の姿がある。
(見覚えがないな…)
最近、入社してきた人だろうか。
翔真が首を傾げると、隣の席に座っていた後輩が小さな声で耳打ちしてきた。
「先月、入社してきた派遣の人ですよ」
「へぇ。よく知ってんな」
「そりゃあ、そうですよ」
派遣社員は山程いるし、入れ替わりも激しいため、関わりのない他部署の人までは把握しきれない。
それなのにきちんと記憶していることを不思議に感じた翔真に、後輩は過剰な反応を示すことなく頷くと、怒鳴られている女性を指差した。
「ほら、あのチョーカー」
指摘されてよく見てみると、女性は確かに首にチョーカーを巻いていた。
もちろん、オシャレのためにつけているわけではない。
オシャレさの欠片もない黒くて無骨なデザインのそれは、一部の者が自分を守るために身につける物だった。
「あの人、オメガなんですよ」
その言葉に、翔真は自然と顔を歪めた。
翔真が生まれるより遥か昔、この世には第二の性別として三つのバース性が生まれた。
アルファ、ベータ、オメガ。
その三つのバース性は、本来の男女という性別に関係なく、全ての人類に根付いている。
あらゆる面で優れ、社会のリーダー的存在になりやすいアルファ。人口の八割を占める一般的なベータ。そして、アルファと同じくらい希少なオメガ。
今やその三つのバース性は、本来の性別よりも強く、社会を動かしていた。
「俺、オメガを見たのって初めてなんですけど、やっぱり色々と劣ってるんですかね」
怒られている様子からして、そのオメガの女性が何か失敗をしてしまったのは明白だった。
それを感じ取り、後輩は淡々とした様子で思っていたことを口にした。
オメガはアルファと同じくらい希少なのに、あまり崇められることはない。むしろ、蔑まれることが多い。
それは、オメガの特徴のせいだった。
オメガはアルファを惑わすフェロモンを定期的に放ってしまう。
その特徴から、オメガは人を惑わすことしか能のない下半身の生き物、なんて揶揄されるようになり、それが巡り巡ってオメガは劣っているという評価になってしまった。
翔真は盛大にため息をつくと、後輩の後頭部を軽く叩いた。
「それは差別でセクハラだ。気をつけろ」
「あ、はい。すいませんでした」
悪気はなかったのだろう。
叱られた後輩は不機嫌になることもなく素直に謝罪した。
翔真はまたチラリと時計を確認する。
定時まであと十分。
同期の醜態を見過ごすのには、あり余る時間だった。
「あー、めんどくせぇ」
翔真は小さく呟きながら立ち上がり、いまだに怒鳴り続けている同期の元に向かった。
「これだから、オメ ──」
「はい、そこまで。笹塚、一旦落ち着けって」
これだから、オメガは。
そう、決定的な言葉を言いかけた同期・笹塚の肩を叩き、翔真は仲介に入った。
邪魔をされた笹塚は眉間にシワを寄せたまま振り返った。
けれど、翔真の呆れ顔を見て、はっとしたように息を呑んだ。
「…北野」
「皆の前で怒鳴りつけるのはパワハラだ。あとバース性で批判するのはセクハラになる」
「あ…」
翔真に言われ、笹塚はさっと青ざめた。
声をかけられたことで冷静さを取り戻し始めたらしい。
その様子に、翔真は胸をなで下ろした。
「で、何があったんだよ」
笹塚に尋ねながら、怒鳴られていた女性の様子を確認すると、瞳に大量の涙を溜めて、こちらを見上げていた。
(…オメガじゃなかったら、きっと周りからチヤホヤされてたんだろうな)
美しい容姿を持つのに蔑まれる彼女を、翔真は心底気の毒に思った。
それと同時に、オメガだからこそ、他者の庇護欲を掻き立てるような美しい容姿であることも理解していた。
(やるせない)
そんな気持ちを抱えながら、笹塚が説明するトラブルの内容について聞いた。
彼らに声をかけた時から、翔真は残業を覚悟していた。
そして、予想通り彼らを手伝うことになったのだが、どうしても譲れないことがあった。
「お前らの手伝いはするけど、俺は十八時半には絶対に帰るからな」
そう断言した翔真に、笹塚は「そういえばそうだった」と呟き、派遣社員 ── 飛田は首を傾げた。
「アレだろ、料理が苦手な彼女の代わりに晩飯作るんだろ」
笹塚の言葉に翔真は迷うことなく頷いた。
「帰るのに一時間かかるから、そのぐらいに出ないとコンビニ弁当になっちまう」
「一日ぐらい別に良いじゃんか」
「ダメだ。アイツはまともな料理をしないから昼もまともなもん食ってねぇ」
「じゃあ、もっと近い所に住めよ。相変わらずあの寂れた各停駅に住んでんだろ?」
「ふうは…いや、彼女は人混みが苦手なんだよ」
「あっそ、愛してんね」
笹塚はそそくさと会話を終わらせると、自分の席に座り直した。
そして、パソコンに視線を落とした。
それを真似するように自分のパソコンを取りに行こうとした翔真に声をかけたのは他の誰でもない飛田だった。
「あ、あの、ありがとうございます!」
感謝の言葉に、翔真はひらりと片手を振った。
「いえいえ、アルファだろうとベータだろうと失敗は誰でもしますから」
翔真はパソコンを取りに行きながら、自分が放った言葉について考えた。
失敗は誰でもする。
それなのに誰もがオメガの失敗には過剰な反応を示す。
それは何故なのだろうか、と。
約束通り、十八時半まで残業した翔真は、作業がまだ完了していないのにも関わらず宣言通りに帰路についていた。
元々、あれは翔真の仕事ではないし、そもそも他部署の仕事だ。
業務内容的にも最後まで手伝えないことは笹塚たちも理解していたため、感謝の言葉と共に送り出してくれた。
(あの二人の雰囲気もだいぶ和らいでいたから大丈夫だろう)
電車の吊り革に掴まりながら、スマホをいじる。
誰からも私用の連絡が来ていないことを確認してから、SNSを巡回していく。
趣味でやっているFPSゲームで今度イベントが行われるらしい。
その情報を知らせる投稿にいいねを押して、翔真はそのまま情報の海に飛び込んでいった。
経営が順調なベンチャー企業の社長を務めるアルファへのインタビュー。人気アイドルの奇跡の一枚。そして、アルファに無理やり番にされたと主張して裁判を起こしているオメガの記事。
翔真は急激に現実に引き戻されたような気がして、瞬きを繰り返した。
(…無理やり…番に)
そんなことがあるのだろうか。
内容が気になるけれど、今日は残業をして頭が疲れているため、本能が悲観的なものを拒否している。
迷った末に翔真は他のアプリを起動した。
そして、その動画再生アプリでクラゲが泳ぐ様子がひたすら流れるだけの動画を見始めた。
「………」
ふよふよと自由に漂うクラゲの姿を見ていると無心になれる。癒やされる。
だからこそ、翔真はその時間をとても愛していた。
途中で急行から各停に乗り換えると電車の中は空き始め、座れるようになった。
そして、数えるぐらいにしか乗客がいなくなった頃、彼はやっと最寄り駅にたどり着いた。
閑散とした駅の周辺には、大きなスーパーとドラッグストアがある以外には、ぽつぽつと小さなお店があるだけで、他は民家しかない。
人気の少ない夜道を翔真は迷うことなく進んでいった。
小さな駅の近くだからこそ、それなりの家に安く住める。
オートロックを抜け、エレベーターに乗った翔真は住んで三年目になる部屋の重厚な扉に鍵を差した。
ガチャリ、と重い音を立てて鍵が開くと、「ただいま」と声をかけながら中に入った。
途端、慌てたようにパタパタと足音が近づいてきた。
「お、おかえりなさい」
リビングダイニングから顔を覗かせた女性の髪はあちらこちらに跳ねていた。
色の白い頬には布の跡がついており、扉の開く音で飛び起きたであろうことが伝わってきた。
翔真は苦笑いを浮かべて、彼女に声をかけた。
「ただいま、ふう。何も問題なかったか?」
ふうと呼ばれた女性は無邪気に笑って頷いた。
大丈夫だよ、と伝えるために。
翔真はふうに手を伸ばし、流れるような動作で彼女のうなじに触れた。
そして、そこが今朝と変わらず滑らかで傷一つないことを知り、安堵した。
それは、ふうがまだ誰の番でもないことを証明していた。
「晩飯にしよう」
うなじから手を離し、彼女の頭にぽんっと手を乗せてから、翔真は靴を脱いだ。
夕飯の言葉に瞳を輝かせたふうは大きく頷いて喜んだ。
翔真とふう。
二人は、ベータとオメガの、本来ならば相容れない存在同士の恋人だ。




